―住吉神社本殿―
すみよしじんじゃほんでん
国宝 1953年指定 山口県下関市 本州の西端付近、関門海峡を見守るようにそびえる霊鷲山(りょうじゅせん)。その北西麓に位置する住吉神社は、長門国の一宮として知られる古社である。常緑広葉樹の社叢が生い茂る境内の中心に鎮座する本殿は、南北朝時代に周防国および長門国を中心に一大勢力を築き上げた守護大名、大内弘世(おおうちひろよ)の寄進によって応安3年(1370年)に造営されたものであり、他に類を見ない九間社流造となっている。その桁行は22.8メートル、梁間は4.6メートル、檜皮葺の屋根に五つの千鳥破風が並ぶ、実に長大かつ壮大な本殿だ。そのあまりに特異な社殿様式のみならず、細部の意匠も当時のものをよく伝え、国宝に指定されている。 奈良時代に編纂された「日本書紀」によると、三韓征伐で新羅に渡ろうとした神功皇后(じんぐうこうごう)は、住吉三神から「吾和魂は玉身に服いた寿命を守り、荒魂は先鋒となりて帥船を導かん」との神託を受け、その帰途においても「吾荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」との神託を受けたことから社を祀ったことに始まるという。以降、軍事および海上交通の神として広く崇敬を集め、平安時代の「延喜式神名帳」にも「住吉坐荒御魂神社(すみよしにいますあらみたまじんじゃ)三座」として記されている。また武士が台頭した鎌倉時代には源頼朝を始めとする歴代将軍からも信奉され、戦国時代には一時衰退するものの大内氏および大内氏を倒した毛利氏によって再興がなされている。 五棟の社殿を相の間で連結した構造の本殿は、五室の神座(しんざ)と四室の相の間が交互に連続している。神座に祀られている祭神は、向かって左から住吉三神(底筒男命⦅そこつつのおのみこと⦆、中筒男命⦅なかつつのおのみこと⦆、表筒男命⦅うわつつのおのみこと⦆)を祀る第一殿、応神天皇を祀る第二殿、応神天皇の忠臣であった武内宿禰(たけうちのすくね)を祀る第三殿、神功皇后を祀る第四殿、大国主命の子である建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る第五殿と続く。大坂の住吉大社は、神功皇后の身を守った住吉三神の「和魂(にぎたま)」を祀るのに対し、下関の住吉神社では突風として船を後押しし、三韓の軍勢を苦しめた住吉三神の荒魂(あらたま)を祀っている。 住吉神社本殿は流造であるため、切妻造平入の屋根を前面へと伸ばして向拝とし、正面下部には浜縁と浜床を通して各神座の前には木階(きざはし)を設けている。前面の軒裏は地垂木の上に飛檐垂木が二重に載る飛檐打越(ひえんうちこし)、背面は二軒の繁垂木だ。身舎の組物は平三斗で、庇の組物は出三斗。中備の蟇股には透かし彫りが施されているが、その意匠は両端間のみ大内氏の家紋である「大内菱」、それ以外の七間は毛利氏の家紋「長門星」を表しており、これは毛利氏による修理の際に付け替えられたものである。妻飾は豕扠首(いのこさす)とし、破風板には猪目懸魚の拝懸魚と三つの降懸魚を吊る。千鳥破風は木連格子で飾られ、妻面と同じく猪目懸魚を吊る。 それぞれの神座には、祭神を祀るための玉殿(たまどの)が安置されている。いずれも入母屋造妻入の檜皮葺、すべて同じ意匠であり、本殿と同一の時代に築かれたものと考えられている。玉殿を取り囲む社殿の板壁には、彩色によって弓矢を持った武将や貴族などの人物画、竹藪を飛ぶスズメなどといった花鳥風月の風景画が施され、神聖な空間を美しく彩っている。建立されて以降、本殿は度々の修理が行われ、現在まで維持されてきた。その遍歴を知るための棟札は、安永四年(1775年)、文化十三年(1813年)、嘉永三年(1850年)、文久二年(1862年)の四枚が残されており、五基の玉殿と共に本殿の附けたりとして国宝である。 第三殿の前に建つ拝殿は、天文8年(1539年)に毛利元就の寄進によって建立されたものだ。桁行三間、梁間一間と縦長の平面を持ち、上空から見ると本殿と共にT字の形状を成す珍しい配置である。切妻造の妻入で、屋根は本殿と同様の檜皮葺である。床は低く、天井は張らずに化粧屋根裏とし、四方は吹放ちになっており開放感があるが、元は腰貫と腰板があった痕跡が残されている。木鼻や蟇股、組物などの細部の手法に室町時代末期の特徴をよく残していることから、重要文化財に指定されている。また社殿の西側に建つ鐘楼は天文8年(1539年)のもので、そこに吊られていた銅鐘は日本に渡った朝鮮鐘として最大のものであり、これもまた重要文化財に指定されている。 2014年10月訪問
【アクセス】
JR山陽本線「新下関駅」から徒歩約20分。 【拝観情報】
境内自由。開門時間は6時〜18時(11月〜3月は17時まで) なお、12月8日夕方から15日の朝までの御斎祭時は境内立入禁止。 ・住吉大社本殿(国宝建造物) ・功山寺仏殿(国宝建造物) Tweet |