遍路12日目:夫婦岩〜室戸岬(18.3km)






 海から吹き付ける強風がテントを揺らす。フライシートが休むことなくバサバサと音を立て続け、私の安眠を妨げる。さらには朝方に雨が降り出し、風に煽られた横雨がテントを遠慮なく打ち鳴らす。……目覚めの気分は最悪だ。

 ザックを背負う体はどこか重く、疲れが抜けていない感じがする。だが、まぁ、問題はない。なぜなら今日は室戸岬に宿を取っているからだ。この夫婦岩から室戸岬までは残り12km強と大した仕事ではない。実質の休息日とすることに決めたのだ。

 3時間ほど歩けば到着する距離なのでなるべく出発を遅らせたいところではあるが、なんでも今日は昼頃から雨になるらしい。到着が早すぎると宿に入れないが、もたもたしていると雨に降られそうで、ジレンマだ。


とりあえずいつも通り6時半に出発、国道55号線をゆっくり歩く


椎名港では漁師さんが漁網の手入れをしていた
海が荒れて漁に出られなかったのだろうか


アニミズムな雰囲気を感じる巨岩が象徴的な村の神社


ここもまた歴史を感じさせるたたずまいだ

 これまで通ってきた旧土佐東街道沿いの集落は、通りに面して主屋が建ち並ぶ町家型のところが多かった。しかしこの椎名集落は通りに沿って塀や生垣が連なっており、主屋の前に門を設ける農家型の家が多い。塀の素材は煉瓦造りのものが目を引くが、モルタルやコンクリートが大部分のようだ。しかしそれでも下部が石積みであったりと、いずれも立派な作りである。中には丸みを帯びた川原石をコンクリートで固めた壁の家もある。

 私は以前、同じく高知県東部に位置する吉良川という集落を訪ねたことがある。伝統的な家屋が高密度で現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた集落だ。そこもまた煉瓦造りや川原石を用いた壁が多く見られ、なんとなく共通した印象を受けた。吉良川も遍路道沿いの集落であるし、明日あたり寄ることになるだろう。


椎名集落を出てさらに進んでいくと、大きな建物のある町が見えた

 小雨がパラつく中、三津という町に到着した。いや町というほど大きくはないのだが、遠目に見て分かるほど大きな建物がある分、これまでの集落よりかは幾分町といえるだろう。路肩に黄色い花をつけた木が植えられており、甘い香りを辺りに漂わせていたのが印象的だ。

 まだ9時なのにも関わらず、室戸岬までの距離はもう残り6km足らず。このままだと昼前に着いてしまうのは確実だ。途中のバス停に屋根付きの待合所があったので、雨宿り兼時間潰しとしてしばらく休ませて貰うことにした。

 たっぷり休憩を取ってから腰を上げて再び歩き出す。30分ほど進んだところで高岡という集落に差し掛かったのだが、そこにはこれまで見たことがない特異な集落景観が広がっており、いささか驚かされた。


国道沿いに石積みの壁が連続しているのだ


もはや石垣というレベルではなく、高く、分厚く、まるで城壁のようである


コンクリート製のものは、より物々しい印象だ


壁が玄関に直結してる家もある

 太平洋を臨むようにして建つこれらの家々は、いずれも高い塀と屋敷林に覆われていて家屋がほとんど見えない状態だ。特に古い家ほど屋根が低く、門の隙間から辛うじて玄関がうかがえる程度である。ここまで守りを固めた集落は見たことがない。

 室戸岬の沖合を流れる黒潮は台風の通り道でもある。室戸岬の周囲は毎年何度も暴風雨にさらされ、その被害は相当なものなのだろう。この高岡集落に見られる分厚い壁や敷地に植えられた木々は、台風から家屋を守るための備えなのだ。それにしても、これほどまでガチガチに防衛しなければならないとは……室戸の台風、恐るべし!

 連なる高壁に目を見張りつつ歩みを進めていくと、集落が途切れた辺りで前方に巨大な像が現れた。どうやら弘法大師のようである。


高台に屹立する白い空海が国道を見下ろしている

 このやたら目立つ巨大大師像は、弘法大師入定1150年の遠忌にあたる昭和59年(1984年)に築かれたそうだ。鉄筋コンクリート造りであり、基壇を含めた高さは21メートルにも及ぶらしい。正直いって、ここまで巨大だとありがたいのかどうかイマイチ分からない感じであるが、まぁ、いよいよ室戸岬も佳境に入ったんだろうなという雰囲気はある。ボスが潜む城の入口に立ったような気分である。

 第23番札所のある日和佐から80km以上に渡って歩き続けてきた長距離区間。三日目にしていよいよ第24番札所の最御崎寺(ほつみさきじ)に到着するのだ。室戸岬の先にあるから最御崎寺、実に分かりやすい寺名である。さぁ、いざいざ最御崎寺へ――とその前に、ふと歩道の脇から海へと伸びる小路が気になった。


