遍路28日目:足摺岬〜道の駅 めじかの里土佐清水(22.5km)






 朝の天気予報を眺めながら、私は深いため息をついた。四国地方に付けられていたマークは昨夜と全く変わっておらず、堂々たる傘印である。なんでも午後からは相当な雨量となるらしい。しかも火曜日まで、5日間も降り続けるというのだから頭が痛い。

 これまで宿を取った際にはチェックアウト時間ギリギリまでのんびりするのが恒例となっていたが、さすがにこの天気予報じゃうかうかしてられない。雨が降り出す前にできる限り距離を稼いでおきたいところである。……と考えつつも、布団の心地良さには抗いがたく、結局だらだらと部屋に篭ってしまった。相変わらず後先考えられない性分である。

 8時にようやく宿を出たのは良いが、ここで私は重大な選択を迫られることになる。すなわち、東へ行くか、西へ行くか、だ。高知県最後の札所である延光寺への遍路道は、これまで歩いてきた足摺半島の東岸を引き返して真念庵から北西へと向かうか、あるいは西岸沿いをぐるっと周って宿毛を経由するかの二つのルートが存在する。

 真念庵が善根宿や荷物置き場として利用されてきた歴史から分かる通り、多くの遍路はより距離の短い真念庵経由のルートを選ぶ傾向にあるようだ。だがしかし、私は同じ道を引き返す「打ち戻り」という行為にはいささかの抵抗がある。まだ見ぬ新たな遍路道や風景を見るためにも、西岸を行くルートを選択することにした。


というワケで、足摺の集落を抜けて西へと進む

 足摺岬を越えてからも引き続き海岸沿いの県道27号線を歩いていく。東岸は海岸線が直線的であったのに対し、こちらは複雑に入り組んだ荒々しいリアス式海岸だ。海岸段丘上には家屋と畑が連続しており、険しい地形ながらものんびりとした雰囲気である。

 また西岸の県道27号線は東岸以上に再整備が進められており、既にほぼ全区間が二車線に拡張されている。足摺岬から続く「伊佐」の集落を抜けてからは、海岸に沿ってごく普通の車道であり、歩いていて楽しいという感じではない。

 そんな折に左手の視界が開けたので目をやると、まるで人工的にスリットを切ったかのような地形の岬があって驚いた。側の休憩所に掲げられていた説明板によると、大戸という集落にあるこの切れ目は長さ約80m、幅約4mの海蝕洞門ということである。


手前が大戸の海蝕洞門。奥に見えるのが臼碆(うすばえ)だ

 臼碆は南から来た黒潮が最初に接岸する岬とのことで、その山頂からは黒潮の流れを目視できるという。それだけでもなかなかロマン溢れるものがあるが、しかも彼岸の中日(春分の日と秋分の日)の前後三日間に限っては、太陽が臼碆の山頂へと沈むその直前、海蝕洞門の西側「トオルマ」から東側の「サカマ」へと西日が抜けて、海面に一条の光が差し込むという。さぞ神秘的な光景なのだろう。

 日本を含め世界中に存在する太陽信仰において、太陽が真東から出て真西へ沈む春分と秋分は極めて特別な日である。エジプトのアブ・シンベル神殿やメキシコのチチェン・イッツァなど、春分と秋分の太陽光を意識して設計された建築も数多い。

 だがそれらは人為的に作られたものなのに対し、こちらは自然が作り出した地形なのである。臼碆の山頂と海蝕洞門が東西にまっすぐ連なるという条件がピッタリとそろっていないと見られない、まさに奇跡の様な自然現象なのだ。おそらく一番最初に見た人は、そこに神の威光を感じた事だろう。私もいつかこの目で見てみたいものだ。


大戸を通り過ぎ、松尾という集落に差し掛かった
道標に従って港へと降りていく


その海岸では「石抱えアコウ」が異様な存在感を放っていた

 アコウは寒さに弱い亜熱帯植物であり、親木に寄生して覆い尽くし枯死させてしまうことから「絞め殺しの木」という物騒なあだ名が付いている。高知県では足摺岬や室戸岬の周辺に生育しているとのことだ。この松尾集落の天満宮(松尾神社)には樹齢300年を越えるアコウの巨木が三株存在しており、国の天然記念物に指定されている。

