朝7時、私はお母さんにお礼を述べて友達の家を後にした。突然の来訪だったにも関わらず大変親切にしていただき、本当に感謝感謝の一言である。 一昨日からの雨はいまだに降り続いているが、今日さえ乗り切れば明日からは天気が好転するようなので気持ちは楽だ。 それよりも問題なのは、頭に残るずっしりとした重みである。脳が締め付けられるように痺れ、目の奥がズキズキ痛む。土佐流おもてなしの洗礼というべきか、なんというか、完全に二日酔いだ。霞がかった頭を押さえつつ、昨日の最終地点である津照寺まで戻る。 とりあえずの目標は、次なる第26番札所の金剛頂寺である。そのお寺は室戸市街地の西に聳える行当岬(ぎょうとうさき)の頂上にあるらしく、地元では西寺(にしでら)と呼ばれている。室戸岬の東寺こと最御崎寺と対を成す存在であり、津寺こと津照寺と併せて室戸三山と称されている。――ということを、昨日友達から教わった。 火照りが残る顔に打ち付ける雨の冷たさに心地良さを感じつつ、旧街道を進んでいく。40分ほど歩いたところで町並みが途切れ、田畑が広がる一帯に出た。 川村与惣太は江戸時代中期の享保5年(1720年)に地元の郷士として生まれた人物らしい。金剛頂寺の別当職(住職)を務めていたが52歳の時に辞め、明和9年(1772年)より土佐国東端の甲浦から西端の宿毛松尾坂までを行脚して地名や故事を歌に詠み、その記録として「土佐一覧記」を著したという。まさに私がこれから行く道のりを歩き通した人物なのだ。 ズラリと並ぶ墓石はどれも古く立派なものだが、その中でも一際手厚く祀られている左から二番目の墓石が川村与惣太のもののようだ。今後の安全を祈りつつ、軽く手を合わせてから先へと進む。 室戸岬の最御崎寺は明治時代に入るまで女人禁制の山であったが、こちらの金剛頂寺もまた同様に女人禁制であった。女性の遍路は海岸線沿いに行き、岬の南西にある不動岩の女人堂で納経を済ませていたそうだ。なんでも不動岩は、空海が修行を行っていた場所だという。 寺伝によると、金剛頂寺の開山は最御崎寺や津照寺と同じく大同2年(807年)。嵯峨天皇の勅願を受けた空海が薬師如来を刻んで創建したらしい。その際に寺の表鬼門として不動岩に不動明王を勧請したとのことで、以降、不動岩は「波切不動尊」として漁師たちから信仰を集めてきたという。 室戸三山のうち最も隆盛を誇っていたのはこの金剛頂寺であったとのことだ。京都の東寺に残る「百合文書(ひゃくごうもんじょ)」のうち平安時代の延久2年(1070年)に記された「金剛頂寺解案」によると、当時の寺域は現在の室戸市の全域に渡る範囲に及んでいたという。最御崎寺と津照寺はこのお寺の支配下にあったのだ。 金剛頂寺は16世紀頃まで全盛を誇り、室町時代になると大火によって堂宇が失われたものの、戦国時代には土佐国の戦国武将である長宗我部元親(ちょうそかべもひちか)が寺域を寄進している。また江戸時代には土佐藩主の祈願所として堂宇が整備されたそうだ。実際に訪れてみると室戸岬よりも平坦な土地がかなり広く、なるほど大寺院として発展するポテンシャルは高かったと実感できる。 有力な寺院なだけあって、明治維新においても廃仏毀釈の影響はあまり受けなかったようだ。ただし明治32年(1899年)に発生した火災により堂宇が焼失し、今に残るものはその後に再建されたものとのことである。とはいえ山寺としての雰囲気はなかなかに良く、また伝来する宝物も数多い。白鳳時代の銅造観世音菩薩立像や平安時代後期の木造阿弥陀如来坐像など7件が重要文化財に指定されている。 まだ9時ということもあって、境内に見られる遍路の数はまばらだ。ゆったりとお参りを済ませ、納経も待ち時間なく済ませることができた。次なる札所の神峯寺(こうのみねじ)までの距離は約27.5km。頑張れば今日中にたどり着けるかもしれないが、だが、まぁ、そう急ぐこともないだろう。