遍路5日目:杖杉庵〜大日寺近くの河川敷(24.6km)






 穏やかなウグイスの鳴き声が山間に響く中、私のテンションはどん底にあった。……寒い、とにかく寒いのだ。遍路を始めた初日のキャンプも寒かったが、今朝はそれ以上に冷え込んでおり、寝袋の中でガタガタと震えていたほどだ。山の気候を舐めちゃあいけない。


テントを片付けていたら、犬が散歩にやってきた
毛が長くて温かそうだ

 冷えた体のまま、パンをかじって水で胃の中に流し込む。食料袋に目をやると、残りの手持ちはカロリーメイト二箱とウイダーインゼリーだけになっていた。昨日の登山の前にそれなりの食料を買い込んでいたつもりだったが……運動量が激しいと、それだけ食欲が増すものなのだ。

 どこかで食料を調達したいが、この辺りに店の類はないだろう。とりあえず、スーパーなりコンビニなりがある場所まで出るとしよう。

 出発の際、ふと果樹園の方を見ると、そこにはポングたちのテントがあった。中で人が動いている気配がないので、おそらくまだ眠っているのだろう。既に6時を回っており、遍路の出発としてはやや遅い時間なのだが、どこまでもマイペースな方々である。


杖杉庵から果樹園の道に入る


さらに木々に囲まれた山道を降りていくと――


ちょっとした集落に出た

 昨日、丸一日山の中を突き進んできただけあって、この辺りの集落はかなりの山村っぷりである。当然のように商店の類は見当たらない。うーむ、この様子だとかなり歩かないとお店がないっぽいぞ。今日行ける範囲にあれば良いのだが。

 一抹の不安を覚えつつも、「まぁ、なんとかなるだろう」と、なんの根拠もないポジティブシンキングで歩いていく。


今日は下り坂もしくは水平な道ばかりだと思っていたのだが……


急な峠越えもあり、朝からなかなかハードである

 遍路道は一路東へと続いていく。私はてっきり、焼山寺から川に沿って徳島市街地に向かうのかと思っていたが、遍路道はフツーに山へと入っていった。

 昨日のように「今日は登山だ!」と覚悟できているのならいざ知らず、このように不意打ちで急坂が現れると、なんだか余計に疲れてしまう。まぁ、アスファルトの道路を歩くより、未舗装の山道の方が歩いていて楽しいのだけど。


雨がポツリポツリと来たので、玉ヶ峠の庵で休憩


山の中腹を通る道路を歩く


眺めが良く、眼下に鮎喰川(あくいがわ)が見えた

 玉ヶ峠からはアスファルト舗装の道路になったものの、小さい集落を縫うように通る生活道路なので、車はまったく通らず眺めも良い。比較的水平で歩きやすく、気分良く歩くことができた。

 道中には茅葺屋根の古い家屋も多く(現在はどれもトタンで覆われているが)、また途中の製材所では壁に無数の木材が立てかけられていたりと、要所要所に景観のアクセントがあって飽きることがない。

 何度目かの集落を抜けて林の中の道に入ると、ふと道路の脇に「鏡石大師」と書かれた標識があった。どうやら山道が道路から下へと続いているようだ。気になったので降りてみると、その先には小さな社が祀られていた。


大師像を祀った社のようだ。巨木の根本には石が置かれている

 このお社は「鏡大師」というらしい。弘法大師がここで休憩をしていたその最中、傍らにあった石を撫でると、輝きだして人の顔が映るようになったという。その石は「鏡石」と称され信仰を集めていたが、明治時代になると輝きを失い、元の石くれに戻ってしまったそうだ。

 この木の根元にある石がその鏡石だろうか。どこからどう見てもゴツゴツとした普通の石である。かつては人の顔が映ったというくらいなのだから、もっとツルツルしていても良いと思うのだが。

 ……ひょっとしたらこの鏡石は代替で、オリジナルは窃盗にあったのかもしれない。あるいは神仏分離令のゴタゴタで、破壊や破棄という線もありそうだ。光沢を失った時期が明治時代と限定されているし、その可能性は高い気がするぞ。


山から下りて鮎喰川に出る


橋を渡って対岸へ


この辺りには手作りの遍路人形が多く、和ませてもらった

 遍路道は川沿いの集落に降りたと思いきや、程なくして再び上り坂となる。「駒坂峠」と書かれた標識を通り過ぎ、少し坂を下ったところで休憩していると、後ろからポングたちが追いついてきた。


ポング(左)とその彼氏(右)、気さくなナイスガイである

 彼らもまた荷物を下ろして休憩の態勢に入ったので、成り行きで会話をすることとなった。ポングは英語が多少話せるが、決してペラペラではない。ボーイフレンドの彼に至っては、英語がまったく理解できないようだった。意外なことに、フランス人は英語が苦手な方が多いらしい。

