道の駅の朝は早い。まだ朝5時前なのにも関わらず農家風のおじさんおばさんがやってきて店の準備をし始めた。どうやら朝市が開かれるらしい。 慌てて荷物をまとめ、テントの撤収に取り掛かる。夜のうちに雨が降っていたらしく、軒下から出ていた部分がびっしょり濡れていた。タオルで拭きつつ溜息をこぼす。現在は雨が止んでいるものの、空を見ると分厚い雲が立ち篭めておりいつ降り出してもおかしくない状況だ。今日から天気が崩れるという予報はどうやら当たってしまうらしい。 ザックを担いでベンチに座り、朝ごはんのパンを冷たいコーラで流し込む。喉ではじける炭酸の刺激を受けてもなお瞼は重いままだ。昨夜の懸念通り、目の前を通る国道56号線の交通量が多くてあまり熟睡できなかったのだ。今日は峠をいくつか越えなければならないというのに、天候的にも体調的にもいささか不安である。 新荘川に架かる橋を渡って須崎の町に別れを告げ、山腹に沿って続く国道56号線を歩く。その途中にはトンネルが多く、しかも歩道が設けられていないので非常に怖い。 いちおう入口にはボタンがあり、それを押せば歩行者が通行中であるとのサインが出るのだが、それでも車はお構いなしに速度を落とさず走り抜けていく。タイヤの音とエンジン音が坑内で反響して耳をつんざき、車が通る度に恐怖で身が縮む思いをした。 須崎から一時間ほど歩いたところで安和(あわ)という集落に辿り着いた。遍路道はここで国道56号線から離れ、一路山へと向かう。本日一発目の山登り、「焼坂(やけざか)峠」越えである。 この焼坂峠、地図上ではそれほどの距離でもないし楽に越えられるだろうとタカをくくっていたのだが、これが想像以上の難易度で苦労した。坂の傾斜が急ということもあるのだが、そもそも道が荒れていて非常に歩き辛いのだ。おそらく先ほどの砂防ダムの工事の影響でしばらく通行することができず、整備が滞っていたのだろう。道というものは、人が歩かなくなったらあっという間に自然に呑まれてしまうものなのだ。 道が分からなくなったり、ツルツルの石畳に足を取られたりと、体力はもちろんのこと神経的にも気を使う古道である。湿気が多いので非常に汗が出やすく、既にシャツはバケツの水でも被ったかのようにずぶ濡れだ。こんなにキツイ山道だとは思っていなかったので飲み物は持ってきていない。ちょっと古道をナメ過ぎていたか。 死ぬ物狂いで登っていくと、途中で明治時代に築かれた旧道を横切った。その辺りから古道の状態は良くなり、比較的歩きやい道となった。砂防ダムから登り続けること約1時間、焼坂峠に到着だ。 焼坂峠からは明治の旧道に上書きされているようで、比較的幅の広い道をメインに歩くことになった。旧道とはいえ舗装などはされてはおらず、既にメンテナンスが放棄されているのか半ば崩壊しているような箇所もあってなかなかエキサイティングだ。 朽ちた旧道を歩いていくとやがて再び道幅の狭い古道に入り、さらに進むと車のわだちが確認でききる林道と合流した。そのまま道のりに進んでいたところ、ふと山林が途切れて視界の開けた場所に出た。 古道と旧道が織りなす昔ながらの雰囲気に浸っていたところ、突然現れた巨人のような現代道路。盛り上がっていた気分に少々水を差された気分である。なんだかもやもやとした気持ちを抱えたまま、高速道路を横目に残りの林道を下っていった。 この久礼の町は高知城下から土佐中村へと至る中村街道の中継地であり、古くより周辺地域における物資の集散地として栄えてきた。現在はカツオの一本釣りで知られ、昔ながらの風情を残す漁師町として国の重要文化的景観にも選定されている。 なかなか面白そうな町なのでちょいと散策してみようじゃないか。駅前にあったバス待合室の片隅にザックを置かせていただき、身を軽くしてから久礼中心部へと繰り出す。 非常に活気のある市場である。ちょうど昼時でもあるし、何か買ってみたいとも思ったのだが、市場特有のせわしない雰囲気に飲まれてどうにも品定めができない。結局、端っこのテーブルで売っていた手作り飴をひとつ購入して市場の通りを出ることとなった。 その後も久礼の散策を続け、時間は13時を回ろうとしていた。そろそろ出発しようと駅前に戻ったところ、道の向こうから二人の遍路が並んで歩いてくるのが見えた。素肌に白装束という個性的すぎるその格好は……見間違えるわけがない。ポングたち、フランス人の二人組だ! おぉ、よもや再会できるとは! 私は室戸市で友達の家に滞在したり、高知市で三泊したこともあって、彼らはもうとっくに先へと進んだものかと思っていた。それだけに、まさかまさかの再会で本当に驚愕である。