遍路11日目:宍喰〜夫婦岩(31.2km)






 宍喰の朝、水平線の彼方でおぼろげな雲の切れ目から太陽が顔を出す。今日も天気は良さそうだ。早速出発しようかとも思ったが、懐中時計の針はまだ5時半を指している。いささか早すぎるので、少し考え事でもしながら時間を潰そう。


何か良いことでもありそうな、実にすがすがしい一日の始まりである

 そういえば、なぜ宍喰は「ししくい」という地名なのだろうか。「シシ」といえば鹿や猪のことである。明治時代に入るまで、殺生を禁じる仏教の影響によって日本人は肉食を忌避する傾向にあったというが、この町では昔から肉を食べていたのだろうか。……そんな他愛もないことを考えているうちに程良い時間になったので歩き始める。

 ちなみに、実際には宍喰の語源は「脚咋(あしくい)」の転訛であるという。「脚」はイネ科の植物のことで、「咋」はそのまま食べるという意味だ。なんでも、古墳時代に大和朝廷から遣わされた鷲住王(わしずみおう)という人物が、この辺りの地域では初めて稲作を始めたことによりついた地名らしい。肉食とは真逆の、実に草食な語源であった。


宍喰の目抜き通りを歩き、そのまま旧道に入る

 国道55号線を道の駅まで引き返し、宍喰の中心部を貫く旧街道を進む。古い町並みがまとまって残っているというわけではないが、ところどころに昔ながらの町家が見られ、実に旧街道沿いらしい光景だ。

 町場を抜けて宍喰川に架かる橋を渡ると、旧道は海側へ大きくカーブして緩やかな上り坂となった。その途中には、まるで鱗のような文様がびっしりと刻み込まれた岩肌が露出していて驚いた。


国指定の天然記念物「宍喰浦の化石蓮痕」だそうだ


思わず「うわ、なんだこりゃ」という声が出た

 およそ約4千万年前の新生代古第三紀、この岩肌は海の底であったという。水流によって砂粒が運ばれ、このような規則的な文様が作られた。その後に固結して堆積岩となり、海洋プレートの押す力によって垂直に隆起して今に見られる断崖となった。――というような説明が案内板に書いてあった。なるほど、つまりこれは波の化石ということか。

 出発草々、なかなか良いモノを見せてもらった。旧道は新道と比べて時間がかかるものの、意外な発見があるから好きだ。通る車も皆無だし、やっぱり歩くなら旧道である。


国道と合流したところで、ついに徳島県から高知県に!

 岡崎港を出発してから10日間、ずっと徳島県を歩き続けてきたが、11日目にしてようやく高知県に入ることができた。四国遍路において、阿波は「発心(ほっしん)の道場」、土佐は「修行の道場」とされる。発心から修行へ、私の遍路は新たなフェーズへ突入した!……と意気込んでみたりしたが、まぁ、これまで通りマイペースに歩いていこう。

 国道を横切り旧道を辿っていくと、甲浦(かんのうら)の集落に出た。Y字型に切り込んだ港に沿って、多種多様な町家が並んでいる。なかなか趣きのある港町だ。


港の規模も昔から変わっていないのだろう


海上交通で京阪との縁が深かったようで、質の高い町家が並んでいる


「ぶっちょう」と呼ばれる折り畳みの作業台を持つ家も多い(写真中央下部)

 この「ぶっちょう」は普段は壁に立てかけておき、使用する時に足を出して縁台とするそうだ。販売する商品を並べたり、海産物を乾燥させたり、漁具を修理する作業台やベンチとしても使われていたという。江戸時代から明治時代にかけて土佐中に広く分布していたというが、これほどまとまって残る町は少なく貴重な存在だ。

 町並みを抜けると家屋はまばらとなり、程なくして国道55号線と合流した。片側一車線の道路は歩道部分が極めて狭く、猛スピードで通り過ぎるトラックの風圧に煽られ倒れそうになる。さらには路肩に側溝があり、その穴に杖の先がはまらないよう気を付ける必要もある。色々と精神的に疲れる区間なのだ。


