―安国寺経蔵―
あんこくじきょうぞう
岐阜県高山市 国宝 1963年指定 岐阜県北部、古代より飛騨地方の中心地であった高山。その北の外れ、かつて飛騨を統べていた飛騨国府に程近い谷間の高台に、安国寺という臨済宗の仏教寺院が存在する。それは室町時代初期、足利尊氏(あしかがたかうじ)とその弟、足利直義(あしかがただよし)により建立された、全国68の安国寺のうちの一つである。その本堂の裏手には、室町時代の中期に建てられた、禅宗様建築の経蔵が今もなお残されており、その経蔵の内部には、日本最古の回転式八角輪蔵(りんぞう)が設置されている。この安国寺経蔵は、室町時代における禅宗様の経蔵として、また輪蔵を持つ経蔵の代表例として価値が高く、輪蔵を含めたその建物全体が国宝に指定されている。 鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた足利尊氏と足利直義は、臨済宗の僧侶である夢窓疎石(むそうそせき)の勧めを受け、志半ばで崩御した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)や、南北朝の争いによって散っていった戦死者を慰霊する為、暦応元年(1338年)より全国68の国々にそれぞれ一寺ずつ安国寺を建立する事にした。しかしながら、新規に寺院を建立するのは膨大な時間と費用がかかる為、元よりその地に存在していた寺院を安国寺に改めた場合も多い。飛騨安国寺もまたその例で、元は少林寺という寺院であったのを、京都の南禅寺から派遣された僧侶、瑞巌(ずいげん)を開山として、貞和3年(1347年)に臨済宗へと改宗し、安国寺に改められたのだという。 創建以降、安国寺は大いに栄え、七堂伽藍と9の塔頭を有するまでに発展したという。ところが戦国時代、高山に拠点を持つ上杉派の三木氏と、国分寺に拠点を持つ武田派の広瀬氏との抗争に巻き込まれ、天文年間(1532年〜1555年)と永禄年間(1558年〜1570年)の二度に渡って兵火を被り、経蔵、開山堂、および鎮守社の熊野神社以外の堂宇が焼失してしまう。現在見られる本堂は、江戸時代初期の寛永元年(1624年)、高山藩二代藩主の金森重頼(かなもりしげより)により再建されたものだ。なお、焼失を免れた建物のうち、開山堂内に安置されている瑞巌和尚坐像は明徳3年(1392年)のもの、熊野神社本殿は室町後期の建立で、いずれも重要文化財に指定されている。 安国寺経蔵は、大正11年(1922年)に行われた解体修理の際に発見された、輪蔵を支える心柱の墨書より、室町時代の応永15年(1408年)に建てられたと判明している。その建築様式は、鎌倉時代に宋より伝来した禅宗様に則って建てられている。屋根は杮(こけら)葺きの入母屋造。外観は屋根が二重であるように見えるものの、それは裳階(もこし)と呼ばれる庇が巡らされている為であり、実際は一重である。建物の規模もまた、外観からでは三間四方の建物のように見えるが、その三間部分に立つ部材は裳階を支える束であり、柱ではない。身舎(もや、建物本体の事)自体はその内部に存在しており、四本の柱から成る、一間四方の建物となっている。 安国寺経蔵は、屋根が見事に反り返り、柱には頭貫(かしらぬき)が用いられ、壁の上部には弓欄間(ゆみらんま)が巡らされているなど、典型的な禅宗様建築の様相を呈している。しかしながら、仏堂ではなく経蔵である為か、細部は幾分簡略化されており、通常の禅宗様仏殿と比べて簡素な印象だ。禅宗様の建築では、組物は密に並べられた詰組(つめぐみ)、垂木は放射状に並べられた扇垂木(おうぎだるき)であり、内部の床は土間に瓦を敷いたものが一般的であったが、この安国寺経蔵は組物が柱の上部にしか見られず、また垂木も疎らな平行垂木。内部の床も土間ではなく、床板が張られているなど、純粋な禅宗様建築とは若干異なった造りが見受けられる。 経蔵の内部に設置されている八角輪蔵は、経典を納める為の書架であり、床から屋根まで通された心柱を中心に、回転させられるようになっている。これは輪蔵を一回転させる事で、その中に納めたられた経典を全て読んだのと同等の功徳が得られるとされるものだ。安国寺の輪蔵は殊の外規模が大きく、色鮮やかな彩色が施され、上部には精巧な透かし彫りも見られる。この八角輪蔵の存在もまた、経蔵が国宝に指定された大きな一つの理由である。中に納められた経典は、中国杭州の大晋寧寺にて至元代に編纂された木版の一切経が2208巻と、応永2年(1395年)の春日版大般若経347巻が納められており、現在も良好な状態のまま、この輪蔵で保管されている。 2010年05月訪問
【アクセス】
JR高山本線「飛騨国府駅」より徒歩約50分。 JR高山本線「高山駅」よりレンタサイクルで約1時間30分。 【拝観情報】
境内自由。 経蔵の拝観は電話での事前予約が必要で、拝観料は500円。 ・不動院金堂(国宝建造物) Tweet |