―神魂神社本殿―
かもすじんじゃほんでん
島根県松江市 国宝 1952年指定 島根県東部、宍道湖の東端に広がる山陰地方の中核都市松江。その市街地よりやや南へ下った所に存在する大庭(おおば)地区は、古代より出雲地方を支配していた有力豪族「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」の館が構えられていた場所である。周辺一帯には数多くの遺跡が残っており、在りし日の出雲国造家の力を今に伝えている。大庭地区の南西にたたずむ神魂神社もまたその一つ、出雲国造家ゆかりの古社である。出雲地方にのみ見られる神社の建築様式「大社造(たいしゃづくり)」で建てられている神魂神社の本殿は、安土桃山時代の天正11年(1583年)に再建されたものであり、現存する最古の大社造として国宝に指定されている。 現在の松江市および安来市の一帯は、古くは意宇郡(おうのこおり)と称されていた。出雲国造家が拠点としていた大庭はその中心地であり、また奈良時代に編纂された「出雲国風土記」に見られる“国引き神話”において、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が杖を突き刺した「意宇の杜」の舞台でもある。その周囲からは縄文時代や弥生時代の遺跡も発見されており、古くから人々が住まっていた土地である事が分かる。古墳も数多く残っており、特に初めて“前方後方墳”という言葉が用いられた山代二子塚は考古学史的に重要だ。奈良時代には出雲の国府やそれに伴う官衙、国分寺なども築かれ、まさにこの大庭こそが古代出雲の中心地であった事が分かる。 社伝によると、神魂神社は天穂日命(あめのほひのみこと)によって創建されたとされる。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が築いた葦原中国を譲ってもらうため、高天原から大国主命の元へと遣わされた天穂日命は、大国主大神を説得しているうちに心服して家来となり、高天原へは戻らずそのまま葦原中国に住むようになった。天穂日命はその後に神魂神社を建て、出雲国造家の祖神になったという。ただし、平安時代中期の延長5年(927年)に編纂された神社の一覧表である「延喜式神名帳」や前述の「出雲国風土記」には神魂神社の名は無く、存在が確認できるのは鎌倉時代の承元2年(1208年)に書かれた将軍下文が初出であり、実際の創建はその期間であると考えられている。 いずれにせよ非常に古い歴史を持つ神魂神社は、同じく意宇郡に存在する古社、八雲町の熊野大社、山代町の真名井神社、東出雲町の揖夜神社、大草町の六所神社、佐草町の八重垣神社と共に、意宇六社(おうろくしゃ)と称され人々の崇敬を集めてきた。これらの神社に参詣する「六社参り」の行事なども盛んに行われていたという。平安時代の延暦17年(798年)に意宇郡郡司の任を解かれた出雲氏本家は、現在の出雲大社がある杵築郷へと移り、宮司として出雲大社の神事に専念するようになった。しかしながら、国造の代替わりの儀式である「神火相続式(おひつぎしき)」や出雲大社の「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」の際には、奉仕のために神魂神社へと参向していたという。 神魂神社や出雲大社の本殿が採用している大社造は、神社建築としては異例な桁行二間、梁間二間である。屋根は切妻造の妻入で、正面と背後の中央には壁から外側にせり出して棟を支える棟持柱(むなもちばしら)を立てる。まるで高床倉庫のようなその外観は、大陸より伝来した仏教寺院建築の影響を受ける前から存在していた日本古来の建築様式を示しており、伊勢神宮の神明造や住吉大社の住吉造と共に、最も古い神社建築の様式として知られている。同じ大社造なだけあって、神魂神社の本殿は出雲大社の本殿は良く似ているが、規模は出雲大社の半分程だ。大社造は元々茅葺であったが、現在の神魂神社本殿では厚めの板で葺いた栩葺(とちぶき)である。 神魂神社の主祭神は女神の伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)であるため、屋根に乗る千木は先端を水平に切った内削(うちそぎ)だ。同じく屋根に乗る鰹木は三本と奇数であるが(祭神が女神の場合、鰹木は偶数が基本である)、これは大社造では鰹木の数が三本に固定化されているためだ。本殿の入口は正面右側に設けられており、祭神を祀る内殿は左奥に東を向いて安置されている。一方、出雲大社では内殿は本殿の右奥に西を向いて安置されており、これもまた祭神が女神であるか男神であるかの違いである。なお、神魂神社の本殿内部には江戸時代初期の絵師、狩野山楽(かのうさんらく)および土佐光起(とさみつおき)の筆と伝わる壁画が九面に渡って描かれている。 2008年08月訪問
【アクセス】
・JR山陰本線「松江駅」より松江市営バス「かんべの里(神魂神社)」行きで約25分、終点下車すぐ。 ・JR山陰本線「松江駅」より一畑バス「八雲」行きで約18分「風土記の丘」バス停下車、徒歩約10分。 【拝観情報】
・境内自由 ・出雲大社本殿(国宝建造物) Tweet |