風がとても強い日だ。昨日もかなりの強風が吹いていたような気がするが、日付が変わってからというものの勢いにさらなる磨きがかかってきた。三方を壁に囲まれた休憩所にテントを設営したにも関わらず、シートがはためく音で何度も起こされたくらいである。とはいえ、今日は足摺岬に宿泊することが確定している。残すところの距離は約12km。実質の休息日となるワケだし、少しくらい眠気が残っていても気にすることはない。 宿に早く着きすぎるのもなんなので、できるだけ出発を遅らせたいところである。しかしながら、この以布利は漁師町である故に朝早くから人出が多い。遍路的にダラダラしている姿を見られるのもなんなので、結局いつも通りの7時前に出発することとなった。 昨日、下之加江で海岸沿いに出てからというものの、ずっと浜辺と海岸段丘が交互に連なる地形が続いてきた。今日も同じような遍路道を歩くことになるのだろう。以布利港のから段丘へと上る坂道もまた、昨日と同様に未舗装の古道が残されていた。 しかも昨日の遍路道よりも距離が長く、状態も比較的良好な印象である。いよいよ地の果てへと近付いているような、クライマックス感がひしひしと感じられる。 この古道は小さな沢に沿って続いており、途中には水の流れが道を洗っている箇所もあった。お陰で足元はあまりよろしくないが、せせらぎの音を聞きながら歩くのは結構気持ちが良いものだ。朝一番にふさわしい古道といえるだろう。 ある程度の高さまでくると、湧き水が途切れて比較的歩きやすい道となった。時折雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせて木漏れ日がまばらに差し込んでくる。険しいながらもなかなかにゴキゲンな遍路道だ。 坂道を上り切ってからの平坦な道は、どことなく生活感が漂っているように思えた。両側に連なる木々は生垣のようで、その間から見える草木も人の手が入っているように見える。……などと考えているうちに民家の庭先に出た。県道27号線に合流したのだ。 これまで、四万十大橋から以布利まではサニーロードこと国道321号線沿いを歩いてきたが、321号線は以布利を出ると足摺半島を横切って土佐清水へと向かう。これ以降の海岸沿いは、県道27号線が足摺半島をぐるっと一周するように続いているのだ。 それにしても、県道とは思えないくらいに心細い狭路である。山の斜面を掘り切って通されている区間も多く、対向車が来たら離合が難しそうである。もっとも、この道路を好んで走る車などそうそういないのだろうが。 県道27号線は谷筋をぐるっと大きく迂回しているのに対し、遍路道は真っ直ぐ突っ切る最短ルートを行く。辺りは今でこそ雑木林となっているものの、この立派な石積みを見るに、かつてはここにも人の営みがあったのだろう。 そのまま古道を抜けると再び県道27号線に出たのだが、少し進んだところで土佐清水からくる県道348号線との合流点に出た。そこからの27号線はこれまでの細道とは比べられないくらいに道幅が広くなり、視界の開けた明るい道路へと変貌を遂げた。県道348号線は足摺半島東岸に住む人々が土佐清水市街地へと出るための主要ルートのようなので、それに接続する区間は再整備が進んでいるのだろう。 道幅が広くなると、周囲を覆う木々がなくなり風の通りが非常に良くなる。お陰で海からの強烈な風が吹き付け、私は顔をしかめながら飛ばされそうになる菅笠を押さえた。遍路地図を確認すると、次の集落である窪津までの道のりはただひたすらに海岸線を行くようである。呼吸が苦しくなるくらいの強風の中、海沿いの車道を歩くのは辛い。 そんなことを考えていたところ、ふと道路の右手から山の中へと続く未舗装路が目に留まった。遍路地図にはまったく記載のないルートであるが、立札を見る限り次なる遍路道の入口のようである。よし、せっかくなのでこちらの道に入ってみよう。 これが大いに当たりであった。下之加江から歩いてきた海岸沿いの遍路道は、急峻な上り坂の部分のみに未舗装路が残るだけであり、平坦な丘陵上は開墾されていて古道としての風情は失われていた。現存する古道も極めて距離が短く、せいぜい10分足らずで通り抜けていた感じである。しかしこの区間の遍路道は、坂の上に出てからも昔ながらの古道が続いているのだ。 これまでの平坦な海岸段丘とは違い、この区間は険しい山が連続しているので開拓の手が入ることがなかったのだろう。道沿いには丁石が点々と続いており、昔から続く古道であることは明らかだ。