―大法寺三重塔―
だいほうじさんじゅうのとう
長野県小県郡青木村 国宝 1953年指定 鎌倉時代、幕府により地頭や守護が置かれ、信濃国における政治と文化の中心であった塩田平(えんでんだいら)。特にその西端にあたる別所温泉は、北条氏の庇護の下に数多くの寺院が隆盛を極めた事から「信州の鎌倉」という異名を持つ。その別所温泉より山を隔てた北側、塩田平を見下ろす山の中腹に、大法寺という天台宗寺院が存在する。伝承では飛鳥時代に起源を持つその大法寺の境内には、鎌倉時代末期に建造された三重塔がそびえ立つ。子ぶりながらも美しい形を持つその塔は、参拝者が石段を下りて帰る際、名残惜しんで思わず振り向かずにはいられないことから「見返りの塔」と称されてきた。 大法寺の起こりは大宝年間(701年〜704年)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の長男、定恵(じょうえ)によって創建された大宝寺がその始まりであるとされる。しかしながら、定恵は665年に死去しているため、その話は定かではない。その後、平安時代の大同年間(806年〜810年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の発願によって、初代天台座主の義真(ぎしん)により再興がなされたということが、寺の記録に残っている。国宝の三重塔が建てられたのは正慶2年(1333年)。すなわち、新田義貞(にったよしさだ)軍が鎌倉に攻め込み、北条高時(ほうじょうたかとき)ら北条氏一族を滅ぼした、鎌倉幕府滅亡の年だ。それは、大正9年の解体修理で発見された墨書により判明した。 大法寺で最も奥まった場所に位置する三重塔は、日本独自の建築様式である和様によって建てられている。屋根は檜皮葺で、その高さは約18.4メートル。三重塔としては京都の浄瑠璃寺三重塔(16.0メートル)に次ぐ低さである。しかし、小ぶりながらも「見返りの塔」と称されるほど、人々の目を引き付けて止まない魅力がこの塔にはある。その要因の一つは、初層の屋根がやや大きめに作られているという点にあるのだろう。その為、バランスの取れた、安定感ある美しい形に見えるのである。この低減率(ていげんりつ、屋根が小さくなる割合)の大きさは、大法寺三重塔における最大の特徴でもある。また、背後に茂る木々とも良く調和しており、その美しさをより一層際立たせている。 鎌倉時代から南北朝時代へと移るその時期、建築はより豪華で装飾的な物へと変わっていった。しかしながらこの三重塔は装飾少なく、素朴ながらも上品で軽やかな印象を受ける。初層は中央間に板唐戸が開き、両脇間には連子窓が並ぶ。板唐戸の上には飾りの無い古式の蟇股が、連子窓の上には間斗束(けんとづか)がそれぞれ入れられている。連子窓の下、腰長押に束が入るのもまた古式の技法だ。組物は初層のみ二手先(ふたてさき、組手が二段になっている)で、二層、三層は三手先(みてさき、組手が三段)。このように、組物の手先を初層のみ減らしている塔は少なく、他には奈良の興福寺三重塔、および石川県の那谷寺(なたでら)三重塔にしか無い。 一見すると彩色の無い素木(しらぎ)造りのようにも見えるが、部分部分に塗料が残されており、建立当時は朱で塗られていたことが分かる。内部の内壁もまた色鮮やかな壁画によって彩られており、剥落こそ激しいものの、現在もなお認めることができる。内部中央には格狭間(こうざま)や擬宝珠(ぎぼし)を用いた折衷様(和様と禅宗様の特徴が混在した様式)の須弥壇が置かれ、そこには大日如来坐像が安置されている。前述の墨書によると、このこの三重塔を建てたのは、大阪の天王寺から来た四郎兵衛ら七人の大工である。つまり、中央の職人による建築であるが為、信濃という地にありながら地方的な荒さの無い、洗練された三重塔に仕上がっている。 三重塔より一段低い所には、江戸時代に建てられた観音堂が建てられている。その内部には須弥壇(鎌倉時代)と厨子(室町時代前期)が据えられており、そこには平安時代中期に作られた桂の一本造(一本の木から掘り出した木像)の十一面観音立像が安置されている。また、本堂には十一面観音立像の脇侍と見られる普賢菩薩立像が置かれているが、これもまた十一面観音立像と同時期に作られたとされる一本造の木像である。これら須弥壇、厨子、十一面観音立像、および普賢菩薩立像は、いずれも当時の様子を今に伝えるものとして貴重であり、重要文化財に指定されている。 2008年08月訪問
2015年05月再訪問
【アクセス】
しなの鉄道「上田駅」から千曲バス青木線乗車約25分、「当郷バス停」下車、徒歩約15分。 【拝観情報】
拝観料100円、拝観時間9時〜16時30分。 ・安楽寺八角三重塔(国宝建造物) Tweet |