遍路15日目:道の駅 田野駅屋〜安芸市営球場(25.4km)






 田野駅の裏側には水田が広がっているらしく、昨夜はカエルの大合唱の中での就寝と相成った。しかしながら安眠が妨げられるというようなことはなく、不思議とぐっすり眠ることができた。人の声や車の音とは違い、環境音は騒音とはならないらしい。

 道の駅から見上げる空は雲一つすらない青空だ。久方ぶりの晴天に、早朝なのにも関わらずテンションが上がる。そのままの勢いでテントをたたんでいたら、ふと手の中に何やら硬い感触があった。慌ててテントを広げ直すと、内部のポケットにメガネを入れたままであった。なんとか救出できたものの、フレームが少し曲がってしまった。……あんまり浮かれすぎるなということだろう。

 今日の第一目標は昨日たどり着けなかった第27番札所の神峯寺(こうのみねじ)である。距離だけ見ればもうあと10km足らずといったところだが、どうやら神峯寺は山の上にあるようなので、お昼ぐらいに辿りつければ御の字といった感じだろうか。

 とりあえず旧街道まで戻ろうと国道55号線を引き返していたところ、ふと路肩に「二十三士の墓」と刻まれた石碑が立っていた。そういえば、昨日お風呂を頂いた温泉の名前も「二十三士温泉」であった。


福田寺の墓地に並ぶ「二十三士の墓」

 なんでも「二十三士」とは、幕末に土佐勤王党の解放を求めて武装決起した安芸郡の武士たちらしい。

 土佐郷士の武市瑞山(たけちずいざん)らが尊王攘夷を掲げて立ち上げた「土佐勤王党」は、開国・公武合体派の参政として藩政を担っていた吉田東洋を暗殺し、藩内での力を高めていった。しかしながら、安政の大獄によって失脚していた前藩主の山内容堂(やまうちようどう)が謹慎から復帰すると、吉田東洋を重用していた容堂は土佐勤王党を徹底的に弾圧、瑞山ら土佐勤王党の主要メンバーはことごとく投獄された。

 元治元年(1864年)、田野の郷士であった清岡道之助(きよおかみちのすけ)を始めとする二十三士が、土佐と阿波を結ぶ主要街道の一つ「野根山街道」の岩佐関所に武装して駐屯し、「藩政改革、攘夷、瑞山の釈放」を訴えたという。山内容堂はこれを反乱とみなして即座に派兵。二十三人は捕えられ、奈半利河原において斬首された。その翌年には瑞山が切腹し、土佐勤王党は壊滅している。

 武市瑞山といいこの二十三士といい、幕末の動乱期において自分の意志を貫き通したという点は大変立派で崇高だと思うが、いささかストイック過ぎた気がしないでもない。もう少し柔軟性をもってうまく立ち回れていれば、明治以降も活躍できた人材だったのではないだろうか――と思うのは、後世となった今だからこその意見だろうか。


歴史のある町らしく、立派な御殿も残されている

 二十三士の墓がある福田寺から入り組んだ路地を進んでいくと、たいそう立派な門構えの屋敷が姿を現した。田野一の豪商であった「岡家住宅」とのことで、地元では「岡御殿」と呼ばれているらしい。参勤交代や東部巡視などの際に本陣として藩主が宿泊していた家らしく、現存するものは幕末の天保十五年(1844年)に建てられたという。

 まるで城郭の御殿のような立派なお屋敷である。一般公開もしているようなのでぜひとも拝観してみたいと思ったが、オープンは9時とのこと。現在時刻は6時半と待つにはいささか早すぎるので、残念だが先へと進むことにする。


川沿いには立派な土蔵を持つ酒蔵があった

 先日の友人宅で受けたおもてなしの内容から分かる通り、土佐といえば酒飲みの国である。さぞ酒蔵もあちらこちらにあるのだろうと思いきや、意外にも高知県に入ってから遭遇した酒蔵はこのM乃鶴酒造が初めてであった。

 もっとも、室戸岬の界隈は険しい地形ゆえ平地が少なく、これまで通り過ぎてきた集落や町は漁業や林業で生計を立ててきたところがほとんどだ。ここにきて、ようやく酒米を育てられるくらいにまとまった耕作地が広がる土地に辿り着いたというわけである。