 海岸に生えているこの「石抱えアコウ」は天然記念物の指定から外れているものの、それ以上にインパクトのあるビジュアルだ。気根が浜辺の丸石を取り込むように成長した姿には、がむしゃらに生きようというたくましさが感じられるものの、そこはかとない禍々しさが同居しているように思う。正直に言って、取り込まれた石々を最初に見た時は、ぞわぞわと逆毛立つような得体のしれない不気味さを感じた。


石垣の上に連なる細道へと入る


ちょっとしたアトラクションのようでなかなか楽しい


さらに進んでいくと、目の前に壮大な石垣が現れた

 この石垣には本当に驚かされた。沢沿いの狭い土地に丸石を積み上げて築かれており、城郭などの無骨で堅固な石垣とはまた一味違った、素朴ながらも繊細な印象の石垣である。かつてはこれらの上に鰹節工場が建っていたとのことだ。

 黒潮が接岸する臼碆の界隈は、古来よりカツオ漁が盛んである。その拠点であったのが、土佐清水に存在する七つの漁村「伊佐」「松尾」「大浜」「中浜」「清水」「越」「養老」の『鼻前七浦(清水七浦)』であった。中でも「松尾」の地名はカツオを意味する「松魚」に由来するといい、鼻前七浦の中でも特にカツオに縁が深かった集落なのだろう。カビを利用して乾燥させる「土佐節」もこの松尾が発祥の地だという。

 かつては数多くの漁師や商人が行き交いしていたのだろうが、現在はひっそり静かなたたずまいの集落だ。壮大な石垣に往時の繁栄を偲びつつ、階段を上がって高台へと出る。そのまま道なりに進んでいくと、「吉福家住宅」という案内板が掲げられていた。ほぉ、どうやら国指定の重要文化財らしい。見にいってみよう。


高知県南西部における近代網元の代表的な住宅とのことである

 説明板によると、吉福家の初代吉福嘉太郎(よしふくかたろう)は、明治6年(1873年)にカツオやサバ、節類や干物などを運搬する「いさば船」を購入して廻船業を始めたそうだ。明治10年(1877年)、雇い人のための米を買い付けるべく宮崎県日向市の細島へと入港したのだが、当時は西南戦争の真っ最中であり、動乱の中で大量の米を抱えたまま避難できずにいた業者から押し付けられるように米を買い取った。土佐もまた情勢が不安定になっており、九州からの米の入荷が途切れていた。嘉太郎が持ち帰った米は瞬く間に高値で売れ、その利益を元手に富を築いたという。跡を継いだ二代目嘉太郎は漁業や鰹節製造業、金融業などの事業にも手を広げ、豪商に成長したとのことだ。

 この住宅が築かれたのは明治34年(1901年)。二代目嘉太郎が足摺の山から良材を選りすぐって建てたという。間取りは士農工商すべての家の特徴を持っており、封建時代の身分制度から解き放たれた明治らしい自由な思想が反映されているとのことだ。頼めば内部も拝観できるようだが、時間がかかりそうなので外観だけ見て後にした。

 空模様が怪しくなりかけているので、少し早足で松尾集落の路地を通り過ぎていく。集落の出口付近で良い匂いがプンと香ったかと思うと、そこには鰹節工場が建っていた。土佐節発祥の地という割に集落内には鰹節の影も形もなくて少々残念に思っていたのだが、なるほど、工場は集落の外れに移転していたのか。芳ばしい鰹節の香りに旅情を感じながら、私は松尾集落を後にした。


道標に導かれるまま県道27号線を横切り、谷間から未舗装の遍路道へ入る


20分程進んだところで舗装路に出た

 苔むした石垣を横目に山道を登り、尾根沿いに続く道路を歩いていく。辺りには落ち葉や枝が散乱しており、人の気配が感じられないうら寂しい雰囲気だ。道は緩やかに蛇行して続いており、たちまち方向感覚が分からなくなる。しまいにはアスファルトの舗装すらなくなり、車の轍が残るだけの未舗装農道となった。