たっぷりと休憩を取り、10時を回った頃に境内を出た。本堂の左手から伸びる細いアスファルトの路地を行く。 この遍路道もまた昔ながら使われてきた古道のようで、路肩には五輪塔や道祖神が祀られていた。傾斜が特に急な箇所には土留めの石畳が施されており、非常に良い感じのたたずまいだ。山の上にある札所は辿り着くまでが一苦労な分、このような古道が残っている確率が高いから好きである。 情緒たっぷりな遍路道を抜けると、開けた視界の先に海が見えた。雲の切れ目からは久方ぶりの日光が差し込んでおり、景色を明るく照らして南国的な気分を盛り上げてくれる。いつの間にか二日酔いもサッパリ消え去っており、実にすがすがしい気分である。 道の駅があったので、ベンチに座って一息入れる。まだお昼にはいささか早いが、山登りを終えてちょうど小腹が空いたところだ。ザックを開けると昨日の朝に宿で貰ったおにぎり二個が残っていたのでペロリと平らげた。エネルギーを補給したところで再出発だ。 この吉良川は土佐東街道沿いの在郷町であるが、明治時代から昭和初期にかけて木炭の生産と流通で財を成したという。特に大正時代には火力が強くて長持ちする白炭が生産されるようになり、「土佐備長炭」として珍重された。 現在も旧街道に沿ってかつて木炭問屋や廻船問屋だった町家が建ち並んでおり、その立派な町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。水切り瓦など室戸ならではの地方色も強く、とても絵になる光景だ。 実は私は去年の10月にもこの吉良川を訪れている。まだ半年強ぶりの再訪なので見学はほどほどに先へと進みたいところであるが、それでもじっくり魅入ってしまった。 旧街道に沿って町家が建ち並ぶ浜地区に対し、一段高い丘地区には「いしぐろ」と呼ばれる石垣で敷地を囲った農家型の家々を目にすることができる。「いしぐろ」に使用する石材は川や海岸から運んできた丸石で、積み方も家ごとに異なりユニークだ。 吉良川にはほんの10分程度立ち寄るつもりだったのだが、丘地区まで散策しているうちにいつの間にか時間が過ぎてしまい、結局吉良川を出たのは一時間近く経った12時半頃と相成った。文化財となるとついつい深入りしてしまうのが私の悪い癖だ。だってしょうがないじゃない、そこに古いモノがあるんだもの。 行当岬を過ぎた頃から、あちらこちらでビワ畑を見かけるようになった。日当たりの良い南面した土地が続くこの海岸線はビワの栽培に適しているらしく、早生ビワの産地として有名なのだそうだ。 この直売所では実が大きく粒の揃った600円のパックから、色にややくすみのある一ザル100円の超お買い得品まで、様々なニーズに合わせたビワを販売している。……がしかし、私はどうもビワだけはお金を出して買う気にはなれなかった。 小学生の頃のことだ。何気なく食べたビワの種を庭に植えたのだが、普通に芽が出て数年で立派な木に成長した。毎年山のように実をつけ、我が家ではビワが食べ放題となったのだ。モズがきてうるさく鳴くことから父親によって切られてしまったが、私の中でビワは商品作物としての価値が著しく低下したままである。 おいしいビワを丹精込めて作ってらっしゃるビワ農家の方々に対して失礼極まりない話であるが、食べ過ぎて避けるようになったというなんとも贅沢な悩みである。代わりといってはなんだが、近くにトマトの無人販売所もあったので、そちらで買わせて頂いた。 地図を見るとどうやらこの先からは峠道に入るらしい。ちょっとした山登りとなるのだろうし、弁当を食べて力を蓄える。コンビニの弁当はどうしても茶色いおかずが多いが、爽やかな酸味のトマトがビタミンと水分を補ってくれた。 国道55号線から外れて住宅街を抜けていくと、地図の情報通り遍路道は山へと向かっていく。