峠のトンネルを越えると広々とした砂浜に出た

 この生見ビーチは波が激しくて遊泳が禁止されている一方、サーフィンのポイントとして知られているらしい。しかし現在はシーズンオフなのか人の姿はどこにもない。ビーチ沿いを一直線に貫く道路は解放感があって南国的な雰囲気を感じるが、それでもひと気がないとうら寂しさが漂う印象だ。

 砂浜を通り過ぎた辺りに東屋が設けられていたので、ベンチに腰掛けて一息入れる。だいぶ太陽が高くなっているが、果たして今は何時くらいだろうか。手探りで右ポケットの懐中時計を取り出そうとするものの、なかなか指先に金属の感触が当たらない。入っているのは財布だけだ。あれ、左に入れたっけ? しかし左のポケットを確認しても、出てくるのはiPhoneのみ。……うそ、だろ。

 慌ててポケットはもちろん、荷物までもひっくり返す。しかし、結局のところ懐中時計が出てくることはなかった。落としてしまったのだとは思うが、どこで落としたかは皆目見当がつかない。私はがっくりうなだれた。結構長く使っていた愛用の品ではあるが、落とした場所が分からない以上、戻って探しても時間を浪費するだけの可能性が高い。諦めるしかないようだ。

 後ろ髪を引かれつつ、次なる集落に向かって歩みを進める。くねくねと蛇行を繰り返す国道を進んでいくと、ふとカーブの先に何やら茶色い物体が転がっているのに気が付いた。途端に思わず顔をしかめる。それは自動車に轢かれた犬の……。私の気分はまたもやどん底へと突き落とされた。


幾度目かの山を越え、野根という集落に出た

 野根に辿り着いたところで、今度はカメラに異常が生じた。集落の入口にちょっとした神社があったので写真を撮ろうとしたところ、ズームが利かずピントも合わせられなくなっていたのである。レンズ内部の歯車か何かが壊れたのだろうか、私が所持する二つのレンズのうちメインで使用している広角レンズが使えなくなってしまった。

 懐中時計の紛失に続いてレンズの故障。度重なるあまりにあんまりな出来事に愕然とするばかりである。なんという厄日だろう。いったい誰だ、今日が良い日になりそうなどと思った間抜けな奴は。


野根には番外霊場の明徳寺がある
なんていうか、独特の存在感を醸しているお寺である

 失意にさいなまれながらとぼとぼ歩き、明徳寺へと差し掛かった。このお寺は東洋大師として知られ、江戸時代前期の寛永18年(1641年)には既に番外札所や遍路の宿泊所として利用されていた記録があるという。

 カラフルな仏旗と日の丸で出迎えられ、そのインパクトに足が止まる。度々の災難に心身ともに疲弊していたので、ここで少し休憩することにした。


ありがたいことに、境内には飲み物が用意されていた

 本堂でお参りを済ませ、それからお接待のコーヒーを頂く。木陰に座って休んでいるうちに不思議と心がほぐれ、現状を受け入れる余裕も生まれてきた。まぁ、失ったものはしょうがない。いつまでもくよくよせず、今手にあるものでやっていけば良いだけだ。

 気持ちの整理がつくと、狭まっていた視野が広まるものだ。ふと、境内の片隅に一棟の小屋が建っていることに気が付いた。入口の上部には「通夜堂」と書かれた扁額が掲げられている。ほぉ、このお寺には通夜堂があるのか。

 通夜堂とは、本来は夜通しで勤行する為の堂宇のことだ。それが転じ、四国遍路では遍路の簡易宿泊所という意味で使われている。民間の善根宿と共に、野宿遍路にとって心強い味方なのだ。しかもこの明徳寺では宿泊のみならず、申し出ればシャワーや洗濯機もお借りできるとのこと。いやはや、そのホスピタリティに頭が下がる思いである。

