遍路22日目:塚地公園〜道の駅 かわうその里すさき(40.0km[航路込み])






 県道から未舗装の脇道に反れ、短いコンクリートの橋を渡って登山道へと入る。昔ながらの様相を残す遍路道「塚地坂」越えである。


宿泊した塚地公園を出発し、車道を離れて山に向かう


すぐに九十九折の登山道となった

 早朝の山道は少し肌寒くもあるが、清々しい木の匂いが濃くて気持ちが良い。程なくして朝日が差し込み、暖色の木漏れ日が私の心を浮き立たさせた。やっぱり古道は最高だ。朝一の山登りがまったくもって苦にならない。

 路肩には古い道標や遍路墓も多数残されており、道の歴史を物語っている。傾斜が急な箇所には土留めの石畳が敷かれており、中には目の粗いコンクリートで補強されている箇所もあった。この道が近現代にまで渡り、補修されつつ維持されてきたことの証左である。自動車が一般に普及する昭和中期頃まで生活道路として使われていたのだろう。

 とまぁ、このように塚地坂は昔ながらの様相を残すことから、平成28年(2016年)には「土佐遍路道」として国の史跡に指定された。高知県内の遍路道として初めてのことだ。


道のえぐれ具合が歴史を感じさせる

 古道の雰囲気を楽しみながら歩いていると、ふと前方から初老の男性が下ってきた。その顔には見覚えがある。昨夜、塚地公園の駐車場で車中泊していた人物だ。寝る前、トイレを利用した際に一度顔を合わせていた。

 「おはようございます」と挨拶を交わしてすれ違う。白衣などを身に着けてはおらず、一見しただけでは遍路と分からないその男性。しかもわざわざ遍路道を逆走してくるとは、一体何が目的なのだろう。

 後から知ったことであるが、この男性は自動車で札所を周りつつ、昔ながらの遍路道が現存する区間だけ自分の足で歩くというスタイルの遍路らしい。逆走していたのは、車を停めてある場所に戻るため、往復する必要があるからだ。私と同じで古い道が好きなのだろう。非常にシンパシーを感じさせられる。


峠を越え、眺めの良い展望台に出た

 登山口から歩くこと約40分で塚地峠に到着だ。峠自体は眺望が良いとはいえないが、その少し先の展望台からは宇佐の町が一望できた。次に目指す青龍寺は面前に広がる浦ノ内湾を隔てた対岸の横浪(よこなみ)半島に位置している。

 峰々が連なっており険しそうな雰囲気の半島であるが、遍路地図を見る限り、青龍寺までの道のりは海岸線に沿って歩くだけなので大した苦労はなさそうだ。まずはこの塚地坂を下り、宇佐の町まで出るとしよう。


古い石造物を横目に坂道を下っていく


沢と合流する辺りには石積みで整地されている箇所も見られた
かつては茶屋でもあったのだろうか

 この辺りまで来ると、傾斜もだいぶ緩やかになる。湧き水で一息入れてさらに進んでいくと、程なくしてコンクリートの舗装路に出た。その道の傍らには巨石が祀られており、弘法大師の石仏と共に磨崖仏が刻まれている。


彫りが薄くて見えにくいが、中央上部に仏が刻まれている

 なんでも、この磨崖仏の一部には高岡郡における中世仏像の特徴が見られるそうだ。四国遍路が庶民に広まり一般化するのは江戸時代に入ってからであるが、この道はそれよりも古い時代より信仰の道として利用されていた可能性が高いとのことである。果たしてこの磨崖仏はいったいどれほどの巡礼者を見送ってきたのか。考えるだけで気が遠くなる歴史の奥深さである。

 中世よりずっと変わらぬ位置にたたずむ磨崖仏に敬意を表しつつ道なりに進んでいくと、やがて視界が開けて宇佐の町に辿り着いた。そのまま海岸線に沿って進み、宇佐大橋を通って横波半島へと渡る。