 道標もなく本当にこの道で良いのか心配になってきた頃、大きく左へ曲がるカーブの付け根から細道が伸びていた。木の枝には遍路道と表記のある札がぶら下がっており、私はホッと胸をなで下ろしつつその道へと足を踏み入れる。


大きな岩がゴロゴロしている山道を下っていく

 道中にはいくつかの巨石が散在しており、実に不思議な雰囲気であった。足摺半島では巨石が露出している箇所が目立ち、白皇山や東岸で見た神社の磐座など、信仰の対象となっている岩も数多い。先程の舗装路を山方面に進んだところには、「唐人駄馬遺跡」という縄文時代中期から弥生時代にかけての石器や土器が出土した遺跡が存在する。そこにもまた数多くの巨石が林立しており、古来より信仰の対象であったことは想像に難くない。足摺の山に見られる巨石の存在も、足摺岬が霊場となった所以なのだろう。


15分程で海岸沿いの県道27号線に出た

 松尾集落を出てからの遍路道は山越えのルートであったが、一方で県道27号線は臼碆を経由して海岸線を北上するルートを取る。この区間は足摺半島西岸で唯一拡張整備がなされておらず、車の離合が難しそうな狭路のままだ。路肩には滝が落ちるなど、なんとも野性味溢れる自然豊かな道路である。


……と思っていたら、すぐに二車線道になった

 現在はこの未拡張区間を迂回する新道の建設が進められているらしく、少し進んだところで真新しい道路と合流した。どうやら新道は先程の遍路道の入口付近の谷間をトンネルでぶち抜く計画らしい。その後の2016年3月に開通したとのことで、これで足摺岬西岸における県道27号線は全区間が二車線道路に拡張されたことになる。

 これまで大型バスが足摺岬へ行くには、土佐清水の市街地から山の尾根沿いを通る足摺スカイラインを行くしかなかった。しかしこれで西岸沿いの県道27号線も大型バスで通れるようになり、アクセスがより楽になったことだろう。

 だが遍路道としては凡庸化したことは否めない。Googleストリートビューで現在の状態を確認したところ、トンネル北側の山がかなり削られており、その影響か岩肌を流れ落ちる滝が枯れていた。仕方のないこととはいえ、一抹の寂寥を感じる今日この頃である。


海岸沿いを進み、「大浜」に辿り着いた


集落奥の階段を上って丘陵上に出る


道沿いには第二次世界大戦の防空壕が残されていた

 防空壕――なんとも懐かしい響きである。かつては私の実家の近所にもいくつかの防空壕があり、子供の頃には度胸試しで入ったりしたものだ。しかし現在は安全の為だかなんだか知らないが埋め戻されてしまい、ひとつも現存してはいない。

 だが、ここでは防空壕も立派な戦争遺跡として認識されているようで、目立つように標識まで立てられている。連綿と続いてきた地域の歴史を物語る証左のひとつとして、他の古いモノと同じように扱われている感じがして好印象だ。


緩やかな坂を下り、石仏の並ぶ路地を行く


程なくして「中浜」の集落に出た
集落入口には「万次郎翁記念碑」が鎮座している

 この「中浜」は「伊佐」「松尾」「大浜」に続く鼻前七浦のひとつであり、また足摺岬に銅像があったジョン万次郎こと中浜万次郎の故郷でもある。港を見下ろす高台には明治時代に築かれたのだろう「贈正五位中濱萬次郎翁記念碑」と刻まれた石碑が置かれており、また集落の奥まったところには万次郎の生家が復元されていた。


平成22年(2010年)に再建された、真新しい茅葺屋根の小屋である

 万次郎は9歳の時に父親を亡くしており、幼い頃から漁師として海に出て病弱な母と兄を養っていた。14歳の時に期せずしてアメリカへと渡った万次郎は、学業を修めた後に捕鯨船の水夫として働いていた。日本への帰国を決意した万次郎は、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコで鉱夫をして資金を稼ぎ、漂流から10年後の嘉永4年(1851年)に当時は薩摩藩の管轄であった琉球へと上陸している。万次郎は薩摩藩と幕府から取り調べを受け、故郷の中浜に帰ることができたのは嘉永5年(1852年)の事であった。