 ……などと偉そうにのたまう私の英語力も、中学生レベルの稚拙なもの。だがしかし、ポングのたどたどしい英語はネイティブの発音よりずっと聞き取りやすい。英語が苦手な人同士の方が、気軽に会話できるものなのだ。

 私がポングに「何で四国遍路のことを知ったんですか?」と尋ねると、「巡礼に関する本で読んだんだ」との答え。なんでも、ヨーロッパにも同じような巡礼の文化があるのだそうだ。あぁ、聞いたことがあるぞ、スペインの西の果てを目指すサンティアゴ巡礼だ。なるほど、そういう繋がりで四国遍路に興味を持ったのか。

 出発の際、ポングはポケットから数粒のチョコレートを取りだし私にくれた。礼を言って受け取ると、ポングはニコッと笑顔を見せて去っていった。失礼ながら、私はこれまでフランス人というと慇懃無礼な気質の傾向があると思っていた。しかしそれは全くの偏見であった。なんとも気さくな人たちじゃぁないか。


ポングたちの後に続き、簡素な一本橋を渡る


二人の後姿は、実に絵になるものだ

 道の途中に甘夏の無人販売があったので、一袋購入して昼飯とした。爽やかな柑橘の香りと酸味は、歩き疲れた体によく沁みる。遍路とよく合う果物だ。

 とはいえ、甘夏だけではさすがにカロリーが足りない。ウイダーインゼリーとカロリーメイトは昼前に食べ切ってしまった。そろそろお店がないとマズイ感じだが……まぁ、ここにきて家の数も増えてきたし、なんとかなるだろう。……なんとかなるのか?


広野というちょっとした町場に出たが……やはり商店はなし

 この広野から次の札所である大日寺までは約7km、鮎喰川に沿った車道を行くのが一般的なようである。だがしかし、アスファルトの歩道を延々歩き続けるのはおもしろくない。

 地図を見ると、川沿いを行くルートの他に、大日寺の奥之院にあたる建治寺(こんちじ)を経由するルートもあるようだ。山の上とのことで、そこまでの道のりはの一部が未舗装の山道らしい。若干の遠回りになってはしまうが、車道より遥かに楽しそうではないか。

 手持ちの食料が尽きた今、下手に寄り道をするのは避けた方が良いかとも思ったが、だが昔ながらの遍路道が残っていそうなルートをチェックしないワケにはいかない。まだ正午過ぎと時間的にも余裕があるし、まぁ、問題ないだろう。……問題ないのか?


というワケで、川沿いのルートから外れて「建治寺みち」を行く


前半は舗装路だが、こういう細道には風情がある


集落を抜けると完全な未舗装路となった

 やはりほとんどの遍路は川沿いのルートを選び、この道を歩く人は滅多にいないようだ。腐った木が倒れていたり、下草が生えていたりといささか荒れた様子である。とはいえ町石代わりの地蔵が置かれていたりと、昔ながらの道ということは分かる。

 現存する遍路道の中でも歩く人がそれほどいない、かなりレアな部類の古道なのではないだろうか。このルートを選んで正解だった。

 30分ほどで山道を抜け、建治寺の門前にたどり着いた。川沿いの道を離れてからは、ひとりも遍路を見かけない。建治寺に寄る人も今ではほとんどいないのだろう。……と思いきや、参道の入口に見覚えのあるザックが。


このギターは……ッ! ポングたちも建治寺に寄っていたのだ!

 これにはホント、驚かされた。日本人の遍路ですら訪れる人が少ない番外霊場なのに、そんなお寺にまで立ち寄っていたとは。寄り道上等、全力で遍路を楽しもうという気概が感じられる。良い遍路に巡り合えたものだ。


建治寺の大師堂(左)と本堂(奥)

 長い長い参道を歩いていくと、奥まった位置に諸堂が並んでいた。この建治寺は天智天皇年間(661年〜671年)に修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が創建したとされ、弘仁年間(810年〜824年)には空海も立ち寄り本堂奥の岩窟で修行したという。

 山の奥に鎮座する小ぢんまりとした印象のお寺ではあるが、大師堂の横から上ったところに「龍門窟(りゅうもんくつ)」と呼ばれる素掘りのトンネルがあったりと、なかなか楽しい寺院である。


建治寺から下りる道も、未舗装の遍路道だ
大日寺の奥の院ということなので、本来はこの道が表参道なのだろう


その途中には険しい断崖の行場があった


こ、これはちょっと怖いが……上ってみるか


崖の上はテラス状になっていたが、特に何もなかった

 ハシゴが掛けられている以上、この場所が何らかの修行に関わりがあることは間違いないだろう。この見晴らしの良いテラスで儀式を行うのか、あるいは崖を上ること自体が修行なのかもしれない。