浦ノ内湾の湾口に架かる宇佐大橋を行く

 宇佐大橋を渡り切ったところで、「旧へんろ道」と大きく書かれた看板が目に留まった。手持ちの遍路地図によるとこのまま海岸線沿いの車道を行くことになっているが、この看板の案内では右手の井尻(いのしり)集落に向かうようだ。


井尻集落へと続く「旧へんろ道」の看板

 ほぉ、遍路地図にも表記のない遍路道とは、これまた面白そうではないか。せっかくなのでその道案内に従ってみることにする。集落を抜けて港を横切ったところで墓地の裏手から登山道が伸びていた。なるほど、昔は山を越えていたのか。

 開けた砂浜が続く海岸ならともかく、昔は歩きにくく天候に左右されやすい荒磯の海岸になぞ道を作らず、そのような場所では山を越えるのが普通だったのだ。なるほどなぁと納得したところで改めて旧遍路道へと入る。


再び急な坂道である


上り切ると比較的平坦な道となった

 このタイミングで山登りとは完全に想定外であったが、しかしこれがまた良い雰囲気の古道で辛さは感じなかった。むしろ遍路地図にも乗ってない古道を歩くことができて満足である。あの案内看板に感謝感謝、実に嬉しい誤算であった。

 その途上にたたずむ遍路墓も天明4年(1785年)のものとなかなかに古く、歴史のある古道であることが良く分かる。ゆっくり歩いて40分と距離もそこそこあるし、塚地坂と同様、この道もまたそのうち史跡に指定されるのでしょうな。




旧遍路道を抜けると古い住宅地に出た
青龍寺の結界だろうか、コンクリート製の門柱が立っている


さらに進むと山に囲まれた池があった

 この池は蟹ヶ池といい、かつて絶滅危惧種のベッコウトンボが生息していたとのことだ。現在は生息が確認されなくなったというものの、高地県下では貴重な手つかずの湿地が残っている。また津波堆積物が確認できることから地層学者の間では有名な池らしく、調査によって過去7千年の間に16回もの巨大津波が発生したことが判明している。今後起きるであろう地震の予測にも役立つのであろう。

 素朴でひなびた見た目ながら、凄い情報を秘めた蟹ヶ池を通り過ぎると、間もなく第36番札所の青龍寺に到着だ。塚地峠から見た横波半島は険しそうな印象であったものの、青龍寺は蟹ヶ池に隣接した山の麓に位置している。これは意外だなと思いきや、平地にあるのは庫裏だけで、本堂や大師堂は長い石段を上ったその先に鎮座していた。やはり修行の道場、土佐国の霊場は一筋縄ではいかないらしい。


石段を上って山門をくぐり、さらに傾斜を増す石段を頑張って上ると――


ようやく本堂と大師堂がお目見えである

 寺伝によると、唐に渡った空海が日本に帰国するその折、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の地が選ばれるように祈願した。無事帰国を果たした空海が四国を巡教していると、横波半島の老松に以前投げた独鈷杵が辿り着いていることを感得。嵯峨天皇に奏上したのち、弘仁6年(815年)に堂宇を建てて寺院を創建した。空海が唐で師事していた恵果(けいか)を偲び、その寺院である青龍寺の名を冠したという。

 本尊は波切不動明王である。空海が唐へと渡る際に暴風雨に見舞われたのだが、不動明王が降臨して剣で荒波を切り裂いたといい、その姿を刻んだものとされる。以降、航海の安全や豊漁を祈願する霊場として漁師たちの信仰を集めていた。

 その後は寺勢衰え江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩第二代藩主の山内忠義によってて正保年間(1644〜1648年)に再興されている。宝永4年(1707年)の宝永地震では津波による甚大な被害を受けたものの、江戸末期に再建。明治に入るまでは土佐七大寺のひとつに数えられるほどの大寺院であった。