旧街道沿い、田野の町並み入口には独特な道標が立っていた


伝統的な町家が建ち並んでおり、良い雰囲気である

 奈半利川沿岸地域における物資の集散地として賑わっていたのだろう、田野の旧街道沿いには今もなお昔ながらの商家建築が並んでいる。昨日訪れた吉良川のような目を見張るくらいに立派な家屋こそ多くはないものの、建ちが低い厨子(つし)二階建ての町家が多く、江戸時代から明治時代にかけての古い家屋が高密度で残っている印象だ。

 なかなかどうして良い町並みではないか。田野町はその面積が約6.5平方kmと四国で最も面積が小さい自治体であるとのことだが、限られた範囲に見所かギュッと詰まっており、朝から濃度の濃い散策が楽しめた。


現役の店舗の中で特に印象に残ったのは製材屋である


田野の町を出てからも、製材所や貯木場らしい広場が度々目に留まった

 徐々に平坦な土地が増えてきたとはいえ、室戸半島の大部分は山林地帯である。特に奈半利川の上流域では上質な杉材が採れるらしく、江戸時代からその森林資源が利用されてきた。また明治時代から昭和にかけては川沿いに魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の軌道が通っており、木材の運搬が行われていたという。

 現在は安価な輸入材の台頭によりかつてほど林業が盛んではないのだろうが、それでもこのような土地に根差した材木屋や製材所がまだまだ残っているのを見るに、林業が地域の生業として受け継がれていることが実感できるというものだ。


田野を出てから1時間半ほど歩くと、安田川に差し掛かった


安田の町並みもなかなかのもので、ついつい足が留まってしまう

 田野に引き続き、安田もまた町並みが印象的な町である。東西に通る旧土佐東街道と南北に通る安田川沿いの馬路道を中心に、土佐漆喰で塗り篭められた主屋や土蔵が建ち並んでいる。家屋の種類は多種多様で統一感は薄いが、それがまたこの町ならではの持ち味として良い感じのたたずまいを見せている。


裏路地の雰囲気も素晴らしく良い


実に絵になるこの一角は、幻の日本酒と称される「南酒造」の酒蔵だ

 ここ安田町には二件の酒蔵が存在する。「土佐鶴酒造」と「南酒造」である。土佐鶴といえば全国的に知られる超有名な日本酒であるが、まさかその酒蔵が失礼ながらこのような小さな町にあるとは露知らず。外観もごくごく普通の工場のようだったこともあり、写真一枚すら撮らずに通り過ぎてしまった。

 一方で、南酒造は大量生産を良しとせず、知る人ぞ知るというような酒蔵のようである。建物も昔ながらのものを受け継いでおり、安田の伝統的な町並みに溶け込んでいる。蔵の扉に描かれた銘柄「玉の井」のロゴもバシッと決まっていて非常にカッコ良い。

 超グローバルと超ローカル。実に対照的な二つの酒蔵であるが、私的にはやはり南酒造の方がより魅力的に映った。土佐鶴もよくよく見知った気さくな存在ではあるのだが、酒蔵を訪れるほどの稀少性となるとどうしても分が悪い。南酒造は店頭販売も行っているようなのでつい暖簾を潜ってみたくなってしまうが、今の私は白装束をまとった遍路の身。人前ではアルコールを断つと決めていただけに、今回は涙を呑んでスルーだ。


安田の町を出ると遍路道は旧街道から外れて神峯寺へと向かう


神峯寺へ通じる山道の入口には鳥居が構えられていた

 四国八十八箇所は仏教の霊場なのに鳥居を構えているとはこれいかに。……と白々しくいってみたものの、既にお分かりの方も多いだろう。明治時代に入るまで、神峯寺は仏教と神道の要素が混ざり合った神仏習合の霊場だったのだ。

 神峯寺は古くは観音寺といい、寺伝によると神功皇后が三韓征伐の際に勝利を祈願して天照大神を祀ったことに始まるという。その後の天平2年(730年)、聖武天皇の勅命を受けた行基が天照大神の本地仏である十一面観世音菩薩を刻み、本尊として寺院を開いた。さらに大同4年(809年)には空海が堂宇を建立し、「観音堂」と名付けたという。

 長きに渡る歴史があった観音寺であるが、明治維新を迎えると神仏分離令によって仏教的要素が排除され、神峯神社のみが残された。明治20年(1887年)に再び仏教寺院として再興し、昭和17年(1942年)に神峯寺と称すようになったという経緯である。


神峯寺に続く山道の途中、おじいさんが棚田の畦を直していた


写真を撮っている私を、歩き遍路の一行が追い越していった

 山の上にある神峯寺までの道のりは「真っ縦(まったて)」と呼ばれる急勾配の坂道を行かねばならず、土佐国遍路道の難所として知られてきたという。だが、まぁ、最初のうちはアスファルトの舗装路で、傾斜の具合もさほどではない。

 棚田など絵になる風景が現れる度に足を止めては写真を撮っていたのだが、そうこうしているうちに背後から遍路の集団がやってきた。先頭を歩く屈強そうな先達(せんだつ)さんが、「こんにちは」と私に挨拶をして追い抜いていく。後続の遍路たちも次々に「こんにちわ」と声を掛けてきては、私もまたその都度挨拶を返す。なるほど、歩き遍路のツアーということか。

 四国遍路のツアーといえば、私はてっきりバスツアーばかりなのかと思っていたのだが、このような歩き遍路のツアーもあるものなのか。歩き遍路をやってみたい、でもスケジューリングや宿の手配が面倒、そういう方々が気軽に参加できるツアーなのだろう。様々なニーズに応じた遍路のツアーがあるものなのだ。

 私は前を行く遍路の集団をぼんやりと見送る。そういえば、高知県に入ってからというものの、顔見知りの遍路を見かけることがなくなった。室戸で連泊したことによってタイミングがずれたということもあるのだろうが、周りが知らない人ばかりというのもいささか寂しいものである。日和佐の薬王寺で別れた切りのフランス人二人組とか、いつかまた再会することもあるのだろうか。いや、きっともうかなり先に行ってしまったことだろう。


途中からは未舗装の遍路道に入った

 鳥居から30分強歩いたところで急に傾斜がきつくなり、いよいよ「真っ縦」として本領を発揮し始めた。大きく蛇行する車道の脇からは、より直線的に山を登る未舗装の古道が伸びている。私は躊躇することなくそちらの細道にへと足を踏み入れた。

 今日は天気が良いのだが、それは裏を返せば気温が上がるということでもある。太陽に焼かれたアスファルトは歩いているだけで体力がじりじりと消耗していく。一方で木々に覆われた古道は涼しくて気持ちが良い。たしかに「真っ縦」というだけあって急傾斜で足腰に負担がかかるが、それを差し引いても古道を歩く方がメリットは大きいといえる。

 荒い息を吐きながらできるだけ小股で山道を登り、約1時間ほどで山門の前までたどり着いた。鳥居からだと計1時間半。シャツは汗だくであるが、標高約450メートルと小高い山の上なだけあって吹き抜ける風は涼しく心地良い。


正面の楼門が神峯寺への入口、右の鳥居は神峯神社への入口だ


現在の堂宇は明治時代のもので、かつての僧坊跡に建てられている

 とりあえず本堂と大師堂でお参りを済ませ、社務所で納経をする。だが、それだけで神峯寺を後にするのも味気ないというものだ。この神峯寺はあくまで明治時代に再興された新しい寺院である。それ以前より遍路の崇高を集めてきた霊場としての歴史は、さらに石段を上った先に鎮座する神峯神社の方が圧倒的に長いのだ。


というわけで、境内のさらに奥へと伸びる石段を進んでいく

 神峯寺に比べて神峯神社を訪れる人はあまり多くはないのだろう、石段は少々歪んでおり足元に注意が必要である。だが雰囲気は静謐そのもので、まさしく霊場と呼ぶに相応しい様相を呈している。

 特に参道を取り囲む木々が見事である。神域として伐採が禁じられてきたのだろう、巨木が空に向かって無数に聳え立っており、特に推定樹齢900年にも及ぶという樟の古木は、樹高150m、幹の直径360cmにもなるという。


石段の上にたたずむ神峯神社の本殿

 神峯寺の前身である観音寺は神功皇が起源だというが、この神峯神社は神武天皇が東征を行った際にこの山に石を積み、神籬(ひもろぎ)として祀ったことに始まるという。それが本当だとすると観音寺よりも歴史が長いことになるが、果たして本当だろうか。主祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)であり、天照大神、天児屋根命(あめのこやねのみこと、春日大神)、応神天皇(八幡大神)を併せて祀る神社である。