 夕方に到着した際にはぜひともお世話になりたいところだが、残念ながら現在はまだ午前10時。引き続き室戸岬を目指して歩いていこう。


野根の通りには、クランク状に折れ曲がる枡形らしき場所がある

 野根もまた昔ながらの町家がそこそこの割合で残されている。甲浦ほどの密度ではなく歯抜けになっている箇所も多いが、建ちの低い厨子(つし)二階建てや建ちの高い本二階建てなど、様々な町家が混在しているので見ていて楽しい。

 気になったのは、ところどころにクランク状に折れ曲がる「枡形(ますがた)」のような場所があったことだ。枡形は城下町において通りの見通しを効きにくくする為に設けるものだが……。気になったので野根について調べてみたら、中世の頃には集落の北側に居館と山城が置かれていたらしい。今に残るこの町割も案外本当に城下町として整備されたものだったりするのかもしれない。


これまたレトロな橋を渡り、野根を後にする

 国道55線が整備されるまで、野根から室戸岬へ向かう遍路は淀ヶ磯の海岸を歩くか、あるいは野根山の峠を越えていたという。特に満潮時には淀ヶ磯が通れなくなってしまう為、先ほどの明徳寺で一休みしてから野根山へと向かったそうだ。そのことから、明徳寺で休むことを「野根の昼寝」と呼んでいたらしい。

 現在は海岸沿いの国道55号線を歩くことになるのだが、野根から約8km先の入木まで続く区間は、集落はおろか自販機一台すら存在しない不毛のエリアである。そのことを知らなかった私は、なんと水をほとんど持たずに突入してしまったのだ。


野根からは海岸沿いの車道が延々続く

 切り立った山裾にへばりつくように伸びる国道55号線をただひたすらに歩く。磯に打ち付ける波は荒く、どこまで歩いても荒涼殺伐とした景色が変わることがない。左手には海、右手には山と自然要素盛りだくさんなのに、心が癒されるどころか剥き出しの野生に追い詰められていく気分である。空にはうっすらと雲がかかっているが依然として気温は高く、喉が必死に渇きを訴えるもののペットボトルは既に空っぽだ。

 一応、食料袋にはウイダーインゼリーがひとつだけ入っているが、それは最終手段として取っておきたい。地図を見てこの区間に町場がないことは分かっていたが、まさか家一軒、自動販売機一台すらないとは。自分の見込みの甘さを嘆いていたその時、少し先の路肩に青地の看板が立っているのが見えた。


近づいてみると……み、み、み、水があるですと!?
救いの神が舞い降りた!……と舞い上がったのも束の間


干上がってるじゃないですかァ――ッ!

 水という文字に歓喜したところでこの仕打ち。あまりにご無体。砂漠の中で見つけたオアシスが幻であったかのような慈悲の無さである。どうやら以前は水場として整備されていたようだが、管理する人がいなかったのか今ではご覧の有様だ。正直いって物凄くガッカリしたが、まぁ、ないものはないのだからしょうがない。

 目線を上にあげると、少し高いところに真新しいお堂が鎮座していた。どうやらあれが看板に書いてあった「法海上人堂」のようである。とりあえずお参りをし「できるだけ早く水のあるところに辿り着けますように」と切なる願いを祈っておいた。


野根から約2時間歩き続け、室戸市に入った


しかし室戸岬はまだまだ遥かな霞の向こうだ


東屋が設置されていたので昼食とした

 今日の昼食はおにぎり二個とウイダーインゼリー、それと宍喰の無人販売所で買った漬物である。ここのところ食事といえば、コンビニのおにぎりやスーパーの弁当ばかりとなっており、ほとんど野菜を口にしていない。少しでも野菜不足が補えるかと思って漬物を追加してみたのだが……キュウリは栄養的にどうなのだろう。