 大陸から投げた独鈷杵が四国まで飛んできたとはこれまた群を抜いてトンデモな伝説であるが、まぁ、それはさておき、独鈷杵が辿り着いたと伝わる場所には不動堂が祀られていて青龍寺の奥の院となっている。山の上にあるようなので結局のところ登山となるが、未舗装の山道が残っているようなので見に行かないという選択肢はない。事実、これまた一味違った風情漂う古道で実に楽しめた。


巨石がごろごろ転がっている、まさに霊場らしい参詣道である


奥ノ院の不動堂も青龍寺の本尊と同様、波切不動尊を祀っている

 この不動堂は近年まで女人禁制であったといい、現在も途中で靴を脱いで素足で参拝しなければならない。昔からの習わしが今に受け継がれている、まさに聖地といったたたずまいである。私が訪れた時も白装束姿の人々が境内の掃除をしており、大切にされてきた霊場であることがひしひしと感じられる。

 不動堂でもお参りを済ませ、それでは次の札所を目指すことにする。とはいうものの、次なる第37番札所岩本寺までの距離は60km弱とかなり長い。ここのところは距離の短い札所が続いていただけに、久方ぶりの長距離区間である。

 今日中にたどり着くのは不可能なので、まずは25kmほど先の須崎を目指すことになるのだが、そこへは主に二つのルートが存在する。ひとつはこのまま横浪スカイラインこと県道47号線を進んで横浪半島を横断するルート。もうひとつは宇佐まで戻り、浦ノ内湾の北岸沿いを通る県道23号線のルートである。前者は基本的に自動車の為に築かれた道路であり、途中に集落がまったくなくアップダウンも激しそうだ。後者は前者よりマシだろうが、それでも似たような景色の車道を延々歩くことになりそうだ。

 だがしかし、実はもうひとつ、いわば第三のルートがあることをtwitterでお教え頂いた。それは浦ノ内湾を船で行く航路である。浦ノ内湾は横浪三里とも称され、湾口が狭く奥行きが非常に深い。波も極めて穏やかで、古来より浦ノ内湾では舟を利用するのが一般的であったという。空海もまた舟で浦ノ内湾を行き来しており、一説によると弟子をこの地に残して渡し舟を維持するように命じたとのことだ。

 現在も浦ノ内湾では須崎市営の巡航船が運行しており、一日四便、地元の人々の足として利用されている。この航路こそ須崎へ至る最も古いルートであり、遍路が川の渡し以外で船を使うことを許された唯一の区間なのだ。私もその歴史に倣い、巡航船を利用することにしようじゃないか。決して楽をしたいワケじゃない。楽をしたいワケじゃないぞ。


というワケで、船着き場のある宇佐まで戻ってきた
浦ノ内湾は今も昔も船社会なのだろう、護岸にはボートがずらりと並んでいる

 巡航船の船着き場は宇佐の町の西端に位置しているので、青龍寺から宇佐まで戻る必要がある。同じ道を辿る打ち戻りはあまり好きじゃないので、あえて海沿いの車道を歩くことにした。往路は雰囲気重視で昔の古道、復路は時間効率重視で現代の車道。今と昔の良いとこ取り遍路である。

 宇佐大橋を再び渡り、船着き場を探しながら湾沿いを歩いていると、車道の脇にコンクリートブロックの小屋が建っていた。どうやら以前はバス停の待合室として利用されていたようだが、現在は遍路の休憩所となっている。


畳が敷かれていて宿泊も可能とのことだ

 目の前に住宅があるので少々人目が気になるものの、遅く着いた時にはここに泊まるのも良さそうだ。ただし定員二名なので、ここをアテにしすぎていて先客で満員ということになったら少し困ったことになりそうだが。

 そんなことを考えながら進んでいくと、少し先に「巡航船のりば」という案内が出ていた。矢印に従い港へ出ると、「待合室」と掲げられた小屋がある。壁に時刻表が張られていたので確認したところ、次の便は13時47分発とのことだ。現在時刻は12時20分なのでまだ1時間以上もある。しまった、もう少しゆっくりしてくればよかったか。