 万次郎はすぐに土佐藩の藩士に取り立てられ、また嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船が来航すると幕府の旗本となった。それにより苗字帯刀が許され、故郷の地名より「中浜万次郎」と名乗ることになったのだ。

 貧しい漁師の家ということもあって、復元された万次郎の生家は土間と居間だけのシンプルな間取りである。居間も板の床にゴザを敷いただけで、居住性はよろしくない。しかしこの家があったからこそアメリカでの生活を捨てて帰国を決意した、まさしく万次郎にとっての“帰るべき場所”だったのだろう。


中浜集落から坂道を上り墓地を横切る


県道27号線沿いに遍路道へと続く入口があった

 道標に従い坂道を上っていったものの、集落の背後を迂回する県道27号線と合流したところで遍路道の続きが分からなくなってしまった。はてどうしたものかと周囲を見渡してみると、少し離れたところにガードレールの切れ目があった。どうやらそこが次なる遍路道の入口でらしい。非常に分かりにくく、危うく27号線をそのまま進むところであった。


丘陵の尾根に沿って続く古道である


約40分歩いたところで小さな社を横切り民家の脇に出た


いよいよ土佐清水まであと少しということろで、ついに雨が降ってきた

 時間は既に正午を回っており、憎たらしいぐらいに予報通りの崩れ方である。少し急ぎ足で土佐清水の市街地へと入る。港の隣にスーパーがあったので昼食を購入し、ついでに明日の分の食料を少し多めに仕入れておいた。この土佐清水を出てしまうと、宿毛にたどり着くまで大きな町がなさそうだからだ。

 ザックが少し重くなってしまったが、食料が尽きてしまったら元も子もない。肩にかかるずっしりとした重みに耐えながら近くにあった公園へと移動し、東屋のベンチに腰掛けて弁当を食す。


これがボリュームあっておいしい弁当だった

 食後の腹休めがてら、遍路地図とにらめっこをして午後の予定を立てる。どうやら10kmほど進んだところに遍路小屋を備えた道の駅があるようなので、そこを第一目標にするとした。雨の状況によっては、その遍路小屋に宿泊することも念頭に置いておこう。


14時に出発し、土佐清水の市街地を抜ける


町を出たところでたちまち雨が激しくなった

 足摺半島を一周するように続いてきた県道27号線は土佐清水で終わり、ここからは以布利から続いてきたサニーロードこと国道321号線を進むことになる。実に二日ぶりのサニーロードではあったが、歩き始めて早々に天候が一気に悪化し出した。挙句の果てに風まで強まり、横殴りの雨がレインウェアに打ち付ける。ちくしょう、これじゃぁサニーロードじゃなくてレイニーロードじゃぁないか。

 もはや皮肉としか思えない国道321号線の愛称を呪いつつ、雨に煙る歩道を必死になって歩いていく。鼻前七浦最後の集落である「養老」に差し掛かった辺りで、ふとポケットのiPhoneに通知が入った。Twitterのフォロワーさんからメッセージが届いたらしい。何気なく確認したその文章を見て、私は絶望に青ざめた。

「四国、梅雨入りしたみたいですね」

 ………………嘘、だろ。だってまだ5月なのに梅雨だなんてちょっと早すぎやしませんか? 私の頭の中で天気予報の雨マークがぐるぐると渦を巻く。梅雨に入ったということは、これからは歩き遍路の天敵である雨の日ばかりになってしまうのだろうか。確かにこれまで悠長に歩いてきたことは認めるが、それにしてもこんなにも早く梅雨入りしてしまうとは、あまりに無体が過ぎるというものではないか。

