―小浜市小浜西組―
おばましおばまにしぐみ
福井県小浜市 重要伝統的建造物群保存地区 2008年選定 約19.1ヘクタール 福井県南西部、若狭国のちょうど中央付近に小浜はある。リアス式海岸で囲まれた若狭湾の、さらに内湾である小浜湾に面する小浜は、良港としての地理的条件を十二分に満たしている。また奈良や京都などにも近いことから、古くより都と日本海沿岸地域との物流の中継地として、そして都と朝鮮半島との交易の玄関口として、その名を馳せていた。江戸時代に入り、小浜城が築かれてからは小浜藩の城下町として発展。小浜では今もなお、城下町時代の町割を見ることができる。その中でも特に西組地区は、商人町や茶屋町、寺町といった城下町時代の名残を色濃く残す地区として、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 小浜は陸運、海運の要衝にあるがゆえ、いずれの時代においても重要地点として見られていた。奈良時代には若狭国の国府や国分寺が置かれるなど、古代から既に嶺南地方における政治、経済、文化の中心地となっていたことが分かる。淡路や伊勢などとともに、御食国(みけつくに)として海産物を朝廷に献上していたりと都との結びつきも強く、そのためか小浜には奈良、平安時代創建の古刹が数多く存在している。また、奈良の東大寺では毎年三月にお水取りが行われているが、その水は若狭神宮寺の鵜の瀬から送られたものであるとされている。 中世には安芸から武田氏が守護大名として若狭に入り、後瀬山城を築いて統治に当たった。武田氏は公家文化にも造詣が深く、戦乱で荒廃した京都から貴族を多く招き入れたりと、文化芸能の復興に尽力した。その結果、小浜に京都の文化がもたらされ、小浜の文化はさらに華やかなものへとなっていった。江戸時代に入ると関が原の戦いで功を奏した京極高次が若狭国へと入封し、北川と南川に挟まれた中州に小浜城を築いて小浜藩を誕生させた。以降、小浜は城下町として整備され、さらに小浜から京都へ至る鯖街道も整えられたことで問屋などの商業が発達し、小浜は商家町としても賑わっていった。 江戸時代初期、城下町小浜はまず東組、西組の二区画に分け整備された。しかし人口が増えて町人地が不足したことから寛永8(1631)年に町が拡大され、さらに貞亭1(1684)年には町割の再区画がなされ、町は東組(回船問屋町)、中組(商家町)、西組(町人町)の三区画に分けられることとなった。現在の小浜の町割りは、この時のものが元となっている。これら三区のうち、今も伝統的建造物の多く残る西組は、かつて後瀬山城の武家屋敷があった場所に作られた町であり、そこには八幡神社の門前町、商家町や茶屋町、後瀬山麓の寺院群などが混在した、複合的な町並み景観を認めることができる。 西組の町並みは後瀬山のたもと、弓なりに伸びる海岸沿いの土地に作られている。海岸と平行して東西に伸びる「通り」と、海岸と垂直に伸びる「筋」によって区画され、そこに間口が狭く奥行きの広い短冊状の町家が連続して配された。主屋の建物は町家特有の二階建て平入。一階には下屋庇が付けられ、二階の両脇には袖壁が設けられているのが特徴的だ。屋根は小浜市内で生産される若狭瓦によって葺かれている。一階、二階部分の開口部に格子がはめられているものも多く、その意匠は各家によって微細に異なりバリエーションも多い。 西組地区の西端付近一帯は通称三丁町と呼ばれており、ここは江戸時代初期より遊郭街として栄えた茶屋町である。三丁町の町並みは、それ以外の西組の町並みと比べて通りの幅、家屋の敷地ともに狭小ではあるが、そこに見られる茶屋建築はベンガラで塗られた千本格子や出格子など、より繊細で華やかな意匠となっており、茶屋町という性格が顕著に表れてたものとなっている。現在、茶屋としては営業している店は少なくなったものの、それでも芸妓を抱えた料亭もわずかながら存在し、三丁町に三味線の音を響かせている。 2009年04月訪問
【アクセス】
JR小浜線「小浜駅」より徒歩約15分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・若狭町熊川宿(重要伝統的建造物群保存地区) ・明通寺本堂(国宝建造物) Tweet |