 他にやることもないのでとりあえず昼ご飯を食べ、待合室の畳に横たわって体を休める。そのままぼーっとしているうちに、どこからともなくエンジン音が聞こえてきて巡航船がやってきた。何もしていないというのに、一時間があっという間だ。遍路を始めてからというものの、なんだか時間の流れが早くなった気がする。


接岸した巡航船に早速乗り込む


乗客は私と二人組のおばちゃんだけだ

 朝と夕方の便は通学の小中学生で賑わうようだが、昼過ぎともなると乗客はかなり少ないようだ。現在は車道も通っているし、わざわざ巡航船を利用するのは運転免許がない子供とお年寄りぐらいなものなのだろう。


浦ノ内湾では鯛の養殖が盛んのようだ

 時刻通りに出発した巡航船は、浦ノ内湾内に散在する集落を縫うように寄港しながら西へ西へと進んでいく。陸に近い場所には筏が浮かんでおり、不思議に見ていたら「あれは鯛の養殖だよ」とおばちゃんたちが教えてくれた。中には立派な小屋が設えられていたり、屋根が架けられている筏もある。波の少ない内海ならではの産業景観だ。

 水面はベタ凪で船の揺れは少なく、規則的なエンジン音と暖かな日差しに私もまた船を漕ぎそうになる。しばらくうとうとしていると、前に座っていたおばちゃんたちがいそいそと荷物をまとめ始めた。どうやら次の「須ノ浦」で降りるらしい。


須ノ浦の港はなかなか凄いところにあった

 巡航船が接岸すると、おばちゃんたちは「それじゃぁ、がんばってね」と寝ぼけ眼の私に声を掛けて降りていった。しかしその港が非常にワイルドであり、一目見た瞬間にたちまち眠気が吹き飛んだ。道路へ出るには細い未舗装路を登らなければならないらしく、二人は小さな背中を丸めつつ坂道へと消えていった。いやはや、凄いところである。

 巡航船は須ノ浦を後にし、程なくして「横浪」に到着した。遍路道はこの集落から須崎へと続いているので、船頭さんに運賃の620円を支払い下船する。乗船時間は1時間弱、実に快適な船旅であった。


横浪の浮き桟橋もストイックな感じで好感度が高い

 古来からの航路であり、歩くより早く浦ノ内湾を横断できる巡航船。地元の人々のみならず、遍路にとっても利用価値が極めて高い航路である。特に昼の便は利用者も少ないこだし、遍路がもっと積極的に利用することで運営も楽になるだろう。遍路にとっても地元にとってもWin-Win。浦ノ内湾はぜひとも巡航船で、より心地良い遍路の旅を――。

 さてはて、横浪集落からは浦ノ内湾を離れ、川が作る谷筋に沿って県道314号線を進んでいく。この先の峠を越えさえすれば、須崎の町までもう一息だ。


横浪を出た直後は川に沿って田畑が広がっていたが……


30分ほど進むと山道となった

 山道の入口には「佛坂遍路道」という道標が立っていた。昔から須崎へ抜ける遍路道として利用されてきたのだろう。現在はアスファルトで舗装されているものの、道幅は極めて狭く、県道とは思えない道路である。通行する車もほとんどない。

 道路は途中から九十九折の坂道となるのだが、その区間では直線的に山を登る古道もわずかながら残っていた。傾斜が急なので土留めの石畳が敷かれており、石積みが見られる箇所もある。


佛坂遍路道に残るわずかな古道

 ただし古道が現存する区間は短く、古い道標や遍路墓など道の来歴を示す物証も見当たらない。塚地坂のように今後史跡として保護されるかどうかは微妙なところだ。

 古道を上り切ると再び舗装路と合流し、そこからは緩やかな傾斜の坂道が峠まで続く。相変わらずの狭路であるが、通る車は皆無なので危険性は感じない。むしろ恐ろしいくらいにひと気がなく、心細く感じさえする県道である。