高知市辺りで観光でもしていたのだろうか、 互いに再会を祝い握手を交わす。ポングの話によると、もう10日間風呂に入っていないとのことで、これからこの先にある温泉に行くとのことである。彼らもまた四国遍路を全力で満喫しているようで何よりだ。その笑顔にこちらまで楽しくなってくる。 久礼からは七子峠を越えて次の札所がある窪川へと向かうのだが、そこへ至る遍路道は二つのルートが存在する。ひとつは古来より中村街道の一部として使われてきた添蚯蚓(そえみみず)坂、もう一つは明治25年(1892年)に開通した大坂である。前者は久礼の町に入る手前で西へ折れるのに対し、後者は久礼の町を通り抜けて南へ向かう。おそらくポングたちは温泉に寄った後、大坂経由で七子峠に向かうつもりなのだろう。 どちらを行くべきか迷ったものの、私はその不思議な語感に惹かれ添蚯蚓の遍路道を歩くことにした。なんでもミミズがのたくった跡のように曲がりくねった坂道であることからその名がついたそうだ。要するに九十九折の登山道か。望むところである。 道標に従い、山へと向かう舗装路を進む。最近建てられたと思わしき遍路小屋を横切り、坂道を少し上ったところで遍路道の登り口があった。やや急な階段を上っていくと、昔ながらの風情漂う古道が私を出迎えてくれた。 険しい坂道ではあるが、道のえぐれ具合といい、まばらに敷かれた石畳といい、着実に時間を積み重ねてきた歴史が感じられる。想像以上に良い雰囲気の古道に出会えて喜びを感じたのも束の間、すぐにあまりにあんまりな現実と直面することとなった。 突然視界が開けて何事かと思ったらこれである。思わず呆気にとられ、続いて驚愕と共に悲しみが湧いてきた。それまでの古道が素晴らしく良かっただけに、落胆は限りなく大きい。控えめに言って、ふざけんなと思った。 先ほどの焼坂峠でも高速道路の遭遇に少々困惑したが、あちらは古道が終わった後の区間なのでまだマシだ。しかし、こちらは現存する古道を完全に破壊してしまっているのである。文化財的な意識が低かった高度成長時代とかならともかく、古いモノの価値が広く浸透している平成の現在において、だ。なぜトンネルにせず山を壊したのか理解に苦しむ。切り崩す方がコスト的に安く済むのかもしれないが、目先の利益を求めて大きな財産を失ったことを理解して頂きたい。何百年もの昔より人々が歩き続け、歴史を積み重ねてきた添蚯蚓の古道はもう二度と繋がらない。 四国四県は平成18年(2006年)から四国八十八箇所霊場と遍路道を世界遺産にと文化庁に働きかけてきたが、その水面下で遍路道の破壊を行っていたとは思いもよらなかった。改めて考えてみると、徳島県などはその頃より遍路道を積極的に国指定の史跡にしてきたのに対し、高知県はようやく塚地峠が史跡になっただけと動きが鈍いような感じもする。ひょっとしたら高知県の行政は文化財軽視という傾向があり、遍路道の保護にあまり乗り気ではないのかもしれない。高知県は明治維新の廃仏毀釈で古い仏教寺院をことごとく排してきた歴史もあるし――とまで関連付けるのはさすがに考えすぎか。 ショックを受けつつ高速道路を抜けようとしたのだが、その迂回路もまた信じられないくらいに酷いものであった。山の上の古道からわざわざ中腹の高速道路まで降り、高架下をくぐって再び山の上の古道まで登らなければならないのである。しかも山を切り崩した斜面に真っ直ぐ階段を作っているので物凄く急だ。歩く人の都合などまったく考えていない、地図上に物差しで引いたかのような迂回路なのである。古道の消失によって精神的に蹂躙され、まるで嫌がらせのような急階段に体力的にも蹂躙される。心身ともにボロボロになりつつ、物凄い疲労を感じながら先へと進んだ。 古道が分断された区間のすぐ先にあるこの遍路墓は、「おなみ」という人物の供養碑である。裏面には「五社(第37番札所)へ四里」「四万十川へ十五り」「あしずり(第38番札所)へ二十五り」「てら山(第39番札所)へ三十八り」「いよ境 まで四十一り」と刻まれており、ただの遍路墓ではなく道標としても利用されていた事が分かる。道の歴史を物語る貴重な物証である。 古道は左右にぶれながら進み、なるほどミミズが這ったような道である。石畳には広葉樹の落ち葉が積もり、少々滑りやすくはあるものの古びた美しさを際立たせている。 古道の入口から険しい坂道を登り続けること一時間程、ようやく傾斜の緩やかな尾根道に出た。古道を取り囲む木々は天然の広葉樹から人工の針葉樹へと変わったが、霧に包まれた杉林は一味違った神秘的な美しさだ。 前半の登り坂といい、後半の尾根道といい、実に素晴らしい古道である。距離も長くて規模的にも申し分がない。