―金蓮寺弥陀堂―
こんれんじみだどう
愛知県幡豆郡吉良町 国宝 1955年指定 愛知県海岸部、まるで二本の腕のように、海へと突き出た知多半島と渥美半島。それら二本の半島によって、包み込まれるように形成される遠浅の海が三河湾だ。愛知県幡豆郡吉良町は、その三河湾の北岸に位置するのどかな農村地帯である。また吉良町は、岐阜県境から伸びてきた丘陵地帯が、三河湾へと達する場所に位置しており、その丘陵の西端にある饗庭(あいば)地区には、金蓮寺という曹洞宗の仏教寺院が静かにたたずんでいる。現在の金蓮寺は決して大きなものではなく、地元の人々の信仰によって支えられている小規模な寺院ではあるものの、その境内には鎌倉時代に建立された国宝の弥陀堂が建っており、古くからのいわれを今に伝えている。 金蓮寺の創建は、平安から鎌倉へと時代が移り行く最中の文治2年(1186年)、関東を平定して鎌倉に入った源頼朝(みなもとのよりとも)が、三河国の初代守護である安達盛長(あだちもりなが)に命じて建てさせた、三河七御堂(しちみどう)の一つに始まるものであると伝わる。ただし、現存する金蓮寺の弥陀堂は、その建築様式より平安時代にまで遡る事は無く、それよりやや時間が下った鎌倉時代中期の建造であると考えられている。三河七御堂という名が示す通り、三河にはこの金蓮寺弥陀堂以外にも、同様の弥陀堂が六ヶ所にあったという。しかしながら他のものは既に失われてしまっており、今に残る三河七御堂はこの金蓮寺弥陀堂のみである。 室町時代初頭の暦応3年(1340年)には、征夷大将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、光福寺という真言宗寺院の子院をこの地に移している。現在の金蓮寺という寺名は、この際に改められたものだ。その後の江戸時代には、金蓮寺はこの付近一帯を治めていた旗本の吉良氏よる庇護を受けており、寛政年間(1789〜1801年)には曹洞宗へと改宗している。なおこの吉良氏は、かの有名な忠臣蔵において、赤穂浪士による討入りを受け殺害される吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしひさ)で有名な一族であるが、義央は忠臣蔵でのイメージに反し、領地に黄金堤と呼ばれる堤防を築き、新田開発にも力を入れていたなど、地元では名君と称えられる人物であった。 金蓮寺弥陀堂は、平安時代に盛んであった阿弥陀信仰における仏堂様式の阿弥陀堂建築を踏襲しながらも、鎌倉時代の特徴が随所に現れてた建築となっている。その規模は阿弥陀堂建築の通例通り、桁行三間、梁間三間の方三間。屋根は一重の寄棟造で、建造時は檜皮葺きであったが、戦前までは瓦で葺き直されており、昭和29年(1954年)の解体修理の際に再び檜皮葺きに復元された。正面には通し庇と孫庇が付き、その側面に見られる縋破風(すがるはふ)は、緩やかなカーブを描いている。また、左側後部にも二間の庇が付けられており、その軒下には小部屋が付属している。これらの庇が織り成す曲線美、および平面が作る凹凸により、角度によって見た感じが異なるのが特徴的だ。 弥陀堂の垂木は二段に組まれた二軒(ふたのき)で、そのうち屋根を直接支える内側の地垂木(じだるき)は、垂木が密に並ぶ繁垂木(しげだるき)で、外側の飛縁垂木(ひえんだるき)は垂木がまばらに並ぶ疎垂木(まばらだるき)となっている。また、前方の庇を支える柱の上には舟肘木(ふなひじき)が乗り、屋根の荷重を支えている。その極めて深い軒下には、身舎(もや、建物本体の事)の床よりわずかに低く作られた落縁(おちえん)が巡らされており、左右と背後は板壁で一間のみに板扉を設けているが、正面の三間は開放して格子の蔀戸(しとみど、水平に跳ね上げて開く戸)を吊るすなど、平安時代における貴族の住宅風意匠となっている。 弥陀堂の内部は、来迎柱(らいごうばしら、仏像の背後に立てる二本の柱)をやや後退させた位置に立て、それらの前に本堂と同時期に作られたと見られる三尊形式の台座を置き、木造の阿弥陀三尊像を安置している。このうち阿弥陀如来坐像は鎌倉時代に作られたものであるが、脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像は、服装に鎌倉時代の要素が見られるものの、その作風より江戸時代初期に古像を模して作られた作品であると考えられている。これら阿弥陀三尊像は、彫られた時代こそ異なるものの、三対の台座より建立当初から三尊像として祀られていたことは間違いなく、三尊一具として保護すべきであるとして、一括して愛知県指定有形文化財に指定されている。 2010年04月訪問
【アクセス】
名古屋鉄道西尾線「吉良吉田駅」から徒歩約45分。 【拝観情報】
境内自由。 ・浄土寺浄土堂(阿弥陀堂)(国宝建造物) ・大宝寺本堂(国宝建造物) Tweet |