山道の入口から30分弱で切通しの峠に到着した

 深く掘り切られた峠を過ぎると、車道の左手から下りの未舗装路が伸びていた。こちらもまた古道なのだろうが、その確証が持てる物証はない。

 とりあえず下っていくと、坂の下にいくつかの建物が見えた。開けた谷間の一番奥に鎮座する仏堂は光明峯寺(こうみょうみねじ)というお寺の不動堂らしい。なんでも弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海がこの佛坂を越える際、空に紫雲がたなびき諸仏が現れたという。感激した空海が正面の岩に手を置いたところ、不動明王が現れたそうだ。以降は、佛坂不動尊として村人や巡礼者の信仰を集めていたという。


広大な境内に小さなお堂がポツンと建つ

 かつては数多くの堂宇が建ち並んでいたのだろうが、明治の廃仏毀釈で荒廃したらしく、現在は小さいお堂が点々と建つだけである。昭和23年(1948年)に再建されたとのことであるが、失礼ながら建物の質はあまりよろしくない。無駄に広い境内と相まって、なんとも言えない寂寥感が漂っていた。

 有り難いことにベンチが設けられていたので、少し休憩してから光明峯寺を後にする。木々に囲まれた舗装路を歩いていくと、水田が広がる広い谷筋に出た。わずかながら家屋も見られ、ようやく人里に降りてこられたという感じである。


くねくねと続く県道を行く


しばらく歩くと谷間を抜けて平野に出た

 ここまでくれば須崎の町はもう少しだ。そう自分に言い聞かせ、募る焦りを紛らわす。時間は既に17時を回っており、そろそろ寝床を探し始めなければという頃合いなのだ。

 遍路道は桜川に差し掛かり、その護岸に沿って進んでいく。途中には屋根付きのゲートボール場があったのでそこで寝させて頂こうかとも思ったが、いかんせん住宅街の中にある上、開放的すぎてテントを張ると悪目立ちするのでやめておいた。

 桜川の河口で橋を渡り、須崎港の深い入江に沿って歩く。この先に番外霊場の観音寺があるので立ち寄りたかったのだが、御手洗川に架かる橋を渡る手前にあった矢印に従ったていったら、なぜか遍路地図の道から外れてJR土讃線の大間駅に出た。


この左の矢印と「へんろ近道」の看板はフェイクであった

 遍路道から外れさせるこの矢印の目的は不明である。精いっぱい好意的に解釈すると、この道路を直進し続けると歩道がなくなるので間違って入らないようにさせる為とも取れるが、そもそも遍路地図のルートでは歩道がなくなる手前で曲がるようになっているし、なにより地図の表記と違っていたら混乱するに決まっている。わざわざ赤字で「近道」と書くあたりに善意以外の意図が感じられ、少々嫌な気分にさせられた。


大間駅で国道56号線と合流
観音寺に立ち寄らない「遠回り」のルートで須崎の町に到着した

 偽の矢印に騙され日没間際の貴重な時間を浪費しつつ、須崎の中心部へと足を踏み入れる。ここは以前、四万十川の源流を遡る際に宿を取った町である。町並みを懐かしく思いつつ、その時にも夕食を購入したスーパーで再び夕食を購入した。

 寝床は少し迷ったが、須崎の外れにある道の駅の軒下を借りることにした。国道56号線沿いなので騒音が少々心配だが、明日から天気が下り坂のようなので屋根があるに越したことはない。日が暮れ人が少なくなったのを見計らい、テントを張って寝袋に入る。

 今日は朝一で登った「塚地坂」を始め、実に古道の多い区間であった。遍路地図を見るに、明日もまた未舗装路が数多くありそうだ。さてはて、このには先どんな遍路道が待ち受けているのだろう。まだ見ぬ古道に思いを馳せつつ、瞼を閉じて寝に入った。