―明通寺本堂―
みょうつうじほんどう
―明通寺三重塔―
みょうつうじさんじゅうのとう
福井県小浜市 国宝 1953年指定 福井県西南部、若狭湾とリアス式海岸に抱かれ、古くより天然の良港として人々に知られていた港町、小浜。古代には大陸との玄関口として機能し、また若狭国の国府や国分寺が置かれたその町は、嶺南地方における政治や文化の中心地として大いに栄え、数多くの寺社が建てられた。その小浜に残る古刹の一つ、小浜市街地よりやや東寄りの山中に位置する明通寺には、鎌倉時代建造の本堂と三重塔が昔のままに立ち続けている。それらは和様を基調としながらも、鎌倉時代に大陸より伝わった大仏様を取り込んだ、いわゆる新和様の黎明期における建造物として貴重であり、国宝指定を受けている。 寺伝によると、平安時代初期の大同元年(806年)、東方遠征で蝦夷(えみし、東北地方の原住民)を制圧し、東北地方を平定した征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、自身の娘であり桓武天皇の皇后でもあった坂上春子(さかのうえのはるこ)に皇子が生まれるよう祈願するために、また東北平定の戦いで犠牲者となった敵味方の魂を鎮めるために建立したのが、この明通寺であるという。その後、明通寺は度々の火災に見舞われたものの、鎌倉時代中期に僧侶の頼禅(らいぜん)が、武家より援助を受けて伽藍を復興させた。現在の明通寺本堂と三重塔は、その中興の際に建てられたものである。 明通寺本堂について、正嘉2年(1258年)に上棟され、文永二年(1264年)に落成の法要を執り行ったという記録が残されている。石積の上に建つその本堂の規模は、桁行5間(14.72メートル)に梁間6間(14.87メートル)。屋根はなだらかな勾配と反りを持つ檜皮葺の入母屋造であり、平入の正面側には蔀戸(しとみど、格子に板を張った吊り戸)が吊るされている。蔀戸の上部には柱間を横に繋ぐ長押が付けられており、またその上には蟇股(かえるまた)や間斗束(けんとづか)の中備(なかぞえ)が入るなど、外観は住居風の純和様建築だ。正面に付く一間の向拝や、屋根の側面に見られる妻飾は、その様式より江戸時代に付け加えられたものであるとされ、建立当時のものではない。 本堂内部は、中世仏堂で良く見られる外陣と内陣を分けた構えになっており、須弥壇の背後に立つ来迎柱(らいごうばしら)をやや後ろに据えて、須弥壇前のスペースを広く取っている。須弥壇上部の組物は、手前だけでなく左右にも張り出しているが、これは禅宗様の特徴である。平安時代末期から鎌倉時代初期に作られたとされる本尊の薬師如来坐像は、かつて秘仏であったため状態が良く、重要文化財に指定されている。他にも降三世明王(ごうざんぜみょうおう)立像、深沙大将(じんじゃだいしょう)立像、不動明王立像が本堂に安置されており、平安時代後期に作られたこれらの像もまた重要文化財だ。中でも深沙大将は、西遊記に出てくる沙悟浄のモデルになった神であり、その像が残る例は少ない。 本堂の奥、一段高い位置にそびえる明通寺三重塔は、本堂よりやや時代が下った文永7年(1270年)の建立である。その高さは22.15メートル。屋根は檜皮葺で勾配が緩く、また塔身が細い割に軒は深い為、すっと屹立した印象であり野暮ったさが無い。その深い軒は、三段に組まれた三手先(みてさき)の組物により実現されているものだ。建築様式は基本的に和様であるが、木鼻(きばな、水平材が柱を貫いて出た部分)の一種である拳鼻(こぶしばな)が付くといった、大仏様の特徴も見受けられる。なお、塔に拳鼻が付く例としては、この明通寺三重塔が現存最古。また柱間の寸法を垂木の本数で決める方式を採用している塔としても、最古である。 明通寺三重塔の初重中央間には板唐戸(いたからど)が開いており、脇間には連子窓(れんじまど)が設けられている。板唐戸の上部に中備えとして入るのは間斗束だ。周囲には、擬宝珠によって飾られた高欄付きの縁が巡らされている。心柱は初重の天井上より立っており、代わりに初重内部には四天柱が存在する。四天柱の中央には須弥壇が置かれ、そこには阿弥陀三尊像と釈迦三尊像が安置されている。これら須弥壇や四天柱、また周囲の壁には、十二天像などの仏画が色鮮やかに描かれている。ただしこれは建立当初のものではなく、江戸時代中期、元禄15年(1702年)の修理の際に、上塗りされたものであるという。 2009年04月訪問
【アクセス】
JR小浜線「東小浜駅」からレンタサイクルで約20分。 JR小浜線「小浜駅」からレンタサイクルで約40分。 【拝観情報】
拝観料400円、拝観時間9時〜17時。 ・小浜市小浜西組(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |