目を覚ましたら、時計は5時を回っていた。隣で寝ていたはずの、あの愛想の良いおじさんの姿は既にない。ぼんやりとした記憶を手繰ると、そういえばまだ空が白みだす前の時間(おそらく4時頃)、ガサゴソと荷物をまとめる音に起こされたような気がする。その時に出発したのだろう。 確かに、今日はできるだけ早く出発する方が賢明のように思う。なぜなら今日は丸一日かけての登山なのだから。しかも序盤の難所と名高い「遍路ころがし」である。RPGでいえば第一章の中ボス戦だ。 とはいえ、私はあくまでも自分のペースを守りたい。頑張りすぎても心身ともに疲弊するだけ、というのはその身をもって理解している。いつも通り、6時の出発でいいだろう。まぁ、食料は多めに用意してあるし、日没に間に合わなかったら山の中でビバークすれば大丈夫だ……たぶん。 第11番札所の藤井寺から第12番札所の焼山寺に至る遍路道は、その名もズバリ「焼山寺みち」と呼ばれる12.9kmの道のりだ。入口に設置されている案内板によると、健脚で5時間、平均で6時間、弱足8時間とある。おぉ、思っていたほど時間はかからなさそうだぞ。ゆっくり歩いても15時にはゴールできるだろう。 ほっと胸をなで下ろしつつ遍路道に足を踏み入れる。傾斜の緩やかな山道に沿って数多くの石仏が並べられているが、これは四国八十八箇所の各本尊を祀った写し霊場のようだ。八十八体の石仏を通り過ぎた一番奥には大日如来が祀られており、そこが藤井寺の奥之院に位置付けられている。 なかなか気持ちの良い、登山に適した歩きやすい天気である。登山道もまさに古道の遍路道といった趣きで、色鮮やかな新緑が良く映える。これなら登山も苦にならなそうだ。 実際、今のところはそれほど苦ではない。最初こそキツイ上り坂ではあったものの、登り切った後は比較的平らな尾根道が続いている。景色を楽しみながら、余裕をもって歩くことができる。うん、素晴らしい遍路道である。 なんでもこの長戸庵は、空海が焼山寺に向かう際に休憩した場所なのだそうだ。確かに藤井寺から登ってきた遍路が最初に休憩する場所としてちょうど良い位置にある。私もまたここのベンチで一息入れさせて頂いた。 それでは出発しようかとザックを担ぐと、その重みに肩が痛んだ。むぅ、食料と水をかなり多めに持ってきただけに、早くも肩が悲鳴を上げているようだ。体全体に負荷が分散するようなザックの背負い方を模索しつつ、だましだまし歩いていく。 この焼山寺みちには、全部で六箇所の「遍路ころがし」が存在する。最初のところもそうであったが、確かに足を滑らせたりしたらそのまま転がり落ちてしまいそうな急坂である。 特に今の私は、少しでもバランスを崩したらザックの重みでそのままひっくり返ってしまいそうな状態なのである。できるだけ前のめりの体勢で、這いつくばるようにして坂をよじ登っていく。 最初の水場とこの柳水庵、焼山寺みちには二箇所の水場が存在する。私は1.5リットルのペットボトルを持参してきたが、これらの水場を利用すれば500ミリリットルのもので十分だったようだ。水の量を減らせば、それだけ肩にかかる負担も減るしね。 また、柳水庵には仮眠できる小屋があり、日が暮れそうになった時には避難できるようになっている。昔から数多くの人々が歩いてきた道なだけあって、きちんとセーフティーネットが用意されているものなのだ。 立ちはだかる壁のような坂道を越えた先には、浄蓮庵というお堂があった。ちょうどお昼時ということもあって、数多くの遍路がお昼ご飯を食べている。私もここで昼食を取ることにした。 浄蓮庵の標高は746メートル。焼山寺みちの最高地点であり、その峠の頂には「左右内の一本杉」と呼ばれる杉が聳えている。樹高24メートル、幹周り7.5メートルにもなる巨木であるが、なんと空海が植えたという。 お決まりの弘法大師伝説は眉唾ものだが、推定樹齢は1000年とのことで、平安時代にまで遡る古木であることは間違いない。江戸時代以前の遍路も、今の私と同じようにこの木を見上げ、この木の元で休憩を取っていたことだろう。 浄蓮庵からひたすら下り続け、茅葺屋根の家屋(現在は全部トタンで覆われているけれど)が建ち並ぶ集落に降り立った。石垣を築いて整地された土地には、家屋の他に果物の木が植えられている。非常に味わい深い集落だ。 あまりひと気は感じられず、空き家となっている家もあるようだが、焼山寺みちと共に昔ながらの遍路の風景を残す、貴重な集落だと思う。 時間は14時45分。藤井寺を出発してからちょうど8時間で到着である。やはり鈍足極まりないが(藤井寺の案内板によると弱足の方のタイムだ)、まぁ、なんとか日が暮れる前に辿り着くことができた。 焼山寺の参道は無駄な舗装がされておらず、遍路道からの延長という感じで悪くない雰囲気だ。