 神峯神社の本殿は江戸時代中期にあたる享保3年(1718年)の建立で、明治に入るまでは観音寺の観音堂として利用されていた。かつてはこここそが四国八十八箇所霊場の第27番札所であったというが、現在は神峯寺の奥の院という位置付けだ。


眺めの良い場所で昼ごはんを食べる
海岸沿いの旧街道からだいぶ山へと入ったものだ

 神峯寺からの眺めは良いものの、ここまでの道のりを戻らなければならないことを考えるといささか気が滅入る。違う道を歩くならまだしも、まったく同じ道を引き返さなければならないのは精神的にしんどいものだ。それも急斜面の山道を――。

 そこまで考えたところで、ふと気が付いた。高知県に入ってから最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、そして神峯寺と既に五つの札所を渡り歩いてきたが、そのすべてが大なり小なり山の上にあるということだ。高知県はただでさえ札所と札所の距離が長いというのに、ひたすら歩いてきたその最後には必ず登山が控えているのである。いやはや、さすがは土佐、「修行の道場」は伊達じゃない。

 ちなみに、次の札所である第28番札所の大日寺までの距離は約37.5km。今日中に辿り着くことは不可能だろうし、とりあえず行けるところまで行くとしよう。


一気に山を下り、鳥居から西へと向かう
この辺りでは「食わず貝」と呼ばれる貝の化石が出土するらしい

 上りは約1時間半かかった神峯寺への道のりであるが、下りは約1時間で鳥居まで戻ることができた。唐浜(とうのはま)という地区を横切り、遍路道は再び旧街道と合流する。

 この唐浜地区には化石の出土地点があるのだが、そこでは「食わず貝」の伝承が語られている。昔々、地元の人々が貝を焼いていたところ、通りがかった空海がその貝を施すように願い出た。人々は「これは食べられない貝」だといって追い払ったのだが、空海が立ち去った途端に貝は次々と石に変わってしまい、本当に食べられなくなったという。

 鯖大師の時と同じく、空海を邪険にしたら罰が下ったというパターンの逸話である。ここでは実際に昔から出土していた貝の化石にちなみ、空海の伝説を組み込んでいるという点がユニークだ。とりあえず不思議なものを見かけたら、お大師様の御業にしとけばオールOKという感じのノリなのだろうか。


遍路道は「ごめん・なはり線」の線路に沿って続いていく

 どこか遠くからガタンゴトンという音が聞こえてきたと思いきや、一両編成のワンマン電車が通り過ぎて行った。去年、吉良川の町並みを見に行った際にも乗った「ごめん・なはり線」の車両である。

 この時に通りがかった車両はごくごく普通のものだが、私が以前乗ったのは海側に展望デッキを設けた車両であった。走っている車両の外に出ることができ、海岸の潮風を浴びながら景色を眺められるのだが、その真骨頂はトンネルにある。

 この路線は全線を通じてトンネルが多いのだが、展望デッキに出ているとトンネルに突入する際の風圧と音圧を体感できるのだ。トンネル内のヒヤリとしたカビ臭い独特の空気も肌で直接感じられ、なかなかエキサイティングである。「ごめん・なはり線」に乗る際にはぜひとも展望デッキをご利用いただきたい。なかなかできる体験じゃぁないですよ。


線路の高架を潜り、国道55号線を行く


無人販売所があったので、「小夏」と記された柑橘類を買った

 5個100円と安かったので買ってみた「小夏」であるが、これが実においしい果物であった。皮は少々厚く、実は白い部分に覆われているのだが、苦みはなく実に爽やかな甘酸っぱさである。小ぶりながらもジューシーで喉も潤う。まさに「小夏」という名前のイメージにピッタリの、南国土佐にふさわしい瑞々しい柑橘類だ。これはオススメである。

 初めて食べる小夏に舌鼓を打ちながら進んでいくと、ふと大山岬という岬の海岸線へと下りる横道が目に留まった。地図を見ると地蔵堂というお堂もあるようなので、せっかくだし見学しに行ってみよう。――と何気なく足を運んでみたのだが……。


うぉ、なんだか凄そうな洞窟と喫茶店が現れた


波の浸食でできた洞窟なのだろう、内部に地蔵堂が祀られている

 ぽっかり口を開けた巨大な洞窟もさることながら、その内部に半分潜り込むように築かれた喫茶店もなかなか凄い。一応人工的な柱を立てて補強しているようだが、よくもまぁ、こんなところに建てたという感じである。地蔵堂以外にも複数の石仏が祀られておりそれなりに由緒はある場所だと思うのだが、色々な意味で問題なかったのだろうか。