ほうほう、乱礁遊歩道とな? おもしろそうじゃないか

 岬といえば切り立った岸壁やごつごつとした岩礁など、ワイルドな地形というイメージがある。このような遊歩道をわざわざ設けているのだから、室戸岬の海岸もまた見るべきポイントが多いのだろう。iPhoneの画面を見るとまだ10時半。時間はたっぷりあるので、ちょいと散策してみようじゃないか。


うっすらと靄がかかった岩場を歩く


「おさご」という美女の伝説が残るビシャゴ岩
合掌する手にような形だ

 室戸岬の海岸もまたご多分に漏れず数多の巨岩によって覆われていた。波風の浸食作用を強く受けているのか、海に近づくにつれ丸みを帯びた岩が多く、夫婦岩にも見られた蜂の巣状の穴も確認できる。赤と白がまだらに入り混じった色彩も相まって、なんとなく有機的な印象を受けた。まるで世界の果てというか、この世の終わりというか、なんとも終末的な風情が感じられた。

 ちなみにビシャゴ岩に残る伝説であるが、かつて室戸に「おさご」という美女がいたそうだ。あまりに美人すぎたことから数多くの男衆に言い寄られ、精神的に疲れ果てたおさごはビシャゴ岩から海に身投げしたという。いやはや、なんとも贅沢な悩みというか、なんというか、あまり共感できない逸話である。


弘法大師が行水したとされる池もあった


その池から山側に行ったところには御厨人窟(みくろど)が存在する(左)
空海が修行をし、悟りを開いたとされる洞窟だ

 この室戸岬は空海が修行に励んだ場所のひとつでもある。讃岐国で生まれた空海は京の大学で学んでいたが、それだけでは飽き足らず19歳の時に山林での修行を始めたそうだ。その際に室戸を訪れ、御厨人窟に篭って虚空蔵菩薩への祈りを唱え続ける「虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法」を実践した。すると虚空蔵菩薩の化身である明星が口の中へと飛び混み、空海は悟りを開いたのだそうだ。その時、洞窟内から見えた景色は空と海しかなく、そこから「空海」と名乗るようになったという。


御厨人窟には五所神社が祀られている
空海自身が愛満五社権現を勧請したそうだ

 これまで遍路道を歩いてきて幾度となく空海の伝承を目にしてきたものの、やれ杖を突いて水を湧かしただのやれ塩鯖を生き返しただの、いかんせん超人的すぎて「ホンマかいな?」と首をひねることも少なくなかった。

 しかしながら、この御厨人窟は空海が修行していた場所として説得力がある。文献や伝承にあった場所が、その内容のままにこうして実在しているのだから。空海という人物が実在し、ここにいたというリアリティが感じられる。同じ空間に立つことで、空海が見たこと、感じたことを共有でき、より身近な存在として自分の中に落とし込むことができた。

 悠久の御厨人窟に思いを馳せつつ、そろそろ最御崎寺に向かうとしよう。最御崎寺は室戸岬の先端に聳える山上に位置している。伽藍へと至る登山道は石畳で整備され、現在も昔ながらの風情を残している。


最御崎寺への登山道は国道の脇から伸びている


登り口には観音窟が口を開けていた

 この観音窟は空海が一夜で掘ったとされており、唐へ渡った空海が持ち帰ったという大理石の石造如意輪観音半跏像を安置していたという。実際には平安時代後期の作であるというが大理石の石像は珍しく日本唯一の例であり重要文化財に指定されている。現在は宝物殿に安置されているとのこと。

 明治時代に入るまで、最御崎寺は女人禁制の山であった。その頃はこの観音窟の近くに女性用の納経所があり、女性遍路はここで納経を済ませてから女道を通って次の札所に向かったという。女道の詳細は分からないが、海岸沿いを行くルートのことだろう。


ということは、この山道は男道と呼ばれていたりするのだろうか?


徐々に霧が濃くなってきた

 石畳の道は非常に風情があるが、幻想的な霧のおかげであの世へと続く階段っぽい感じである。濡れた石畳は滑りやすく、気を遣いながら登っていくこと約30分。ようやく最御崎寺に到着した、のだが……。


最御崎寺は霧ですっぽり覆われていた

 ちなみに最御崎寺の山門前には、明治32年(1899年)に設置された室戸岬灯台が存在する。ちょっとした展望台のようになっており、晴れていれば太平洋を一望できるようだ。

 このような状況なので何も見えないだろうと思ったものの、海からの湿った風が室戸岬に当たって上昇気流となり雲が生成されるという気象のメカニズムをリアルタイムで目にすることができた。山の下からもくもくと立ち上ってくる雲は意外な迫力があり、これはこれで楽しむことができた。……と強がりを言ってみる。