さぁ、お次はどんな古道が私を待ち受けているのだろう。 歩き遍路において、峠の古道は楽しみの一つである。平地の街道はことごとく舗装され、昔とは様相がだいぶ変わっていることだろう。しかし峠に残る古道は別だ。昔から人々が歩き続けてきた、その当時から変わらぬ風景を目にすることができる。悠久の歴史に直で触れているような気分に浸ることができるのだ。 また、単純に古道は歩いていて楽しい。上り坂、峠、下り坂、すべての場所で道の表情がころころ変わり、決して飽きることがない。確かに峠道は平地より疲れるものの、それが全く苦にならないに魅力的なのである。 遍路道で見かける動物の中でも、蛇だけは決して慣れることがない。見かける度に驚いては足がすくんでしまう。種類によっては毒を持つ生物なだけに、本能的に危険を察知しているのだろうか。単に私が臆病なだけか。 加領郷は古くからの漁村のようで、江戸時代には土佐藩より漁業権を与えられ周辺集落を統治していた。中でも網元であった大西家は地下一階地上二階建ての立派なもので、物見櫓としての機能を持っていたという。一段高いところに位置するこの家の二階からなら、確かに周辺海域を見渡せることだろう。船の行き来を監視していたのだろうか。 立派な家屋をほうほうと眺めながら歩いていく。加領郷の集落を出たところには、土佐湾に面して大師堂が鎮座していた。行当岬の不動岩と同様に空海が修行を行っていたとされる場所であり、「弘法大師御霊跡(ごれいせき)」として祀られているのだ。 この岩は「霊石大岩」というそうで、不思議にもこの岩の上にある窪みに溜まった水はゆっくり右回転しているのだそうだ。空海がこの水で法衣を洗ったとも伝わっている。 私はこの逸話を後で知ったので、窪みの水を実際に確認してはいない。ただ単に「なんか謂れがある岩なんだろうな」と思って写真に撮っただけである。あらかじめ知っていれば本当に水が回転しているのか確かめただけに、惜しいことをした。 先のことについて知りすぎると初見の楽しみが損なわれてしまうが、知らないは知らないでこういうスポットをスルーしてしまう。旅行において度々思うことではあるが、あらかじめ集めておく情報量の調整というのは本当に難しい。とはいえ、見逃した場所があるならあるで「また行こう」という動機にも繋がる。まぁ、結局は巡り合わせか。 土佐くろしお鉄道阿佐線(通称ごめん・なはり線)の終着駅がある奈半利はそこそこ大きな町である。ここもまた旧街道に沿って立派な伝統家屋が散在しており、なかなかに散策のしがいがある。……のだが、こちらも去年吉良川を訪れた際に併せて見学しているので今回はスルーさせて頂こう。日没が迫る今、寝床の確保を優先したい。 さてはてどうしたものかと奈半利川に架かる橋を渡っていたところ、「二十三士温泉」の看板が目に留まった。ほぉ、この町には温泉があるのか。そのまま吸い寄せられるままに矢印が示す先へと向かう。 温泉もまた遍路における楽しみのひとつだ。四国には温泉が無数に存在しており、場所によってお湯の違いも楽しめる。ここはぬるぬるとしたアルカリ性の泉質だ。一風呂浴びてサッパリした後にはお約束のごとくコーヒー牛乳を頂く。いやぁ、気分は上々だ。 心配していた寝床であるが、田野駅に隣接する道の駅にちょうど良い屋根付きのスペースがあったのでテントを張らせて頂いた。駅前のスーパーで買ったカレーと道の駅で売っていた「カンバ餅」を食べて夕食とする。 カンバ餅はイモを練りこんだ餅のことで、安芸の名物とのことである。「カンバ」は「干し芋」の意味でありで、本来はもち米と干し芋を一緒に突いて作るらしいが、これは米粉と芋粉を用いており、中には餡子をくるんでいる。 思っていたより硬目で弾力があり、黒糖を使っているのか風味豊かでなかなか美味だ。うん、これは良いお菓子を知ることができた。実に幸運な発見だ。 Tweet |