遍路地図に表記がないだけにすぐ終わるのかと思いきや、進んでも進んでもなかなか古道が終わらず、むしろ不安になったくらいである。 結局のところ、1時間ほど歩いたところで視界が開けて窪津集落の高台に広がる墓地に出た。 足摺半島にこれほどまとまった規模の古道が残っているとはまったく思ってもいなかっただけに、実に嬉しい発見である。 時間を確認するとまだ9時過ぎ。足摺岬までは残り8km程度なので、このままだと昼頃には到着してしまうだろう。ちょうど太陽が出ていてポカポカと暖かく、寝不足と疲労も相まってまぶたに眠気がのしかかってきた。しばしの間、横になってまどろむ。 ふと気が付くと10時になっていた。まぁ、ほど良い頃合いだろうと石段を降りていく。そのまま窪津の集落を突っ切ると、険しい斜面を背にした神社に差し掛かった。墓地から見た景色で分かっていたことではあるが、やはりここでも坂を上るらしい。 県道348号線との分岐点以降、県道27号線は道幅が広くなったと思っていたが、開という集落に差し掛かった途端に一車線の狭路に戻った。道路の拡張工事は現在進行形で行われているようだが、集落内を通る箇所では土地の買収に手間取っており、整備が遅れているのだろう。 また同時に曲がりくねった道を直線的に付け替える工事も進められているようだ。苔むした石垣や石仏が点在する旧道を分断するように、山肌を切り拓いて築かれた新たな道路が通されている。おそらくここ数年で27号線の風景はガラッと変わることだろう。 なんていうか、実に手作り感あふれる素朴な遍路小屋だ。足摺岬に近いということもあって、利用する遍路は多いらしい。壁には数多くの納め札が張られていた。私も宿を取っていなかったら、おそらくここに宿泊していたことだろう。 引き続き県道27号線を進んでいく。水田が広がる集落を通り過ぎると、道路は割と急な上り坂となった。この区間もまた最近になって拡張されたようで、不自然なくらいに直線的な道路である。 路肩に目をやっても石仏一つすら見当たらず、無味乾燥な味気ない車道である。無言でとぼとぼ歩いていくと、坂道を上り切った辺りで右手に小さな鳥居が見えた。真新しい道路を越えた先でようやく見つけた古いモノ。よくよく目を凝らして覗き込むと、鳥居の奥にいくつかの亀裂が入った岩が鎮座していた。磐座信仰の聖地だろうか。 ちょうど12時になったので、この磐座の前で昼食を取ることにした。腹を満たして人心地つくと、ふと鳥居の横から森の中へと小路が伸びていることに気が付いた。石畳によって丁重に舗装されており、なんだか気になる雰囲気である。私は好奇心に誘われるがまま、森へと足を踏み入れた。 先ほどの岩といい、こちらの岩といい、実に独特な雰囲気である。きっといわれのある磐座なのだろうが、それを解説してくれる説明板の類はないので詳細は不明だ。きっと近隣の住人によって大事にされているローカル聖地なのだろう。謎が多いところもミステリアスな感じでソソられるというものである。 さて戻ろうかと踵を返したところ、ふと岩の手前から北に向かって一筋の道のような跡が伸びていることに気が付いた。草木がせり出していて歩きにくいものの通れないほどではない。この先にもまた同じような磐座があるのではないだろうか。期待を胸に進んでみると、なんとその道の傍らには遍路道の道標が置かれているではないか。 いやはや、まさかこのような形で古道を見つけるとは思わなんだ。どこまで続いているのか気になったものの、少し先で刺のあるイバラのような植物が生い茂っており、それ以上は進めなくなってしまった。しかし、これは紛れもなく古道である。 遍路地図に記載のない古道を発見できた喜びを感じつつ、私は元来た道を引き返していった。もっとも、道標の横には「三十一丁目(足摺まであと3379m)」と記された杭が打たれており、この古道の存在はとっくの昔に把握されていたことだろう。今後は整備が進められ、再び遍路道として日の目を見ることとを祈るばかりである。 長かった昼食休憩を終えて、私は再び県道27号線を足摺岬に向かって進む。これもまた最近築かれたのだろう、巨大な橋に差し掛かると、谷間の先に海が見えた。 橋を渡り切ったところには、下へと降りる階段が設けられていた。遍路地図ではこの階段を下りるようになっているが、ガードレールに吊るされている道標は階段を降りずに真っ直ぐ進むように誘導している。どちらを信じるべきか迷ったが、とりあえずは遍路地図の通りに階段を下ってみることにした。 最初は古道かと思ったが、それにしては道幅が広く勾配も緩い気がする。