ここのところ朝方冷え込む日が続いている。今朝もまたかなり気温が下がっているようだが、寒さで目を覚ますことは一度もなかった。屋根があるとはいえ、外気むき出しの東屋なのにである。布団というものは実に優れた寝具なのだ。 遍路小屋に用意されていた布団からもぞもぞ這い出ると、想像以上の冷たい空気が肌を刺した。再び布団に潜り込みたいという欲求を抑えながら、布団を畳んで出発の準備する。近くにあったコンビニで食料を少し多めに購入し、そのうちおにぎり三個を朝食とした。 時間は6時少し前。二日連続布団で熟睡できたためか、体の調子はすこぶる良い。なにしろ今日は朝から山登り。徳島県の後半戦に立ちはだかる中ボス的な存在なのだ。最高のコンディションで挑むのが望ましい。 去年見にいった上勝町の棚田も素晴らしかったが、この勝浦町もまた昔から斜面を利用した農業が盛んなようで、山裾には古い石積みの段畑が連なっている。苔むした石垣に取り囲まれた遍路道は雰囲気たっぷりで、まるで古代遺跡を歩いているようだ。 なんでも勝浦町はミカンやスダチなど柑橘類が特産らしく、これらの石垣もその果樹畑なのだろう。 鶴林寺へと続く遍路道の入口には「水呑大師」という祠が祀られており、その名の通り岩の下から清水が湧きだしている。昨日の「お杖の水」は市街地にあるだけあって飲むのに抵抗あったが、山腹にあるこちらなら大丈夫だ。まださほど喉は乾いていないものの、登山前の景気付けとして数口飲ませて頂いた。 この水呑大師から鶴林寺までは、昔ながらの遍路道が現存する区間である。近年、状態の良い古道の遍路道を史跡に指定する動きが活発になっているが、この「鶴林寺道」もまた「阿波遍路道」の一部として史跡に指定されている。 登山とはいえど、鶴林寺道の距離は2km足らず。いちおう焼山寺と同じく「へんろころがし」と称されているようだが、丸一日かけての山登りだった焼山寺と比較すると楽なものだ。古い丁石を眺めたり、石畳の風情を楽しみながら登ること約一時間、鶴林寺の山門に到着した。 寺伝によると鶴林寺の創建は延暦17年(798年)、桓武天皇の勅願により弘法大師空海が開山したとされる。空海がこの山で修行している最中、雌雄一対の鶴が杉の梢で黄金の地蔵菩薩像を守っているのを発見。感得した空海が木材から地蔵菩薩像を刻んで胎内に黄金像を納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたのだそうだ。なるほど、だから鶴の像が祀られているのか。 現在の本尊は平安時代後期の地蔵菩薩像で、国の重要文化財に指定されている。ただし、現物は京都国立博物館に寄託しているとのことだ。また本堂の隣にそびえる三重塔は江戸時代後期の文政6年(1823年)に建てられたもので、徳島県内に残る唯一の三重塔として貴重という。 さて、山を登った後には下りなければならない。登山道は北側の勝浦町から通じていたが、下山道はそれとは別に南側の阿南町へと通じている。次の第21番札所太龍寺(たいりゅうじ)へ至る、最短コースを辿る形である。その距離、およし7km。 事前に地図で見て知っていたことではあるが、次の太龍寺もまた山の上である。霊場は修行の場なのだから険しい場所にあるのは当然といえば当然なのだが、こうも立派な山容を見せつけられると、もう少し楽な場所に寺院を建てても良かったのではないかと先人に言いたくなる。 ……まぁ、愚痴っていても始まらない。むしろ山間部は昔ながらの遍路道が残っている確率が高いエリア。古いモノ好きとしては望むところである。さぁ、気張って登るとしようではないか。 この沢の道の途中には、若杉山遺跡と記された立て看板があった。今から約1700年前、弥生時代から古墳時代にかけて辰砂(しんしゃ)を生産していた遺跡なのだそうだ。辰砂は硫化水銀から成る鉱物で、日本では縄文時代より丹(に)として彩色に用いられてきた伝統顔料だ。 辰砂生産遺跡としては日本最古とのことで、なかなか興味深い。四国遍路とは直接的な関係はないものの、弥生時代からこの場所へと至る道が拓かれていたのは確かなわけで、それは遍路道の道筋ともおおむね一致していることだろう。四国遍路の歴史よりも古い道、なかなか感慨深いではないか。 鶴林寺道より心持ち険しい山道ではあるが、まぁ、焼山寺道を越えてきた身としてはなんていうことはない。登山道の長さも思っていたほどではなく、登山口からわずか45分足らずで太龍寺の山門に辿り着いた。 鶴林寺の境内が割とコンパクトに纏まっていたので、太龍寺もまたそのくらいの規模かと思いきや、それがとんでもないくらいに広かった。 山門からはコンクリート舗装の参道がひたすら続き、なんとかたどり着いたと思ったらそこは社務所。さらに石段を上がって楼門を潜り、その奥のどん詰まりに鎮座するのがようやく本堂だ。朝から二つの山を越えてきた身には、この長い参道はかなり堪えた。 太龍寺の開山は延暦12年(793年)、鶴林寺と同じく桓武天皇の勅願によって弘法大師空海が開いたとされる。戦国時代に長宗我部元親の兵火にかかって衰退したものの、江戸時代に徳島藩主蜂須賀家の庇護を受けて存続していった。 現存する堂宇は本堂が嘉永5年(1852年)、大師堂が明治10年(1877年)、最も古い仁王門が文化3年(1806年)の建立と、江戸時代後期から明治時代にかけて再建されたもののみである。 正直、境内の広さにしては建物が新しいなという印象を受けたが、それでも境内には見上げるほどの巨木が数多く屹立しており、寺院の歴史を感じさせるに十分だ。なんでも、太龍寺は「西の高野」とも称されているそうで、なるほど、それも納得な雰囲気である。 