むき出しになった荒々しい石山を北側からぐるっと迂回するように、南向きの山門へと向かう。 ふぃー、約13kmの山道はさすがに疲れた。くたくたになりつつも、本堂の前ではなぜだか笑顔になってしまう。周りの人を見てもそうだ。焼山寺の境内に仏頂面の人はいない。皆が皆、疲れながらも充実感と達成感に満ちた顔である。 意気揚々とお参りを済ませ、仕上げの朱印を貰うべく納経所へと向かう。……とそこで、更なるサプライズが待ち受けていた。納経所の入口の前に、見知ったカートがポツンと置かれていたのだ。 このカートって、ひょっとして……ひとつの確信を持ちつつ辺りを見渡すと、やはりいました。昨日、藤井寺までご一緒したあのおばあちゃんだ。 今日は朝から全く姿を見ていなかっただけに少し気になっていたのだが、そんな心配は全くの杞憂であった。話を伺うと、当然のように藤井寺から歩いてきたという。 私は驚き、「カートを引いて登ってきたんですか?」と尋ねると、「いや、いや、背負ってきたんだよ」とのこと。なんと、おばあちゃんのカートは背負うこともできるタイプのものだった。カートを背負い、第二形態に変身したおばあちゃんは、他のグループの人々に助けてもらいつつ数々の難所を突破してきたとのことだ。……うーん、凄い。敬服、ただそれだけだ。そしておばあちゃんの体力と人望を見誤っていた自分が恥ずかしい。 おばあちゃんは今日は焼山寺の宿坊に泊まるとのことで、納経所の前でお別れする。私は一抹の淋しさを感じつつ、焼山寺の山門を出た。 焼山寺から次の第13番札所である大日時までは20km以上の距離がある。もう16時を過ぎているし、今日はもうおしまいだ。宿営地を探さなければ。 未舗装の遍路道を抜けると、数棟の茅葺屋根が点在する小さな集落に出た。ふと車道沿いに、立派な銀杏の木が生えているのが目に留まる。どうやらそこは、杖杉庵(じょうさんあん)というお堂のようである。 四国遍路を一番最初に行ったのは、衛門三郎(えもんさぶろう)という人物らしい。平安時代の天長年間(824〜834年)、伊予国浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町)の長者であった衛門三郎は、托鉢を求めてきた僧侶を手酷く追い返した。すると次の日から、八人いた子供が一日一人ずつ怪死してしまう。 全ての子を失った衛門三郎は自分の悪業を悔い、追い返したあの僧侶は空海だったのだと悟る。衛門三郎は空海に懺悔すべく、四国八十八箇所霊場を周り続けた。しかし、歩いても歩いても空海に会うことができない。21周目の逆回りの途中、ついにはこの場所で倒れてまう。力尽きるその直前、目の前に空海が現れ、衛門三郎は非礼を詫びて事切れた。 弘法大師は衛門三郎をこの地に埋葬し、墓標として衛門三郎が使用していた杉の杖を立てた。するとその杖が杉の巨木となったという。 良い話のようだが、冷静に考えてみると呪いである。祟りである。でもまぁ、この話には托鉢僧を無下にするなという教えが込められており、それは遍路のお接待にも繋がるような気もする。四国の人々が遍路に寛容なのは、この衛門三郎の伝説によるものなのかもしれない。 ……よし、決めた。衛門三郎にあやかって、今日はこの境内をお借りするとしよう。ちょうどタイミングよく、隣の家からおばさんが出てくるところだったので、杖杉庵で寝る許可を頂いた。お堂の隣の目立たない位置にテントを張り(当然だが、ペグは打たない)、膨らましたエアマットを敷いて、寝袋を広げる……とその時、見覚えのある欧米人が道路を歩いているのが目に留まった。 一昨日、常楽寺の前で会った欧米人二人組の片割れである。彼らもまた、今日は焼山寺みちを歩いてきたのだ。そして私と同じように、この小さな山里を本日の宿営地と決めたらしい。目立たない位置にこそこそテントを張った私とは対照的に、見晴らしの良い、開放的な果樹園に彼らのテントがあった。 ちょうど私の前を通りかかったので、英語で挨拶をしてみる。どうやらフランスから来たそうで、名前はポング。もう一人の名前は発音が難しすぎて聞き取れなかったが、ポングの“ボーイフレンド”なのだとか。なるほど、そういうご関係デシタカ。 私がテントの中で夕食を取っていると、どこからともなくギターの調べが聞こえてきた。ポングたちがギターを弾いているのである。遍路の荷物は最小限、余計なものを持たないことが鉄則といわれる中、彼らはギターを担いで歩いている。――ーこの瞬間、私は彼らのファンになった。 遍路を続けるにあたり大切なのは、効率などよりもいかに楽しむかなのだ。彼らはそのことを私に気付かせてくれた。私と同様、彼らもまた八十八箇所全部を通しで歩くらしい。この先の道においても、時折顔を合わせることとなるのだろう。いやはや、楽しくなりそうである。 Tweet |