おそらく、この道は明治以降の旧道なのではないだろうか。 近年の再整備によって現在の県道27号線は直線的な道路に付け替えられたものの、それ以前の27号線はこの「大カーブ」と呼ばれる九十九折の坂道を通っていた。今しがた私が歩いた未舗装路の道筋は、地図に残る旧道の痕跡から連続していることから、「大カーブ」の以前に築かれた旧道であることが分かる。やはり古道ではないらしい。 少々残念に思いつつ大カーブの舗装路を進んでいくと、程なくして現行の県道27号線と合流した。真新しい道路が緩やかなカーブを描いて進むのに対し、その奥にはよりキツいカーブの旧道が残っている。今や落ち葉が積もりつつあるその跡地には、なぜだか一台の自動車が停まっていた。 私が真新しい道路を進もうと思ったその時だ。山の中から作業服姿の男性がぞろぞろと列をなして出てくるのが見えた。何度か言葉を交わしたかと思うと、停めてあった車に乗り込みそのまま走り去っていく。彼らは一体何者なのだろうか。何かを調査している風ではあったが、建築業者のようではなかったし、農業や林業の人でもない気がする。ひょっとしたらあの人たちは……。私はひとつピンと来た。 やはりそうか。あの人たちは、おそらく古道の調査をしていたのだろう。私は以前、鎌倉にある名越の切通しを訪ねた際に、調査しに来ていた市の職員と遭遇したことがある。あの人たちもまた同じような作業服を身に纏っていたのだ。 棚から牡丹餅というか、なんというか。まったくの偶然であったものの、ここでも古道を見つけることができた。私をこの古道に引き合わせてくれた、あの作業服姿の方々には本当に感謝の言葉しかない。 ちなみに南北に通るこの古道を北へと歩いていくと、先程旧道へと下りた階段の近くに出た。遍路地図ではなく道標に従って歩いていけば、おのずとこの古道に辿り着くことができたのである。まぁ、旧道と古道の両方を歩くことができたので、これはこれで結果オーライではあるが。 このまま道なりに進めば足摺岬に到達するのだが、少し進んだところに「天狗の鼻」という岬への道標が出ていたので立ち寄ってみることにした。強い海風の影響で生育が妨げられているのだろうか、やけに背の低い照葉樹林を掻き分けるように進んでいくと、5分程でその突端に辿り着いた。 足摺という地名の語源は諸説あるが、一説によるとこの地に住んでいた天狗が足を滑らせて崖から落下したことから「あしずり」と呼ばれるようになったという。なるほど、確かに天狗でさえ足を踏み外してしまいそうな険しい断崖絶壁である。崖下を覗き込むと白波が渦を巻いており、落ちたらひとたまりもなさそうである。 「天狗の鼻」からの景色を堪能したのち、再び県道27号線へと戻る。最後の道標地蔵を通り過ぎると、間もなくして木々が途切れて白壁に囲まれた寺院の門前に出た。 第37番札所岩本寺のある窪川から実に4日目にしてようやく四国島の最南端足摺岬に辿り着いた。四国遍路の最長区間ではあったものの、途中には古道や霊場などの見所が多く、遍路道の景色にも色々と変化があった。どこまでも荒涼殺伐とした景色が続く室戸岬よりは、精神的にだいぶ楽だった印象である。 足摺岬に鎮座する金剛福寺は、正式には蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺といい、三面千手観音を本尊とする真言宗豊山派の寺院である。寺伝によるとその創建は弘仁13年(822年)、弘法大師空海は足摺岬から見る大海原に遥か南方に存在するという観自在菩薩の住む世界「補陀落(ふだらく)」を感得して嵯峨天皇に奏上。「補陀洛東門」の勅額を賜り、堂宇を建立して開山したとされる。 寺名に含まれている「金剛」とは金剛杵の事であり、空海が唐から帰国する際に有縁の地を求めて投げた五鈷杵が足摺岬に辿り着いたというが、それだと第36番札所青龍寺の縁起と丸かぶりだ。これもまた、ヨクアル空海伝説の一種なのだろう。 とりあえずお参りと納経を済ませたものの、時間を確認するとまだ15時前。宿に入るにはまだ少し早い。となると、やるべきことはただ一つ、足摺岬の観光である。私は高知市の桂浜と同様、この足摺岬にも高校の修学旅行で来たことがある。……はずなのだが、まったくもって記憶がない。今一度、足摺岬の名所を押さえておこうと思ったのだ。 南の果て位置する足摺岬は、かつて「補陀落渡海」が行われていた場所でもある。僧侶が小舟に乗り込み、南方の補陀落を目指して漂流する一種の捨身行だ。 