 ……と訪れた当初から思っていたが、どうやらこの喫茶店は2015年5月に閉店したそうである。今後は建物が取り払われてより霊場っぽく整備されるのか、あるいは手つかずの廃墟となって心霊スポットと化すのか、行く末が気になるところである。


道の駅大山からはひたすら防波堤道を歩く

 大山岬を後にして国道55号線の歩道を歩いていると、ふと矢印があったのでそれに従い防波堤の上を歩く道へと入った。しかしコンクリートの防波堤はアスファルトよりも固く、足の骨に響く感じである。歩くのにあまり適していない。

 昨日まで天気が荒れていた影響がまだ残っているのだろう、波は荒く、海から吹き付ける潮風も強い。カメラの金属が錆びないかと少々心配になり、肩から提げるカメラの位置を変えようとしたところ、突然嫌な音を立ててストラップが切れた。咄嗟に手で掴んだものの時既に遅く、レンズがコンクリートの地面に叩きつけられてしまった。顔からサーッと血の気が引く。

 私が二つ所持しているレンズのうち広角は既に壊れているし、この望遠レンズまで壊れてしまったら遍路の記録が残せなくなってしまう。おそるおそるスイッチを入れて確かめてみると――セーフ。ちゃんとレンズを認識してくれ、ズームもピントも問題なかった。いやはや、ヒヤリとした瞬間である。もう二度と切れないよう、ストラップを幾重にも結び付けてから再出発だ。


伊尾木川と安芸川を渡り、安芸市の中心部に入る

 一時間ほど歩いたところで堤防を下り、国道55号線を進んでいくと安芸市街地に出た。中世より安芸城が置かれ、近隣地域を治めてきた安芸郡の中心地である。町は大きく、車の往来もかなりのものだ。時間は17時を過ぎたので、今日はこの町までとする。

 とりあえず遍路道を示す矢印に従い、旧街道に沿って歩く。この先の海岸沿いに公衆浴場があるようなので、寝床の確保の前にまずは汗を流すことにした。


安芸市も旧街道沿いには古い町家が多い


少し道に迷ったが、なんとか件の温泉施設にたどり着いた

 ここは天然温泉ではないようだが、市の施設らしく入浴料は370円とかなり安い。地元の人たちも通っているようで、THE公衆浴場といった趣きである。お風呂上り、休憩所にコンセントがあったので、従業員の方に許可を貰ってiPhoneを充電させて頂いた。私もiPhoneもリフレッシュしてから施設を後にする。

 最初はこの施設付近で寝ようかとも思ったのだが、いかんせん、町中すぎて人目に付く。これほど大きな町となると、野宿ポイント探しに一苦労だ。どうしたものかと頭を抱えながら、あてもなく国道55号線を進む。

 途中にサンシャインというスーパーがあったので立ち寄ったのだが、そこでは何とも奇妙なお菓子が売られていて仰天した。


色とりどりのようかん?がパックで売られていたのだ

 コーヒーようかんに、赤ようかん、黄色いのはニッケ入りようかんとのことである(ニッキ=シナモンのことだろう)。原料を見るにどうやら寒天を固めただけのもののようだが、安芸市では一般的に食べられているお菓子なのだろうか。どぎつい色の寒天はなかなかにカルチャーショックである。ようかんは買っても食べ切れそうになかったので、無難に弁当と味噌饅頭を買ってスーパーを後にする。

 さらに国道55号線を進んでいくと、町の外れに安芸市営球場があった。なんでも阪神タイガースが合宿で利用することで有名な球場らしい。その入口には屋根付きの休憩所があったので、そこにテントを張らせて頂くことにした。

 夕食を食べてさぁ寝ようかと思ったその矢先、ふとテントの外で複数の人の気配があった。聞こえてくる声から察するに、結構な人数の高校生のようである。ワイワイガヤガヤ喋っていたかと思うと、やがて笑い声と共にボールを蹴る音が聞こえてきた。

 声の調子から察するにあまり柄の良くない感じのようだ。私がいるテントのことは既に認識してるっぽいし、まさかとは思うが、遍路狩りとか、ないよな……。不安に思う私をよそに、一時間ほどボール遊びに興じたところで高校生たちは去っていった。ほっと胸をなで下ろし、改めての就寝である。……もう、戻ってこないよな?