―光明寺二王門―
こうみょうじにおうもん
京都府綾部市 国宝 1954年指定 京都府北部、丹波国の山間地帯にそびえる標高582mの君尾山(きみのおさん)。真言宗醍醐派の仏教寺院である君尾山光明寺は、その君尾山の中腹に存在している。かつては山岳寺院として栄え、数多くの堂宇や僧坊を有していた光明寺は、今でこそ閑静なたたずまいの山寺であるものの、その参道入口には鎌倉時代中期に建造された立派な二重門が堂々たる構えを見せている。長年の風雪に晒された挙句、かつては倒壊寸前の哀れな姿を晒していたというが、昭和初期における解体修理にて修復がなされ、その威厳を取り戻した。現存する数少ない二重門。それも鎌倉時代にまで時代が遡るものとして非常に貴重な建造物であり、丹波唯一の国宝建造物に指定されている。 君尾山略記によると、光明寺は飛鳥時代の推古天皇7年(599年)、聖徳太子によって開かれたとされる。また白鳳元年(673年)には、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が、光明寺を修験道の道場としたともされる。その後の延喜年間(901年〜923年)になると、弘法大師空海の弟子であり、醍醐寺の開基でもある理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)によって再興がなされ、以降、光明寺は真言密教の道場として大いに栄える事となった。最盛期には山内に72もの僧坊が存在していたと言うが、戦国時代の大栄7年(1527年)、上林氏の領土であったこの地は、同じく丹波の武家である赤井氏によって攻め込まれ、光明寺にも火が放たれその主要堂宇をことごとく失った。 伽藍の焼失後、領主の上林氏は天文2年(1533年)頃より光明寺の再建を行ったものの、今度は明智光秀(あけちみつひで)の手によって、元亀3年(1572年)、天正7年(1579年)の二度に渡り焼き討ちに遭い、光明寺の伽藍は再び灰燼に帰した。その後はかつての寺勢を取り戻す事無く、江戸時代、明治時代を通じて衰退し、数多くあった僧坊も次々と失われていった。参道にぽつんと取り残された二王門が鎌倉時代にまで遡る古いものであると分かったのは、昭和27年(1948年)に行われた解体修理の事である。上層の柱より宝治2年(1248年)との墨書が見つかり、また床板にされていた棟札に記されていた仁治3年(1242年)の年号から、建立年が判明したのだ。 本堂から離れた位置に建っている事から、度重なる戦火を逃れる事ができた光明寺二王門は、三間一戸(さんげんいっこ、三間のうち中央間のみ開口している門の事)、入母屋造の屋根を持つ二重門である。二重門とは、上層、下層共に屋根を構える二層門の事で、下層に屋根を持たない楼門よりも格の高い門とされていたが、鎌倉時代を境に廃れてしまい、室町時代以降は楼門が一般的な二層門として盛んに建てられるようになった。故に、現存する二重門は数が少なく、特に鎌倉時代にまで時代が遡るものは非常に珍しい。また建造年が正確に特定できるという点でも極めて価値が高く、解体修理が竣工した直後の昭和29年(1954年)、国宝建造物に指定された。 光明寺二王門の屋根は栩葺(とちぶき)である。栩葺とは、杮葺(こけらぶき)と同じく木の皮を重ねて葺く、日本古来の屋根である。杮葺は3mmから5mmぐらいの薄手の板を用いるが、栩葺は10mmから30mmと、非常に厚みのある板を用いるのが特徴だ。光明寺の二王門では屋根材として栗が使用されているが、栗の板で屋根を葺く例は少なく、全国的に見ても珍しい。桁行三間のうち開口部以外の両脇間には床が張られ、それぞれ仁王像が安置されている。通常の二王門では、梁行手前に仁王像を置くのが一般的であるが、この光明寺二王門ではそのスペースを後退させ、奥側に仁王像を安置する珍しい様式を採っている。なお、初重内部の天井は小組格天井となっている。 光明寺二王門は、下層の背面と上層の両面に連子窓が設けられ、組物は下層、上層共に三手先。中備は間斗束が入れられている。垂木は二軒の繁垂木で、軒下に軒支輪を巡らしているなど、全体的には日本古来の建築様式である和様を基調とした建築となっているが、鎌倉時代に大陸より日本に伝わった大仏様の特徴も頭貫の木鼻に認める事ができる。二王門より伸びる参道沿いには、かつて建造物が存在していた思われる、平らに整地された箇所が多数残されており、往時の繁栄を偲ばせる。参道を上り詰めたその先、石段の上に建つ本堂は、江戸時代後期の天保7年(1836年)に建てられたもので、内部には本尊の千手観音菩薩像が安置されている。 2010年08月訪問
【アクセス】
JR山陰本線「綾部駅」よりあやバス「上林線」で約35分、終点「大町バス停」で「於見行き」に乗り換えて約5分、「あやべ温泉前バス停」下車、徒歩約30分。 【拝観情報】
境内自由。 ・金峯山寺二王門(国宝建造物) Tweet |