足摺岬という地名の由来のひとつとして、この補陀落に関する伝説もある。平安時代中期、金剛福寺には賀登上人とその弟子の日円上人が住んでいた。ある日に旅の僧侶がやってきたのだが、食べ物を持っていなかったので日円が食事を恵んでやったという。賀登上人は乏しい食料をこれ以上やるなと諌めたものの、日円はその後も施し続けた。実はこの旅の僧侶は観音菩薩の化身であり、日円の情に打たれた観音菩薩は日円と共に岬の先から舟で補陀落へと旅立ったという。その光景を見ていた賀登上人は足摺をしながら(地団太を踏みながら)嘆いたとのことで、足摺岬と呼ばれるようになったそうだ。 当然ながら、この伝説は補陀落渡海に由来するものだ。別の伝説によると、賀登上人と日円上人が補陀落へ渡海しようとしていたところ、一足先に弟子の日円上人が渡海、すなわち殉死してしまい、賀登上人が嘆き悲しんだという。どちらも日円が渡海するという結果は同じだが、その行為を巡る印象としては180度異なる点が興味深い。 また足摺岬には弘法大師に関する伝説も数多く、空海が崖下の不動岩に渡るために亀を呼んだ「亀呼場(かめよびば)」、爪で南無阿弥陀仏と刻んだ「爪書き石」、一夜で華表を建てようとしたときに天邪鬼が鶏の鳴きまねをしたために夜が明けたと勘違いして造るのをやめた「ならずの華表」などが『足摺七不思議』として伝えられている。 なお、室戸岬には中岡慎太郎の像が、桂浜には坂本龍馬の像が存在したが、足摺岬にも一体の銅像が建っている。ジョン万次郎こと中浜万次郎の立像だ。 江戸時代後期の文政10年(1827年)、土佐清水は中浜の漁師に生まれた万次郎は、14歳の時に嵐に遭って伊豆諸島の無人島である鳥島に漂着。アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに渡ることとなった。帰国後は通訳や教育者として活躍し、万延元年(1860年)には日米修好通商条約の批准の為に勝海舟らと共に再びアメリカへ渡っている。 坂本龍馬などと比べると若干の地味さはあるものの、幕末における日米交流の礎を築いた人物であり、またアメリカで見てきた様々な情報は幕末の志士に大きな影響を与えたとされる。いわば開国論を醸成させた立役者であり、その波乱万丈な人生と相まって、銅像を建てるにふさわしい土佐清水の偉人といえるだろう。 一通り足摺岬の散策を終えて、特にやることもなくなったので予約していたユースホステルに向かうことにする。金剛福寺の門前を横切り、亜熱帯の木々が生い茂る県道27号線を進んでいくと、程なくして右手に神社が現れた。 足摺半島の背後には白皇山という標高433mの山が聳えている。数多くの巨石が屹立する山頂にはかつて白皇山真言修験寺があり、金剛福寺の奥の院として白皇権現を祀っていた。しかし明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、佐田山神社へ改められた。その後の大正5年(1916年)には白山権現と合祀され、現在の白山神社に遷されたという。 ちなみに白皇権現と共に祀られている白山権現は、崖下にある白山洞門に祀られていた神様のようである。白山神社の前から白山洞門へと降りる階段が設けられているので、ちょっと見にいってみようではないか。 巨大な岩塊が波によって浸食されて築かれた白山洞門。海蝕洞としては日本最大規模とのことで、高知県の天然記念物に指定されている。白山権現はその頂上に祀られているようなので、ぜひとも拝ませて頂こうと思ったのだが……。 ちょっと残念ではあるが、岩がもろそうな上に、草木がこんもり生えて道筋もハッキリしない。確かに危なそうなので登るのはやめておいた。とりあえず鳥居の前で二拍一礼をしてから白山洞門を後にした。 足摺岬のユースホステルは白山神社の隣という非常に分かりやすい場所にあった。ユースホステルといえば相部屋が基本だと思っていたのだが、意外にもここは一人部屋である。いや個室にしては広すぎるので、客が多い時には相部屋になるのかもしれない。いずれにせよ今夜は一人で占有だ。ゆっくりくつろげそうである。 とりあえずiPhoneとカメラを充電し、一風呂浴びてシャツを洗う。写真の整理や明日の行程を決めているうちに夜となり、眠気に誘われるがまま床に就いた。ようやく足摺岬まで到達することができ、修行の道場こと高知県もいよいよ佳境である。残りの遍路道も楽しみながら歩くとしようではないか。……ただ一つ気がかりなのは、テレビのニュースで言っていた明日からの天気である。 Tweet |