昨日に続き、今朝もテントに犬が寄ってきた。しかも三匹。兄弟なのだろうか、いずれも白い犬である。首輪をしているので飼い犬だとは思うのだが、近づくと唸り声を上げるのでいささか怖い。 とりあえず早々に朝食を済ませ、テントをたたんで出発した。今日は徳島市内を歩く予定である。遍路を始めて以降、郊外の住宅地や山岳地帯を歩き続けてきたが、久方ぶりの都会である。……まぁ、私のような野宿遍路にとって、大きな町はできれば避けたい鬼門なのだが。 大日寺から常楽寺まではわずか2.3kmの距離である。まだ納経所が開いていない6時半に辿り着いてしまった。境内には私以外に誰もおらず、のんびり朝一のお参りを済ます。 参拝の作法として、般若心経を読経したあとに本尊の真言を唱えるのだが、常楽寺の真言は「おんまいたれいやそわか」と初めて聞くものだった。どうやら弥勒菩薩の真言らしい。四国八十八箇所霊場で弥勒菩薩を本尊とするのはここだけとのことで、最初にして最後の真言である。 そんな豆知識を仕入れながら、納経所が開く7時を待つ。……が、7時を過ぎても納経所はしんと静まり返って開く気配はない。7時10分を過ぎても相変わらずだったので、インターホンでお寺の人を呼び出して朱印を貰った。朝はいろいろ忙しいのだろうが、こちらにも予定があるのでご容赦頂きたい。 今日歩く区間は、各霊場までの距離が短い札所密集地帯だ。遍路の最序盤、第1番札所から第7番札所までの区間もかなりの密集っぷりだったが、ここはそれ以上。わずか8kmの間に第13番札所から第17番札所までの5ヶ寺が連続する。 それもそのはず、この一帯は古代における阿波国の中心地だったのだ。それは、ここに国分寺があることからもよく分かる。奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は日本全国に国分寺の建立を命じた。国分寺は各国の行政機関である国府の側に置かれ、その国の中心として威容を誇ったのだ。 すなわち、国分寺がある場所こそ当時の主要地域というワケである。先の大日寺も元は阿波国の一宮だし、長い歴史を持つ地域に古刹が多いというのも納得である。札所の密度はかつての栄え具合のバロメータなのだ。 律令制の衰退と共に各国の国分寺も廃れていったが、阿波国分寺はその後も存続していったようだ。しかし安土桃山時代に入った天正年間(1573〜1592年)、土佐から侵攻してきた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の兵火により堂宇を焼失してしまう。以降は荒れていたものの、江戸時代中期の寛保元年(1741年)に徳島藩主の蜂須賀家によって復興したという。 現在の本堂は江戸時代後期の文政年間(1804年〜1830年)に再建された。その周囲を取り囲むように広がる庭園は、石組の大胆な配置で極めて評価が高い。かつては安土桃山時代に作庭されたと考えられていたが、近年の発掘調査によって江戸時代末期に大規模な改修が行われていると判明したそうだ。 観音寺は住宅街の中にあり、家々に囲まれた境内はかなり手狭な印象だ。本堂や大師堂の前にひしめく遍路がいなければ、札所と分からないくらいに普通。家の近所にあってもおかしくないような、こぢんまりとしたお寺である。 しかし境内は小さくとも、八十八箇所霊場に名を連ねるだけあって、そんじょそこらの寺とはワケが違う。平成10年(1998年)に行われた発掘調査によって、境内から7世紀に遡る木簡が大量に出土したそうである。 この辺りの地名は国府町府中といい、かねてより観音寺を中心とする一帯が阿波国府の政庁跡ではないかと考えられていた。建物など直接的な遺構は確認されなかったものの、この木簡の発見により観音寺が古代の官衙跡であることは確実になったという。 観音寺で参拝を済ませて道路を進んでいくと、左手に木々が茂る神社があった。どうやら大御和神社というらしく、「府中宮(こうのみや)」や「印鑰(いんやく)神社」とも呼ばれているそうだ。印鑰とは国の印鑑、正倉の鍵を意味しており、国府の側に祀られる神社である。やはり、観音寺が政庁跡である可能性は極めて高いのだろう。 私がパシャパシャと写真を撮っていると、背後から声を掛けられた。振り返ると、そこにいたのはいつもの欧米人二人組、ポングたちである。「サヴァ?(元気?)」と聞かれたのだが、不意打ち気味で頭が回っておらず、「あ、こんにちわ」となんとも間抜けな感じの返事になってしまった。 井戸寺とは少し変わった名前のお寺であるが、その名の通り境内に井戸が存在する。