ホテルのカフェテリアで朝食を済ませた後、部屋に戻ってPCを立ち上げる。昨日書き上げた原稿を見直し、いくつかの文章を修正してからメールで編集部へと送信した。これで今月分の記事制作は完了だ。 次に私が取り掛かったのは、郵便局へと赴き不要な荷物を実家に送ることであった。壊れたカメラレンズはもちろんのこと、だいぶ気温が上がってきたので厚手の衣類は不要となった。こまごまとしたものも必要最低限のもののみ厳選し、それ以外はすべて送り返すことにした。これで多少は荷物が軽くなってくれるだろう。 ホテルに戻って残りの荷物をザックに詰め込み、少し休んでから10時直前に出発する。宿を取った時にはチェックアウト時間ギリギリまでだらだらするのが恒例となってしまった。それだけ歩く時間が短くなるということでもあるが、だが、まぁ、大丈夫だろう。今日はひとつ寝床に心当たりがあるのだ。少なくともそこまで行けば良いのである。 高知駅から東へと進み、この間歩いた遍路道の最終地点まで戻る。既に太陽は真上近くまで昇っており、こんな時間に歩き始めるとは遍路としていかがなものか。少々の後ろめたさを感じつつ、気分も新たに再始動だ。 体調はすこぶる良く、体が軽く感じる。荷物を減らしたのでその為かもしれないが、いずれにしろ出だしは好調だ。時間が時間ということもあってか、道行く遍路は私しかいない。のんびりと田んぼの中の道を歩き、舟入川に架かる橋を渡る。 舟入川の両岸に並ぶ長い杭。風化具合を見るにかなり昔に打たれたもののようだが、一体どのような目的があるのだろうか。座礁を防ぐ為の結界だろうか。謎である。 竹林寺のある五台山は、元は浦戸湾に浮かぶ島であったという。明治時代初期の干拓により陸続きとなり、今ではこうして歩いて渡れるようになった。山上へと続く遍路道の入口は細い道が入り組んだ住宅街にあるが、随所に道標があるので迷うことはない。 遍路地図から山道なのではと予想がついていたものの、やはり未舗装の遍路道に遭遇するのは嬉しいものだ。昔から竹林寺への参道として使われてきたのだろう。祀られている石仏も多く、非常に雰囲気の良い古道である。 とはいえ坂道の傾斜はややキツく、三日間の休養ですっかりなまった体には結構堪える。息を切らせながら登ること約15分、突然視界が開けて広場のような場所に出た。脇には立札が据えられており、なんでも「これより先は牧野植物園の敷地」とのことである。有料の施設であるが、遍路に限って無料で通行可能らしい。 どうやらこの植物園は、竹林寺の僧坊跡に作られたものらしい。明治維新の廃仏毀釈によって境内のおよそ半分が高知県に接収され、その後の昭和33年(1958年)に高知県出身の植物学者である牧野富太郎(まきのとみたろう)の業績を記念して県立牧野植物園が開園したという流れである。 よさこい節に唄われたお馬もまたこの参詣道を通って純信が住む僧坊に通っていたとのことで、いつしかこの道は「お馬路」と呼ばれるようになったという。古道に残る石垣は立派なもので、かつてはこの道に沿って僧坊が建ち並んでいたのだろう。 お馬路を抜けて植物園の正門を出ると、そこはもう竹林寺の門前だ。石段の上には立派な楼門が構えられ、仁王像が睨みを利かせている。 寺伝によると、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山に登り文殊菩薩に礼拝した夢を見たとのことで、行基に五台山に似た山を探すように命じたという。行基は地形が似たこの山こそ五台山にふさわしいと決め、センダンの木に文殊菩薩像を刻み、山上に本堂を建てて安置したのが竹林寺の始まりだという。その後の大同年間(806〜810年)に空海が竹林寺を訪れ、荒廃していた堂宇を建て直し真言宗の道場として再興した。 四国八十八箇所霊場の寺院は、聖武天皇の勅願により行基が創建、その後に空海が再興というパターンが非常に多い。特にここ最近はよく目にしている気がする。現実的に考えて、雨後の竹の子のごとくぽんぽこ作れるほど寺院の創建は容易ではないと思うが、まぁ、霊場としての歴史や威厳を裏付ける、お決まりのテンプレートなのだろう。 江戸時代には土佐藩の第二代藩主山内忠義(やまうちただよし)から寺領が与えられ、藩の祈願所として栄えていた。前述の通り明治初頭に寺域は減らされたものの、現存する本堂は土佐国分寺の本堂と同じく室町時代後期に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。さぞ立派なお堂なのだろうと胸を高鳴らせながら石段を上っていったのだが、肝心の本堂はというと―― どうやら屋根の葺き替えの最中らしい。とはいえ中には普通に入ることができ、もちろんお参りもできる。外観を拝めないのは少々残念であるが、建物を維持していく上で屋根の葺き替えは必要不可欠であるし、まぁ、致し方ない。 竹林寺の本尊は平安時代後期に刻まれた文殊菩薩像であり、奈良の阿部文殊、天橋立の切戸文殊と共に日本三文殊のひとつに数えられている。ちなみに四国八十八箇所霊場のうち文殊菩薩を本尊とするのは竹林寺が唯一で、読経の際に唱える本尊真言も「おん あらはしゃの」と始めて聞くものであった。 全体は見渡せなくても、建築様式はチェックできる。竹林寺の本堂は日本古来の和様の特徴のみならず、禅宗様の要素が強い。禅宗様は鎌倉時代に大陸から伝わった建築様式で、出三斗を隙間なく配した「詰組(つめぐみ)」、屋根庇の垂木を外に向かって並べた「扇垂木(おうぎたるき)」、柱の上下がすぼんだ「粽柱(ちまきばしら)」、木鼻(きばな)に台輪を載せる点などがその特徴である。 本堂の向かいにたたずむ大師堂は、山内忠義の寄進によって寛永21年(1644年)に再建されたものとのことだ。一段高い位置に聳える五重塔の位置には元々三重塔が建っていたのだが、明治32年(1899年)の台風によって倒壊。昭和55年(1980年)に五重塔として再建されたもので、鎌倉時代初期の和様を踏襲している。比較的新しいものだが、高知県内に存在する唯一の五重塔だ。 本堂の下段には江戸時代後期、文化13年(1816年)に再建された書院が建っている。四国では数少ない近世の書院建築であり、庭園の鑑賞を前提とした開放的な造りを見せ、また細部の意匠も地方色が豊かであることなどから、平成28年(2016年)に国の重要文化財に指定された。 また書院を取り囲むように築かれている庭園は国の名勝にも指定されている。見学するには400円の拝観料が必要だが、四国遍路の札所で古い庭園が残っているところは少ないことだし、せっかくなのでチェックしておこう。 この庭園は臨済宗の禅僧であり作庭の名手としても知られる夢窓疎石(むそうそせき)が築いたものと伝わっている。事実、夢窓疎石は文保2年(1318年)に土佐へと渡り、五台山の西山麓に吸江庵(ぎゅうこうあん、現在の吸江寺)を結んでいた。竹林寺にも滞在していたとのことで、ゆかりのある人物であることは間違いない。ただし現存する庭園は江戸時代初期の延宝年間〜貞享年間(1673〜1688年)に築かれたと考えられている。 面積以上に広く感じる池泉が印象的な西庭と、ダイナミックな石組が印象的な北庭。それぞれ異なる趣きがあり、一粒で二度おいしい庭園と言える。ちょっとだけ見てすぐに出るつもりであったが、ついつい長居してしまった。 なるほど、五台山に登る前に見た舟入川の杭は、舟を留めておくための設備だったのか。海とは違って川には流れがあるし、普通に係留しただけでは万が一ロープが切れた時など流れていってしまう。こうして杭の上に揚げておけばその心配もないのだろう。海に近い河口付近であるし、潮の満ち引きとかも関係あるのかもしれない。 私が遍路を始めた頃は、まだ田んぼに水を引いている状態であった。遍路道を歩いているうちに稲が植えられ、今では膝下ぐらいの高さにまで成長している。長さ2mmの丸刈りであった私の頭も同じように少し伸びた。さてはて、この遍路が終わる頃にはどのくらいの長さまで伸びるものだろうか。田んぼも、髪も。 稲と髪の伸び具合に時の流れを感じながら歩いていくと、ふと「武市半平太旧宅」という標識が目に留まった。ほぉ、あの武市瑞山が住んでいた家が遍路道沿いにあるのか。 幕末に土佐勤王党を結成したことで知られる武市半平太こと武市瑞山(たけちずいざん)の生家。現在も人が住んでおられるようで外観のみの見学である。今でこそ屋根がトタンで覆われているものの、本来は茅葺屋根だ。瓦葺の庇やL字型の平面を持つ曲屋などの特徴が土佐一ノ宮の近くにあった旧関川家住宅と似ており、瑞山もまた土地に根差した豪農の生まれであったことが良く分かる。 土佐勤王党は佐幕開国派の参政であった吉田東洋を暗殺し、最終的に瑞山は東洋を慕っていた前藩主の山内容堂(やまうちようどう)によって切腹を命じられる。生きて明治維新を迎えれば長州の木戸孝允(桂小五郎)や薩摩の西郷隆盛などと並ぶ傑物になったであろうと評される武市瑞山。