―向上寺三重塔―
こうじょうじさんじゅうのとう
広島県尾道市 国宝 1958年指定 瀬戸内海の中心部、無数に散らばる島々を縫うように、しまなみ海道が通る芸予諸島。それらの島の中でも特に大きな二島、かつては村上水軍の拠点であった因島(いんのしま)と、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が鎮座する大三島(おおみしま)に挟まれて浮かぶのが、生口島(いくちじま)である。生口島の北西端に位置する瀬戸田の丘に、曹洞宗の禅宗寺院である潮音山(ちょうおんざん)向上寺(こうおんじ)が存在する。瀬戸田水道を見守るように建つ向上寺三重塔は、室町時代中期の建造と三重塔にしてはやや新しいものの、その各所に見られる華麗な彫刻は極めて地域性の高いユニークなものであり、また禅宗寺院に残る貴重な塔婆の遺構として国宝に指定されている。 向上寺の創建は応永10年(1403年)、生口島を統治していた生口守平(いくちもりひら)を開基とし、三原の仏通寺(ぶっつうじ)を開いた仏徳大通禅師こと愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を開山として建てられた、向上庵(こうじょうあん)を起源とする。仏通寺は臨済宗仏通寺派の総本山であり、日本屈指の参禅道場でもある。向上庵は、仏通寺に集う学僧の宿泊施設であったのだ。応永21年(1414年)頃には、仏通寺の末寺として独立を果たしている。当時は仏通寺と同じ臨済宗であったものの、その後に一時衰退し、江戸時代初期の慶長14年(1609年)、阿伏兎(あぶと)岬にある盤台寺(ばんだいじ)の僧侶である関的によて再興されたのだが、その際に曹洞宗へと改められた。 向上寺の開基であり、以降も向上寺を庇護していた生口氏は、平家の流れを汲む相模国の豪族、土肥氏の支族である。源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えていた土肥実平(どいさねひら)の子である土肥遠平(どいとおひら)は、源平合戦において源頼朝方の主力として尽力し、その功績によって平家滅亡後に安芸国沼田荘の地頭となった。なお、遠平は小早川氏の祖でもある。その後、遠平の子である惟平(これひら)は、その拠点を生口島に移し、以降は生口氏を名乗るようになったという。生口島は瀬戸内海航路の要衝であり、生口氏はその地の利を活用した交易により繁栄を遂げ、永享5年(1433年)には室町幕府にから正式に生口島の地頭職を認められている。 向上寺三重塔は、生口氏の一族である生口信元(いくちのぶもと)と信昌(のぶまさ)によって、永享4年(1432年)に建立されたものだ。急な石段の上にたたずむその三重塔は、高さがおよそ19.52メートルとかなり小ぶりであり、国宝に指定されている三重塔の中では最小である。全体的には日本古来の建築様式である和様を基調としているものの、初重軒裏の垂木は和様の平行垂木ではなく、放射状に垂木を配した扇垂木(おうぎだるき)となっており、また連子窓の代わりに花頭窓(かとうまど)を用いているなど、鎌倉時代に禅宗と共に宋より日本に伝わった建築様式である、禅宗様の様式を大胆に取り入れた、折衷様の珍しい塔に仕上がっている。 この三重塔最大の特徴は、極彩色に彩られた彫刻であろう。軒を支える三手先(みてさき)の組物から突き出た尾垂木(おだるき)下の肘木鼻(ひじきばな)には、力強い線で植物の葉をあしらった若葉の彫刻を見る事ができる。これは中世の建築においては、他に類を見ない特異なものだ。隅木持ち送りに見られる彫刻も、蓮の花を逆さにした逆蓮華であり珍しい。組物間の中備(なかぞえ)には、蓮の花弁のような蓑束(みのづか)が入れられている。これの類例は向上寺の他、厳島神社の五重塔や、尾道の天寧寺旧五重塔(現在は三重塔)で見る事ができる。また、扉の軸を受ける藁座(わらざ)にも蓮の葉の彫刻が施されているが、これは他に例が無く、唯一無二のものである。 なお、この塔は昭和38年に解体修理が実施されており、使用されている部材の大部分は建立当時のものである事が確認されている。また昭和57年には彩色の塗り替えが行われ、往時の輝きが現在に蘇った。なお、積極的に禅宗様が取り入れられている外部に対し、内部は土間の床と鏡天井の天井を除いてほぼ和様の構造となっている。初重の中央には須弥檀を置いて大日如来を安置し、その背後に来迎壁を立てている。四天柱のうち、前方二本を省略し、また天井は板支輪によって持ち上げられている。内部もまた極彩色によって鮮やかに彩られ、様々な壁画が描かれていたものの、劣化や剥落が著しく、絵柄が不明な部分も多い為か、外部のような塗り直しの復元は行われていない。 2010年05月訪問
【アクセス】
「三原港」より高速船で約25分「瀬戸田港」下船、または「尾道港」から高速船で約40分「瀬戸田港」下船、「瀬戸田港」から徒歩約15分。 【拝観情報】
境内自由。 ・安楽寺八角三重塔(国宝建造物) ・常楽寺三重塔(国宝建造物) Tweet |