 食事を終えて少し休んでから歩き出す。固い舗装の車道を歩き続け、足の疲労がピークに達したかと思った頃、ようやく入木に到着した。


広々とした水田が広がる集落である


旧街道沿いに「佛海庵(ぶっかいあん)」という建物があった


その背後には立派な宝篋印塔が祀られている

 この佛海庵は、その名の通り佛海という人物が建てたそうだ。諸国の霊場巡礼を行っていた佛海は、宝暦10年(1760年)にこの入木に留まり庵を結んだ。数多くの石仏を築いて近隣住民からの信奉も篤く、また淀ヶ磯の難所に苦渋する遍路の支援にもあたったという。佛海は明和6年(1769年)に宝篋印塔下の暗室で入定し、即身成仏したそうだ。

 徹底した木食修行(木の実や草だけを食べる修行)の後に、自らの意志で地下に封じられそのまま亡くなる即身成仏。現代の倫理や価値観では計り知ることのできない壮絶な行為に敬意を表しつつ、丁重にお参りをさせて頂いた。

 佛海庵を後にして再び国道55号線を行くのだが、しばらく歩いたところでふと覚えのある違和感があった。一瞬にして血の気が引く。昨日に引き続き、杖を佛海庵に忘れてきてしまったのである。疲労が蓄積してきたのか、注意力が散漫になっているようだ。


水田越しに太平洋を見る
入木を過ぎてからは、海沿いに平地が多くなった


佛海庵から約1時間、15時半に佐喜浜町へ到着した

 今日これまで寄ってきた町はいずれも集落に毛が生えた程度の規模であったが、佐喜浜町はスーパーもあるそこそこ大きな町である。もちろん自販機も複数設置されており、私は喜び勇んでジュースを買い求めた。キンキンに冷えたCCレモンが微炭酸の泡と共に喉を通り抜け、たちまち生き返った気分となる。

 高知県に入って気が付いただが、大塚製薬の自動販売機を目にすることがなくなった。徳島県内では猛威を振るっていた大塚製薬の威光も、高知県までには及ばないのか。遍路を始めてから水分補給にはずっと大塚製薬のMATCHを愛飲してきただけに、少々寂しさを感じつつCCレモンを飲み干した。


町の出口にあった国道沿いの畑
呪術的な何かだろうか?(たぶん鳥除け……だろう?)

 佐喜浜町を後にしてさらに歩いていく。ここにきて風がかなり出てきたようだ。向かい風に菅笠が煽られ、吹き飛ばされそうになる。必死になって頭を押さえつつ、前かがみの体勢で突き進む。

 昼過ぎまでの快晴はどこへやら、いつの間にか空には雲が流れ込んできており、天候の悪化を予感させる。雨にならなければ良いのだが……。


海岸線の先に並んで切り立つ巨岩が見えた


夫婦岩とのことで、注連縄で繋がれていた

 この夫婦岩、よくよく見ると岩肌が蜂の巣状にブツブツしていて結構グロい。どうやら風触作用でできた穴らしいが、最初に見た時は背筋にぞわぞわとしたものが走った。遠目で見ると仲睦まじく見える夫婦も、間近になりすぎると色々と見なくて良い部分まで見えてしまう。そんな夫婦関係を風刺している――ワケがない。


夫婦岩の東屋にテントを張らせて頂いた


水場が設けられており、ウミセミだろうか、キレイな小鳥が水浴びしていた

 時間は既に17時を過ぎており、だいぶ疲れているので今日はもうここまでとする。いやはや、今日は悪い意味で色々なことがありすぎた。懐中時計をなくし、カメラのレンズが壊れ、集落のない淀ヶ磯を水も持たずに歩き、佛海庵では杖を忘れて取りに戻った。高知県に入って早々ではあるが、既に心身共にくたくたのボロボロだ。まさしく「修行の道場」という呼称にふさわしい土佐の初日であった。