誠実かつストイック、目的の為には手段を選ばないその生きざまは、土佐藩の礎を築いた野中兼山に通じるものがあると思う。土佐の男というのは、かくも不器用なものなのか。 またしても山の上の札所である。三日ぶりの遍路で二連続の登山になるとは予想外であるが、それほど高い山でもないようだしサクっと登ってしまおう。 昔ながらの古道が残っているのは嬉しいが、さすがに少し疲れたか。流れる汗をぬぐいながら古道を上り詰めると、その終点では一枚の立札が私を待っていた。 「お疲れさまでした」という一文を見ただけで、なんともいえぬ達成感と嬉しさが心の底から湧き起ってきた。この感覚はおそらく自動車などでの遍路では味わえないだろう。やはり徒歩遍路というものは良いものだと改めて実感させてくれた。 このお寺もまた聖武天皇の勅命を受けた行基が創建したとされる。その後の大同2年(807年)に弘法大師空海がこの地を訪れて虚空蔵求聞持法の護摩を修法し、十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし「禅師峰寺」と名付けたという。以降、土佐湾を行く船の安全を祈願する寺院として漁師からの信仰を集め、江戸時代には歴代土佐藩主もまた参勤交代で船を出す際に参拝したという。確かにこの見事な眺めを見るに、海上安全の霊場としてこれ以上ない立地である。 納経を済ませてから時間を確認すると既に16時を過ぎていた。三日ぶりの遍路とはいえ、さすがにのんびりしすぎたか。次なる第34番札所雪蹊寺(せっけいじ)までの距離は7.5km。納経所が閉まる17時には間に合わない。……のだが、そうと分かりつつも今日はそこまで歩く必要がある。今夜は雪蹊寺の通夜堂をお借りしようと思っているのだ。 この三日間はだらだらと寝たり原稿を書いていただけではなく、一応この先についての情報も仕入れていた。Twitterなどでもフォロワーさんから情報をお寄せ頂き、そこで雪蹊寺に通夜堂――すなわち遍路の仮眠施設があることを知ったのだ。夜遅くに訪ねるのは失礼なので、できれば18時、遅くとも日没までには到着したいところである。急ぎ足で禅師峰寺の参道を下り、落ち行く太陽に向かって西へと進む。 高知市を東西に分断する浦戸湾の入口は、今私がいる種崎地区と桂浜のある浦戸地区が互いにせり出しす形となっており湾口が非常に狭い。現在は浦戸大橋が架けられていて歩いて渡れるようになっているが、かつての遍路は舟で渡っていたという。 この渡し舟は現在も高知県営の渡船として続いており、高知県道278号弘岡下種崎線の一部として設定されている。全国でも珍しい海上ルートの県道なのだ。徒歩もしくは自転車、125cc未満のバイクのみが利用可能で運賃は無料。 現在の時間は18時少し前。時刻表を確認すると次の便は18時10分とのことなので、落ちつつある太陽に焦りを覚えながらも出航を待つ。 渡船を下りた私は、ただひたすらに雪蹊寺を目指した。残すところの距離は1.5km、早歩きで突き進み18時40分に到着である。なんとか日没には間に合った。 納経時間を大幅に過ぎていたということもあり、少しビクビクしつつインターホンを押す。女性が応答してくれたので「通夜堂をお借りできませんでしょうか?」と尋ねると、トイレの掃除を条件に許可してくれた。 さすがは四国遍路の札所なだけあって、トイレもかなり立派で掃除のしがいがある。せっかく寝床を与えてくれたのだからと、すべての便器の内外をブラシと雑巾で磨き、床に水を撒いてデッキブラシで掃除した。うん、我ながら良い仕事ができた。 完全に日が落ちて境内が暗闇に溶けた頃、再びインターホンを押す。今度は男性の声での応答だ。とりあえず掃除完了の報告をすると、何をいうでもなくブツリと切れた。結構頑張って掃除しただけに「ご苦労さん」の一言でもあれば嬉しかったのだが……。 後から知ったことではあるが、この雪蹊寺は四国八十八箇所霊場の中で二箇所しかない臨済宗の寺院、いわゆる禅寺であった。禅宗といえば、ひたすら座禅などの修行に打ち込むストイックな宗派というイメージがある。このトイレ掃除もまた修行の一環であり、それに見返りを求めること自体が間違いなのだろう。たとえ言葉の一つであっても。 だが私はそんなことなど露知らず、少し寂しい気分で夕食をもそもそと食べ、のそのそと寝袋にくるまるのであった。朝になったらすぐにここを出て、桂浜でも見に行くとしよう。 Tweet |