―賀茂御祖神社 東本殿、西本殿―
かもみおやじんじゃ ひがしほんでん、にしほんでん
京都府京都市 国宝 1953年指定 京都は洛中、賀茂川と高野川が合流する地点に、木々生い茂り、清らかな小川流れる糺の森(たたずのもり)が広がっている。木漏れ日が差し込む、明るい広葉樹の糺の森を北へと抜けると、面前に現れるのが賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)こと下鴨神社の楼門だ。賀茂川の上流に鎮座する、上賀茂神社こと賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と共に、賀茂社として古くから人々に親しまれてきた。その賀茂御祖神社の境内には、数多くの建造物から成る社殿が密集して建ち並んでおり、それらのうち、神社の中枢と言える二棟の本殿が国宝に、それらの本殿を取り巻く社殿や摂社、末社などの建造物53棟が重要文化財に指定されている。 賀茂御祖神社の歴史は極めて古く、伝説によると紀元前7世紀頃、神武天皇の時代にまで遡るという。また、崇神天皇7年(紀元前90年)に瑞垣が修造されたと伝わる事から、それ以前より何らかの神社が鎮座していたものと考えられている。事実、糺の森からは弥生時代の住居跡や土器などが発掘されており、その当時よりこの地に人が住んでいた事が判明している。なお、当時に存在していた神社は賀茂別雷神社を親社としていた。奈良時代の天平20年(748年)から天平勝宝2年(750年)頃、朝廷より賀茂別雷神社からの分社を命ぜられ、賀茂御祖神社として独立したのだ。そこには、当時強大であった賀茂別雷神社の力を分散させるという、朝廷の思惑があったと言う。 平安時代に入ると、奈良の平城京から京都の平安京へ遷都がなされた事もあって、賀茂御祖神社と賀茂別雷神社は共に都の鎮守社として貴族たちからの崇敬を受け、多大に繁栄した。賀茂御祖神社の社殿が整備されたのも、この頃の事だ。当時の賀茂御祖神社の社領は、賀茂別雷神社ほどでは無かったものの、それでもそれに次ぐほどの広さを誇っていた。しかしながら、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱にて、賀茂御祖神社の境内は糺の森もろとも灰燼に帰してしまう。しかしその後の応仁の乱後の天正9年(1581)には、境内の再整備がなされ、炎上前の姿に復元されている。また、明治維新後には、上知令によって社領が没収されてしまい、現在に見られる規模にまで縮小した。 賀茂御祖神社の本殿は、正面向かって左側に西本殿、右側に東本殿の二棟が並んでいる。西本殿の祭神は、賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母親、玉依姫命(たまよりひめ)。東本殿の祭神は、玉依姫命の父親である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)である。現存する本殿は、江戸末期の文久3年(1863年)に建造されたものであり、国宝建造物にしては比較的新しい。これは、平安時代中期の長元9年(1036年)より、21年ごとに社殿を建て替える式年遷宮が行われていた為である。現在は社殿建造物のほとんどが国宝および重要文化財の指定を受けている為建て替えは行わず、屋根の葺き替えや部分的な修繕に代えて、式年遷宮としている。 二棟の賀茂御祖神社本殿は、そのどちらも全く同じ規模、同じ様式で建てられている。三間社(正面の桁行が三間の本殿建築)の流造で、屋根は檜皮葺である。周囲に巡らされた高欄と、それに付属する階段のみが朱漆塗で、それ以外は素木造だ。江戸時代末期の建造ながら、式年遷宮によって昔から受け継がれてきた古式の様式を良く残すものとして貴重である。本殿の手前に建つ幣殿を始め、それから伸びる廊下や続く御料屋、四脚中門、楼門などの付属建造物、摂社の三井神社や出雲井於神社、その他数多くの末社など、本殿の周囲を取り囲む社殿群は、式年遷宮によって江戸時代末期に建て替えられた本殿よりも古く、江戸時代前期、寛永6年(1629年)の造営となっている。 賀茂御祖神社、および賀茂別雷神社の例祭は5月15日の賀茂祭、通称葵祭である。葵祭は6世紀中期の欽明天皇の時代、凶作が続いて飢饉に見舞われた際に、天皇が皇子を勅使として賀茂神社に参らせたところ、豊作がもたらされた事から始まった。朝廷によって行われる勅祭として毎年大々的に行われ、平安時代においては、祭りと言えば葵祭を指すほどの大祭であった。その賑わいの様子は、紫式部の源氏物語など、数多くの文献に記されている。葵祭の内容は、平安時代の衣装をまとった人々と牛車が、京都御所から賀茂御祖神社を経由して賀茂別雷神社に至るというもので、賀茂御祖神社の境内においては、糺の森の馬場にて、流鏑馬(やぶさめ)神事が前儀として行われる。 2007年02月訪問
2010年09月再訪問
【アクセス】
「京都駅」より京都市バス4系統、205系統で約35分、「下鴨神社前バス停」下車すぐ。 【拝観情報】
境内自由、拝観時間6時30分〜17時。 ・賀茂別雷神社本殿、権殿(国宝建造物) Tweet |