 正直、このハシゴを上るのはかなり怖かった。一歩足を踏み出す度に揺れている気がしたし、金属なので足が滑りそうでもある。恐怖に打ち勝つ胆力の修行といわれても納得する、そんなハシゴだ。

 しかも、昔は木製のハシゴで上っていたのだろう。金属のハシゴですらこんなにも恐ろしいというのに、折れる危険性がある木製のハシゴで上るなど……いやはや、私には到底不可能だ。


下りようとして、足下を見てまた恐怖した

 この断崖のすぐ側には滝行を行う「建治の滝」があるようだが、残念ながら水は流れていなかった。完全に枯れたというワケではないと思うが、水が豊富な時期じゃないとダメなのだろう。


ここが「建治の滝」らしいが、雨が降らないと水はないようだ

 少々残念に思いながら、遍路道を下っていく。やがて視界が開け、アスファルトの道路へと出た。普通の住宅街ではあるが、道端には石仏が鎮座しており、断片的にではあるが歴史を感じることができる。


久々に人里に下りてきたという感じである

 やがて住宅街を抜け、川沿いの車道と合流した。時間も16時近くなり、そろそろお店がないと本格的にマズイことになりそうだと思ったその矢先、コンビニを発見したので夕食と朝食を購入した。ほら、やっぱりなんとかなるもんだ。


16時半近くに第13番札所の大日寺に到着した

 大日寺といえば第4番札所も同じ寺名であった。そちらは山の中にあったのに対し、こちらは鮎喰川沿いの市街地に位置している。想像していたより小ぢんまりとした印象の境内で、狭い敷地を取り囲むように本堂や大師堂、社務所などの建物が並んでいた。

 ちなみに、本尊は十一面観音像である。大日寺という名前なのに大日如来ではないのが不思議だが、それにはいささか複雑な理由がある。明治時代に入るまで、第13番札所は大日寺ではなかった。県道を挟んだ向かいにある一宮(いちのみや)神社こそが札所だったのだ。


大日寺の境内と車道で分断されたかつての札所、阿波一宮である

 一宮神社はその名の通り阿波国の一ノ宮である。伝承によると、大日寺は平安時代の弘仁6年(815年)、弘法大師空海によって創建されたとされる。しかし遍路文化が栄えた江戸時代には、一宮神社の別当寺院(付属寺院)になっていた。

 江戸時代以前における日本の信仰は、仏教と神道が混在する神仏習合が当然であった。神は仏であり、仏は神である。寺院の中に神社があるのも当たり前だったし、その逆もまたしかりであった。

 明治時代に入ると、新政府は曖昧だった仏教と神道の境界を線引きすべく、神仏分離令を出した。それによって全国の神社から仏教的要素が取り除かれることとなり、一宮神社からも別当寺の大日寺が分離されたのだ。仏教的要素である札所としての機能は大日寺に引き継がれることとなった。

 一宮神社の本地仏(その神の本来の姿とされる仏)として祀られていた十一面観音もまた大日寺に移され本尊となり、元々の本尊であった大日如来は脇侍となった。こうして、現在の第13番札所が形作られたのである。


遍路で賑わう大日寺とは対照的に、静かにたたずむ一宮神社の拝殿
背後に鎮座する本殿は、寛永7年(1630年)の建立で重要文化財だ

 大日寺、一宮神社の双方にお参りを済ませ、再び遍路道を歩きだす。……が、鮎喰川に架かる橋を渡った辺りで気がついた。どうやらこの先、住宅街になりそうだ。既に時間は17時近くなっており、これ以上進むと宿泊できる場所を見つけられなくなりそうだ。

 どうしたものかと鮎喰川を遡っていくと、ふと沈下橋が目に留まった。すぐ側には青空市場の駐車場が広がっており、その片隅には大きな庇を持ったプレハブ小屋が建てられている。おぉ、これはちょうど良い。庇の下にテントを張らせてもらうとしよう。


鮎喰川に架かる沈下橋

 河川敷では、親子連れがバーベキューを楽しんでいた。そういえば、まだゴールデンウィーク中なのだ。私の遍路も五日を過ぎ、いささか日にちと曜日の感覚が分からなくなってきた感がある。普通に暮らす人々とは違った時間軸にいるような、どこか浮世から離れてきた気がするのだ。

 それは遍路の生活に慣れてきたということなのかもしれない。そんなことをぼんやりと思いつつ、コンビニで買った鳥弁当を食べて寝た。