ただ、やはりあの高速道路による破壊さえなければ、と悔やまれて仕方がない。個人的に、古道の序盤というのはその古道を特徴づける“顔”であると思っている。その大事な顔を潰してしまうなど、画竜点睛をアクリル絵の具で塗り潰す蛮行と言わざるを得ない。あぁ、本当にもったいないことをしたものだ。 七子峠は山の中にあるのかと思いきや、普通に開けた床鍋という集落に位置していた。ザックを下して一息入れていると、国道56号線の方面から一人の男性がやってくるのが見えた。どうやら大坂の遍路道を通ってきた人らしい。 そちらの道はどのような感じだったのかと聞いてみると、なんでも大部分が舗装路で最後の辺りにちょこっと未舗装路があるくらいとのことである。古道歩きという点では添蚯蚓を選んで正解だったようだが、ただ例の件もあり手放しで喜ぶことはできなかった。 次の札所がある窪川までまだ15km以上あり、どうも今日中に到着することは無理そうだ。寝床になるような場所を探しつつ、未舗装の農道を歩いていく。山の古道も良いものだが、こういった里の道も生活感があって良いものだ。 戦国時代に記された『長曽我部地検帳』によると、かつて「石神ノ下」というホノギ(小字より細かい地域名)があり、そこには六地蔵・十一面観音・不動明王・弘法大師を祀る「舟形石」があったという。現在、床鍋集落には五基の舟形石いが現存しているそうで、この「石神さま」れはそのうちの一つとのことだ。 船の形というよりは巨大なナメクジというか、異形の者のような姿の石である。頭の部分には縦に長い目の様な模様もあるし、なんだかちょっと怖い感じもするが、それが却って神秘性となり人々の心を惹きつけたのかもしれない。 この細道もまた昔ながらの古道であり、伝承によると弘仁13年(822年)頃に弘法大師空海がこの道を通った際、一面に薬草が茂っていたことから「この道はもったいなくて通れない」と言ったという。薬草とは踏むのをためらう程に貴重なものだったのか。 私にはどれが薬になる草なのか皆目見当もつかないのでそのまま進ませて頂いたが、足を踏みしめる度になんとなく悪いことをしているような気分になった。心持ち踵を浮かせつつ、植物の少ない場所を選んで歩き、できるだけ踏み荒らさないよう通り抜けた。 程なくして遍路道は仁井田川に架かる橋に差し掛かり、国道56号線と合流して影野という集落に入った。その入口には白い柵に囲まれた椿があり、空に向かって枝葉を伸ばしていた。側に立てられている案内板によると「お雪椿」というらしい。 江戸時代前期の寛永年間(1624〜1645年)、影野の新田開拓にあたっていた地頭職、池内喜左衛門の屋敷がこの場所にあったという。喜左衛門の娘であるお雪は影野西本寺の僧侶であった順安と恋仲となり、喜左衛門は順安を還俗させて地頭職を譲り与えた。お雪ら夫婦は仲睦まじく里人にも慕われていたが、子供には恵まれなかったそうだ。二人の死後、里人らはお雪が好んでいた椿を墓所に植え、毎年供養を欠かさなかったという。伝承と樹齢がピッタリ符合する「お雪椿」を見るに、二人がいかに里の人々に慕われ、幸せに暮らしていたのかがよく分かるというものだ。 竹林寺の純信とお馬は駆け落ちした挙句に関所破りで捕えられ国外追放となったが、対するこちらは見事なまでのハッピーエンド。実に対照的な二組である。まぁ、大寺院の僧侶と開拓地の僧侶では立場身分が天と地ほど違うのだろうが。 さてはて、既に18時30分となり、そろそろ寝床を見つけないとマズイ頃合いだ。お雪椿の隣には東屋があり、そこで寝ることもできそうだが、国道56号線沿いなので車の騒音が心配だ。他に適地はないものかと集落内へと進んでいくと「影野駅」と記された標識が目に留まった。もしやと思い、駅に向かってみると……ビンゴ! 無人駅であった。 幸いにも今日の日中こそ雨が降らなかったが、昨日のように夜中に降られることも十分に考えられる。だがこの駅舎内なら雨が降ろうが槍が振ろうが問題ない。できればここで寝させて頂きたいところであるが……。 壁に掲げられた時刻表を見ると、終電の時間は22時37分。これを過ぎてしまえば始発まで人が来ることはないだろう。とりあずベンチに座って時間を潰す。結局眠気に耐えられず、ザックを枕にして寝ているところ終電が到着したようで、パラパラと数人が通り過ぎていく気配に目を覚ました。 半分寝ぼけながら駅舎内の片隅にテントを張り、そのまま寝袋に潜り込む。終電後には施錠されるのではないかという懸念もあったが、特に誰かがやってくることもなく、室内を照らしていた蛍光灯も自動的に消灯した。 Tweet |