―羽黒山五重塔―
はぐろさんごじゅうのとう
山形県鶴岡市 国宝 1966年指定 日本屈指の米どころである庄内平野。その東に広がる山塊に、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)、および羽黒山(はぐろさん)はある。これら三つの山は総称として出羽三山(でわさんざん)と呼ばれ、古来より修験道の霊場として人々の信仰を集めてきた。いずれも山頂には神社が鎮座しており、三社合わせて出羽三山神社と称される。中でも人里に近い羽黒山は三山の拠点としての役割を担っており、羽黒山の山頂には三山の神々を合祀する三神合祭殿が祀られ、またその参道の途中には南北朝時代に建てられた五重塔が凛々しく聳え立っている。南北朝時代に建てられたその五重塔は東北一の古塔として貴重であり、国宝に指定されている。 出羽三山神社の社伝によると、出羽三山の興りは飛鳥時代初頭の推古元年(593年)、崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)が羽黒山を開山したことに始まるとされる。父親の崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された後、蘇我氏から逃れるために船で出羽国へと下った皇子は、ヤタガラスに導かれて羽黒山にたどり着き、苦行の末に羽黒山を開いたのだという。その後、出羽三山は羽黒派修験道の道場として知られるようになり、また奈良時代には本地垂迹説(神は仏が姿を変えたものであるという考え方)を元に仏教の僧侶たちが寺院を建て、出羽三山は寺社が一体となった神仏習合の霊場として定着した。 その後も出羽三山は修験道と共に発展し、羽黒山を中心に数多くの真言宗寺院が建てられその力を増していった。江戸時代の初期には徳川家の庇護を得るべく、羽黒山と月山が徳川ゆかりの天台宗へと改宗したが、湯殿山のみは真言宗のままで留まった。その為いくつかの湯殿山寺院には、真言宗における究極の修行の形であるとされる即身仏(僧侶のミイラ)が残されている。明治時代に入ると日本全国に廃仏毀釈の嵐が吹き乱れ、出羽三山もまた神仏分離により仏教に関する要素の撤去が行われた。境内の寺院は全て廃され、建物も取り壊されてしまう。羽黒山五重塔はそのような中で残った、数少ない往時の遺産である。 羽黒山の境内入口には随身門があり、そこから山上の三神合祭殿まで、杉の巨木が建ち並ぶ参道が続いている(なお、この杉並木は国の特別天然記念物に指定されている)。この随身門は本来仁王門として寄進されたものであるが、神仏分離の際に神像へ置き換えられ随身門となった。随身門をくぐると継子坂と呼ばれる石段が谷底へと伸びており、その先には須賀の滝が落ちている。かつて羽黒山へ入る人々は、この滝から流れる祓川で身を清めてから山頂へと進んだという。祓川を越えると平坦な道が少し続き、その先から上り坂の参道、一の坂が始まる。その一の坂上り口の左手、杉の巨木の間にたたずむ塔こそ羽黒山五重塔である。 羽黒山五重塔は、平安時代中期である承平年間(931年〜938年)に平将門(たいらのまさかど)が建立したとされるが、それはやや信憑性に欠ける。現在のものは室町時代前期、南北朝時代の応安年間(1368年〜1375年)に再建されたものである。慶長13年(1608年)には信仰に篤い山形藩初代藩主の最上義光(もがみよしあき)により大修理がなされ、その際に発見された棟札により建立時期が判明した。五重塔という名で呼ばれてはいるが、前述の神仏分離により仏教要素が取り除かれている為、この塔も正式には千憑社(よりしゃ)と言い、出羽三山神社の末社という扱いで大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っている。 羽黒山五重塔は三間五重で高さが29m、屋根はこけら葺き。純和様の様式に則って建てられた、彩色や装飾などの無い素木(しらぎ)造りの塔である。初重には高欄の無い縁が巡らされており、軒は垂木が上下二段から成る二軒(ふたのき)で、軒下の組物は肘木を三段に組んだ三手先(みてさき)となっている。組物の間には間斗束が立ち、下部の腰長押にも束を立てるなどといった、古い時代の建築技法も見る事ができる。この塔の周辺も、かつては数多くの堂宇が建ち並んでいたが、廃仏毀釈を経て今では杉の古木に囲まれるのみだ。木々の中にすらりと立つ素木の五重塔は極めて美しく、まさに中世五重塔の代表と言うべき格がある。 2008年11月訪問
【アクセス】
JR羽越本線「鶴岡駅」から庄内交通「羽黒山」行きバスで約35分、「羽黒センターバス停」下車、「羽黒センターバス停」から徒歩約10分。 【拝観情報】
境内自由。 ・明王院五重塔(国宝建造物) Tweet |