 気を取り直してお参りだ。寺伝によると最御崎寺は嵯峨天皇の勅命を受けた空海が大同2年(807年)に開山したとされる。当初は現在の奥の院にあたる四十寺山に位置していたそうだが、寛徳年間(1044〜1055年)頃に現在地へ移転したという。室戸市内から見て東にあることから「東寺」と呼ばれて崇敬を受けてきたが、明治の廃仏毀釈によって荒廃し、現在の堂宇はその後の大正時代に再興されたもののようである。


お参りを済ませ、本堂の裏手の道から山を下りる

 長かった室戸岬までの道のりを乗り越えての参拝に感慨深いものがあるのかと思いきや意外とそういうこともなく、達成感もイマイチ薄い。これは恐らく、この先まだまだ長い遍路道が待ち受けていることを知っているからだろう。「修行の道場」こと土佐国は始まったばかりなのだ。


最御崎寺を出て車道を下っていくと霧から抜けた
眼下に広がるのは土佐湾沿いに続く旧街道と町並みだ

 本来、今日は最御崎寺の宿坊に泊まろうと考えていた。遍路における体験のひとつとして、札所の宿坊を利用してみたいと思ったからだ。しかし電話をすると満室とのことであえなく断られてしまった。しょうがなく、麓の宿に予約を入れた次第である。

 ゆっくりのんびり山を下りても時間はまだ14時。いささか早すぎるので、時間を潰すべく室戸岬を散策することにした。とりあえず岬の先端を目指してみよう。


室戸岬灯台の直下には中岡慎太郎がたたずんでいた

 薩長同盟の立役者として坂本竜馬と共に知られる中岡慎太郎。高知市の桂浜にある坂本竜馬の銅像はあまりに有名であるが、室戸岬にも中岡慎太郎の銅像があったのか。高知城下に生まれた坂本とは異なり、中岡は安芸郡北川郷の庄屋出身とのことで、安芸郡の中でも象徴的な室戸岬に銅像を立てることにしたのだろう。

 中岡慎太郎像の前からは遊歩道が伸びており、室戸岬の南端付近を散策できるようになっている。案内板によるといくつか見所があるようなので、押さえておくとしよう。


真っ直ぐ進むと灌頂ヶ浜(かんじょうがはま)という所に出た
一応ここが岬の先端になるのだろうか


岩に根を張り、四方に枝を広げるアコウ

 室戸岬は黒潮の影響で冬も比較的暖かく、室戸岬の南側には亜熱帯性の植物が生育しており、「室戸岬亜熱帯性樹林および海岸植物群落」として国の天然記念物に指定されている。このアコウもまたその一部だ。アコウは東南アジアから紀伊半島にまで分布しているが、室戸岬のものは樹高を低く抑えることで台風に耐えているという。

 また「室戸岬」全体としても様々な表情を見せる景勝地として国の名勝に指定されている。実際に遊歩道を歩いてみるとあちらこちらに目を引く地形が多く、次々と景色が変わるので飽きることなく散策を楽しむことができた。室戸岬、観光スポットとしてもなかなかのオススメである。

 さて、そうこうしているうちに15時になった。宿を訪ねるともう準備できているとのことで、さっそくチェックインさせて頂いた。


旧街道の入口にたたずむ民宿である

 シャワーを浴びて水仕事を終え、部屋に戻るとたちまち眠気がやってきた。雨にあてられた為か少し熱っぽい感じもする。やはり相当疲れが溜まっているのだろう。少しだけあるく休息日にするつもりだったのに室戸岬を観光で歩き回ってしまい、結局はさらに疲労を上積みした感じである。

 とりあえず夕食まで昼寝しようと思ったのだが、その前に済ませておかねばならない仕事がある。カメラやiPhone等、各種電気機器の充電だ。

 特にiPhoneの電池として使っているエネループの充電には一苦労である。本数が多い割にケチって2本ずつしか充電できない充電器を買ってしまった為、すべての充電に時間がかかる。もう少しお金を出して4本ずつ充電できるタイプにするべきであった。


なにより充電完了を待って次の電池に取り換える作業が面倒だ


夕食はボリュームたっぷりで大満足であった

 そういえば、遍路を始めてからずっと、食事はスーパーやコンビニの弁当のみであった。それだけに宿の食事には期待を寄せていたのだが、出てきたものはそれを大いに上回る量と質であった。

 カツオのタタキにマンボウの酢味噌和え、水餃子に唐揚げ、タケノコの煮物。これだけでも十分な量なのだが、さらに写真には写ってないが豚の生姜焼きも追加され、ご飯が進む進む。結局は三杯おかわりしてしまい、腹ははち切れんばかりにパンパンである。

 特にマンボウは生まれて初めての体験であった。コリコリとした食感がおもしろく、クセや臭いも特にない。淡泊ながらもうまみを感じられる、実に不思議な味わいだ。

 実をいうと、今日は最御崎寺の宿坊に泊まる気満々だっただけに、この宿に泊まること は不本意であり、あまり乗り気ではなかった。しかしながら、このようなご馳走を出されてしまったらテンション上がる他はない。一瞬にして私の中の評価が翻ったのであった。