 菅笠の縁から雨を滴らせながら、呆けた顔で養老集落を抜ける。真っ直ぐ続く坂道を下っていくと、左手の海岸線にまるで洗濯板のような縞模様の岩場が広がっていた。


落窪海岸の化石蓮根とのことだ

 化石蓮根は水流によって海底に作られた文様が堆積岩となって隆起したもので、徳島県と高知県の県境に位置する宍喰でも見ることができた。あちらは海洋プレートの作用によって垂直に隆起していたのに対し、こちらは昭和21年(1946年)の南海地震によって隆起したとのことで、海岸に沿って水平に広がっている。同じ化石蓮根でも隆起のプロセスによってずいぶんと見た目が違ってくるものなのだ。

 なかなかに良い景色なのでしばらく眺めていたいところであるが、海から吹きつける強風に体が持っていかれそうになったので慌てて退散する。自然の雄大さと厳しさを目と体で思い知らされた私は、後ろ髪を引かれつつも国道321号線を進んでいった。


やがて国道321号線は海岸を離れ、内陸の田園地帯に入った

 雨脚はますます強まり、もはや土砂降りといって良いくらいの酷さである。あぁ、これはダメだ。さっさとこの先の道の駅に避難したいところであるが、歩いても歩いても道の駅はその姿を現さない。だんだんと不安になってきたところで道路が大きくカーブをし、その先に道の駅の看板がようやく見えた。

 駐車場の入口には大きな池があり、その袂に目当ての遍路小屋が設置されていた。だがここの遍路小屋は壁のない柱だけの東屋なので、雨によってベンチも床もびしょ濡れだ。この強風では屋根があってもないようなものらしく、とてもテントを張れそうにはない。

 あきらめて道の駅に目をやると、駐車場の奥に平屋の直売所が連続して建ち並んでいた。壁のない吹き抜けではあるものの、軒が深いので雨に濡れることはない。ベンチも併設されており、こちらの方が圧倒的に野宿に適しているように見える。

 時間は既に17時を回っており、悪天候で客の入りも悪いらしく直売所は早々に店仕舞いを始めていた。 お店の人に閉店後にテントを張っても良いかと尋ねると、大変ありがたいことに快くOKを頂いた。


というワケでテントを張らせて頂いた

 私がテントの設営をしていると、ふと一人の遍路がやってきた。いや、ただの遍路と言ってよいものか。なにせその人物は身に纏う白装束の上に黒い袈裟を掛け、頭はしっかり剃られたスキンヘッド。黒縁メガネの奥に見える目は実に朗らかだ。どう見ても若い僧侶といった出で立ちである。思わず目を見張る私を前に、爽やかな声で挨拶してくれた。

 話を伺うと、やはりというか、なんというか、お寺の跡取りとのことである。修行の一環として四国遍路をやっているとのことで、宿の類は一切取らず、テントや寝袋なども使用しない完全なる野宿旅とのことだ。毎日夕方には宿泊地付近の住宅を訪問する托鉢も行っていると言っていた。ほぉ、それは凄い。まさに遍路ガチ勢である。

 托鉢は「ご修行」ともいわれ、かつて四国を歩く遍路は一日に三戸ないし七戸の家を周る義務があった。家主の許可を得て玄関前で読経をして喜捨を受けるというものだ。このお坊さんも本日の托鉢を終えてきたところらしく、米の入ったビニール袋と野菜を手にしていた。なんでもこれから夕食を作るという。

 どうやって調理するものかと関心をもって見ていると、切断した空き缶に固形燃料を置き、その上にコメを入れた別の空き缶をセットした。そうして燃料が燃え尽きるまでとろとろ煮込むと、茶碗一杯分のご飯が炊けるとのことである。いやはや、なかなかにサバイバルな食事である。

 お坊さんが温かいご飯を食べている一方、私は昼のスーパーで買っておいた弁当を食べる。冷たいご飯をかっ込んでいると、これもまた托鉢の喜捨として貰ったのだろう「よろしければどうぞ」と小夏を一個手渡してくれた。

 私のように古い文化を体験したい、古道を歩きたいだけのお気楽遍路もいれば、今もなお托鉢修行をしながら野宿だけで歩き通す本気の遍路もいる。甘酸っぱい小夏をデザートに頂きつつ、遍路と一言でいっても実に様々な人がいるものだなと実感した。