なお、太竜寺山の山頂付近には舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)という霊場が存在する。空海が19歳の時に100日間の虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法(真言を100万回唱える修行)を行った場所であるとされ、そこを経由して龍の岩屋(石灰の採石事業により現在は消滅)へと至る「いわや道」およびいわや道から分岐して麓の阿瀬比(あせび)集落へと下りる「平等寺道」もまた史跡となっている。 納経の際、社務所のお坊さんに「いわや道ってどこから行けばいいんですか?」と尋ねたところ、「そんなものはない」とそっけない返答。後から知ったことだが、いわや道と平等寺道は未整備状態で歩くことは不可能らしい(その後に整備され、2014年年11月に開通したとのことです)。 結局私はいわや道を諦め、一般的な車道ルートで下山することにしたのだが、登ってきた道とはまた別の遍路道が山門の前から続いていることに気が付いた。手持ちの地図には記されていない道ではあるが、ひょっとしたらこのルートでも下山することができるのではないだろうか。試しにその道の先へと行ってみた。 次の第22番札所である平等寺に向かうには、南へ行かなければならない。しかしこの謎の古道は東へと続いている。平等寺へ向かう道ではないと判断した私は、慌てて太龍寺の山門まで引き返した。 これもまた後で知ったことなのだが、この道は加茂町の一宿寺へと続く「かも道」のようだ。空海が太龍寺を訪れる際、一宿寺の場所で一泊し、翌日かも道を通って太龍寺に辿り着いたという。 かも道に残る丁石は鶴林寺道の丁石と同じく南北朝時代のものと非常に古く、おそらく四国遍路が盛んになるまでは、この道が太龍寺の表参道だったのだろう。現在は主要な遍路道から外れてしまったものの、古道としての状態は良く、かも道もまた「阿波遍路道」の一部として史跡に指定されている。 時間は15時を過ぎ、そろそろ本日の宿泊地が心配になってきた。勝浦町の遍路小屋が宿泊OKな態勢だったので、今日もまた遍路小屋に目星をつけていたのだが、阿瀬比の遍路小屋は住宅に近くとても寝られるような場所ではない。 まぁ、まだ日没までだいぶ時間があるし、行けるところまで行くとしよう。次の平等寺まではあと4km強、この先の大根峠を越えたところにあるようなので、とりあえず宿泊地のことはそこまで行ってから考えることとする。 朝から鶴林寺、太龍寺と山道が続いており、だいぶくたびれてきたところにこれである。距離的にはそれほどでもないとはいえ、上り下りがこれだけ続くと足腰にガタがくる。私は疲れた体に鞭を入れつつ、えっちらほっちら階段を登る。 がっつりとした山ではないのですぐ終わるものかと思いきや、これが意外と距離がある。納経所が閉まる17時まであと一時間。それまでになんとかこの峠を越えて平等寺まで辿り着かねばならない。迫る時間に焦りが募る。 平等寺は周囲を山に取り囲まれた新野という地区に鎮座する。かつては巨大な伽藍を持つ大寺院だったそうだが、太龍寺と同様、長宗我部元親の兵火によって焼失してしまったそうだ。その後はすっかり廃れていたが、江戸時代中期の享保年間(1716年〜1736年)に復興した。現存する堂宇もその当時のもので、立派な楼門は宝永3年(1706年)の建立、本堂も元文2年(1737年)の建立だ。大師堂は江戸後期に焼失し、文政5年(1822年)に再建されたものである。 私が山門をくぐろうとしたところ、境内から見知った顔の二人組が出てきた。ポングたちフランス人二人組である。昨日姿を見なかったので少し驚いたが、彼らもまた確実に進んでいるのだ。昨日からの話を聞きたいところではあるが、お参りの時間が心配だ。ここは軽い挨拶だけ済ませ、入れ違いに境内へと進む。 無事お参りと納経を終えて門前まで戻ると、二人の姿は既になかった。代わりにいたのが大きな荷物を背負ったガタイの良いお兄さんだ。彼もまた野宿しているとのことで、今日は立江寺からここまで歩いてきたのだという。距離にして30km、見た目通りタフな人である。 お兄さんと分かれ、私は新野の町をとぼとぼ歩く。結局のところ宿営地のアテはない。とりあえず、夕食を買えるスーパーとかないだろうか。町家が並ぶ一角を通り過ぎると、やや大きな県道に差し掛かったので、お店の類がありそうな東へ向かうことにした。 しばらく歩いていくと、右手にこんもりとした木々に覆われた丘が現れた。その北側からは、丘の上へと階段が続いている。どうやら神社のようである。 なんとなく上ってみると、境内は静かでなかなか落ち着く雰囲気だった。人もあまり来なさそうなので、社殿の脇にテントを張らせて頂くことにする。結局、お店は見つけられなかったが、おにぎりがまだ余っているので問題ない。 実をいうと、今朝、勝浦町のコンビニで食料を多めに買い込んでいたのは理由がある。明日到着予定の日和佐まで、お店の類がなさそうなのだ。なので今日、買い物できないのも想定の範囲内ではある。……が、やはりおにぎりだけというのはちょっと淋しい。 三つ目のおにぎりを水で流し込んだところで、どこからともなくカタンカタンという音が聞こえてきた。おや、鉄道が通っているのか。今日は三つの山を越えてきただけに、この町もまた山の中にあるのかと勘違いしていたが、意外と大きな町なのかもしれない。 宿営場所を間違えたかなとも思ったが、その心配よりも山登りの疲れの方が勝っていたらしい。寝袋に入ると同時に意識が遠のいていった。 Tweet |