かつてこの土地の人々が水不足に悩んでいたところ、空海が一晩で井戸を掘ってくれたという。以降、この辺りは井戸村と呼ばれるようになり、寺の名前も井戸寺と改められたそうだ。 ついこの間、小豆洗大師でも同じような伝説を聞いたような気がするが、まぁ、井戸が神格化されるくらい水が貴重だったということだろう。 ちなみにこの井戸は「面影の井戸」と称され、中を覗いて顔が映れば無病息災でいられるが、映らないと3年以内に災厄が降りかかるという。まったくもって信じられないオカルト話ではあるが、井戸の底に自分の顔が映ったのを見て、少しホッとしたのも事実である。 さてはて、私が井戸寺に着いたのは約10時。今朝は早めに出発したつもりであったのだが、いつものごとく鈍足なので後から来た人たちに次々と抜かされていく。私を追い越していった遍路は老若男女様々であるが、中でも印象的だったのが若いお母さんと小学校中学年くらいの親子連れであった。 どこかの道端で拾ったのだろうか、木の棒を杖代わりに歩くお子さんがなんとも微笑ましい。私も子供の頃、手ごろな棒切れを拾っては振り回して遊んでいたものだ。いつの時代も、棒切れが子供心をくすぐることは不変らしい。 井戸寺から次の第18番札所まではかなりの距離がある。まずは徳島市内を抜けなければならないのだが、その遍路道は主に二つのルートが存在する。 ひとつは徳島市中心部を経由する市街地ルート、もうひとつは中心部をショートカットする山道ルートだ。徳島といえば眉山であるが、前者は眉山の麓をぐるりと迂回するルート、後者は眉山の裏側を抜ける感じである。 銀行の引き出しや買い物など、都会に用があるなら前者の方が良いと思うが、そうでない私は当然ながら後者を選んだ。市街地のアスファルト歩道よりも、古道が残っていそうな山道の方が好みだからだ。 地図によると、この地蔵院の先から「地蔵越遍路道」という山道に入るようだ。登山の前に体力をつけておかなければならないだろう。というワケで、途中のスーパーで買っておいたおにぎり二個とコロッケ三個、甘夏一個をむさぼる。 いささか食べ過ぎて体が重くなった気もするが、まぁ、今日の山道はそれほど長くないハイキング程度のものだろうし、あまり気張らなくても良いはずだ。……たぶん、きっと、おそらく、メイビー。 地図上では短い遍路道も、やはり未舗装の山道だと結構長く感じるものだ。しかも焼山寺の遍路ころがし並に急な坂も一部ある。 山とはいえ県庁所在地の徳島市である。それほど険しいものではないだろうとタカをくくっていたのだが、意外とそうでもなかった。ぜぇぜぇと肩で息をしながらひたすら登ること約50分、ようやく峠に出ることができた。 緩やかに傾斜する山間の道路を下ってていくと、程なくして園瀬川の河川敷に出た。この辺りは郊外の住宅地という感じであり、団地や戸建て住宅の横を通るサイクリングロードを歩いていく。 実をいうと、今日はここから北へ2kmほど行ったところにある二軒屋駅前に宿を取ってある。なので今日はこれで仕舞いとし、遍路道から外れて二軒屋駅に向かうのだ。 徳島市の中心部をショートカットしたとはいえ、この辺りはまだまだ立派な市街地だ。テントを張れるような場所はなかなかないだろう。それに遍路を始めて既に6日目、疲れが少々溜まってきたということもある。まだまだ先は長いことだし、たまには体を休めることも必要だろう。 シャワーを浴び、汚れた衣服をコインランドリーにぶちこんで洗濯を済ませる。部屋に戻って荷物を整理しているうちに、なんだか疲れがドッと出た。どうやら自分でも思っていた以上に疲れていたらしい。そのまま睡魔に襲われ、眠ってしまった。 19時頃に目を覚まし、夕食を買いに最寄のスーパーへと行く。シャケ弁当とポンジュース、それと阿波ういろ(名古屋のういろうより、もっちり、ねっとり、上品な味わい)をカゴに入れてレジに向かうと、ふと菖蒲湯の入浴剤に目に留まった。 そういえば明日は5月5日、端午の節句だ。まだ一日早いが、せっかく湯船のあるホテルに泊まっているんだし、菖蒲湯と洒落込もうじゃないか。 菖蒲湯といいつつも、ヨモギやバラがブレンドされているようで、菖蒲特有の香りはかなり抑え目。ガッツリとした菖蒲の香りを期待していたのだが、まぁ、ヨモギの香りもリラックスできるし、これはこれで良いとするか。 久しぶりの入浴ということもあり、のぼせそうなくらい湯船に浸かっていた。バスルームには良い香りが漂い、体に蓄積された疲労が溶け出していくような気さえする。 風呂から出た時には心身共にスッキリとリフレッシュ。よーし、また明日から、ぼちぼち頑張って歩くとしよう。 Tweet |