遍路34日目:道の駅 津島やすらぎの里〜道の駅 みま(24.9km)






 昨夜からテントを張らせていただいているこの温泉施設は22時に営業終了だったらしく、和太鼓の演奏も21時過ぎには終わってくれた。お陰で寝るのに支障はなかったものの、太鼓の音が空気を振動させたのか明け方近くにかなり激しい雨が降った。いや昨夜の天気予報の段階で雨が降るといっていたので予報通りになっただけではあるのだが、いや、まぁ、いずれにせよ屋根のある場所で寝て良かったというものである。

 今日でいよいよ6月に入るが、私がやるべきことはこれまでと同じである。いつも通り荷物をまとめて朝食を取り、6時になったのでいざ出発! ……とその前に用を足そうと思ったのだが、なんとトイレは施錠されていた。この施設は道の駅を兼ねているにも関わらず、営業時間外はトイレが使えないようである。スッキリ身軽な状態で歩き始めたいのでもう少しだけ待ってみたのだが、6時半になっても開く気配がなかったので諦めた。近くにあったコンビニでトイレを借り、そのお礼としてちょっとした買い物をしてから改めて出発だ。


昨日に引き続き、国道56号線を北へと向かう
前方には小高い山が待ち受けていた


車道はトンネルに入るが、遍路道は左側から山道へと進む


その入口にはコンクリートブロックで築かれた小屋があった

 外壁に描かれたイラストからも分かる通り、この小屋は遍路の為の休憩所で「てん屋」と名付けられている。中を覗いてみると長椅子の他に畳が敷かれており、横になることも可能のようだ。近くには簡易トイレもあり、テントを持たない野宿遍路にとっては格好の宿泊スポットといえるだろう。ただし水場がないのと、やけに肌色成分の多い雑誌が置かれていたのには注意が必要だ。

 扉を閉めて「てん屋」を後にし、今は未耕地となっている段畑の横を上っていくと、すぐに本格的な山道に突入した。旧宿毛街道「灘道」最後の難所「松尾峠」である。そういえば、一昨日越えた土佐と伊予の国境も松尾峠という名であった。宿毛街道は松尾峠に始まり松尾峠で終わるのか。

 この松尾峠の山道は近年まで荒廃していたらしく、地元有志の努力により平成18年(2006年)に復元されたとのことである。それ以前は1710mもの長さがある松尾トンネルを歩かねばならなかったらしく、この遍路道を復活させて下さった方々には感謝の言葉しかない。


ちょっとした滝を横目に山道を登っていく

 朝一番かつ曇りであるため、木々の生い茂った遍路道は非常に暗い。近年になって復興されたこともあってか道筋は細く、少々寂しい雰囲気だ。しかし場所によっては人工的な石積や家屋が建っていたと思わしき平場も見られ、わずかながらも街道として現役だった頃の面影を残している。

 さらに少し進むと急な坂道となり、それを登り切ると車道に出た。すぐにまた旧街道に入るのだが、その入口には昭和8年(1933年)の道標が置かれていた。


車道から旧街道へ入るように案内する道標

 この松尾峠は大正8年(1919年)にバスが通れるようになったとのことで、遍路道を横切る車道はその時に整備されたものだろう。第二次世界大戦直後の岩松を舞台に『てんやわんや』を書いた獅子文六もまた、宇和島からバスで松尾峠を越えて岩松に入っている。

 この道標の存在は、少なくとも昭和初期まで遍路たちは車道ではなく旧街道を歩いていたことを示している。その後の昭和26年(1951年)に松尾峠の直下を通る松尾隧道が竣工したで、それ以降はバスも遍路も松尾隧道を通る様になり、峠を越える旧街道は廃れたのだろう。

 ちなみに道標には「宇和島 四十番奥の院へ 二里廿丁」と刻まれている。宇和島の中心部には第40番札所観自在寺の奥の院である「龍光院」が存在するのだが、そこまでの距離があと約10kmだということを伝える道標である。現在の四国遍路は八十八箇所の札所のみを周るのが一般的だと思うが、昔は奥の院を含めて参拝するのが普通だったのだろうか。

 どうせ宇和島を通るなら私も龍光院に立ち寄ってみよう。そんなことを考えつつ、緩やかな坂道を上っていく。やがて幅の広い未舗装路と合流した。先ほどの車道から続く、かつてバスが通っていた道路である。そのまま道なりに進んでいくと、程なくして松尾峠に到達した。


深い切通しとなっている松尾峠
かつてここをバスが通っていたのだ


峠を越えたところには茶屋の跡があり、現在は遍路小屋が存在する

 茶屋跡に建てられたこの遍路小屋は「わん屋」と名付けられている。遍路道入口の「てん屋」と併せて「てんやわんや」という言葉遊びである。屋根の妻面に見られる大きな妻飾りが特徴的だが、なんでもこれは合掌の形を模しており、高野山の方角を向いているとのことである。


茶屋で使われていたのだろう、遍路小屋の脇には井戸も残っていた

 遍路小屋で10分ほど休憩を取ってから再び進む。松尾峠からはバスが通っていた車道から離れ、再びの山道となる。しかし尾根伝いを行くので傾斜が緩やかで、とても歩きやすい。


相変わらず薄暗いが、なかなかに気分の良い遍路道だ


坂道を下りきったところで採石場を横切った

 まだ8時と早めの時間なので人の姿はなかったが、日中は重機やらトラックやらが稼働しているのだろう。安全上の観点からすると迂回させられてもしょうがないような気もするが、通行を許容しているだけ遍路に理解がある現場である。

 砂利を運ぶコンベアを横目に採石場を通り抜ける。車道に出たと思いきや小川に架かる小さな橋を渡り、山裾をなぞるように続く未舗装路に入った。


田畑と山の境を歩く、昔ながらの里道だ


やがて柿木庚申堂に差し掛かった

 松尾峠を下った祝森地区にたたずむ柿木庚申堂は、旧宿毛街道の合流点に位置している。宿毛と宇和島を結ぶ宿毛街道は「灘道」「中道」「篠山道」の三ルートが存在すると既に述べたが、そのうち「中道」と「篠山道」は旧津島町岩淵の満願寺で合流し、野井坂を越えて柿木集落に到達する。「灘道」もかつては満願寺で合流していたのだが、江戸時代に岩松が発展すると岩松から直接宇和島城下に入る松尾峠を越えのルートが使われるようになり、この庚申堂の前で合流するようになったのだ。

 往時は街道の結節点として遍路や旅人が一息入れる場所だったのであろう、この庚申堂にも弘法大師の伝説が残っている。平安時代、祝森地区の柿木集落には信心深い兄弟がおり、兄は地蔵菩薩を、弟は青面金剛を崇拝していた。そこへ巡錫してきた空海はこの兄弟に感心し、それぞれの仏像を刻んで与えたという。兄弟の子孫は松ヶ鼻に地蔵堂を、松尾坂の麓に庚申堂を建てて各々の像を祀っていたが、戦乱により荒廃し、像も失われてしまった。

 時は下って江戸時代の天和元年(1681年)、北宇和郡深田の庄屋であった河野勘兵衛道行なる人物が祝森地区にて余生を過ごしていたのだが、夢のお告げと二匹の猿に導かれ、松尾坂の麓から青面金剛の石像を掘り当てた。それを安置するべく建てたお堂がこの庚申堂の起源であるという。なお現存するお堂は明治33年(1900年)に再建されたものだそうだ。

 庚申堂で一息入れてから、宇和島を目指して歩き出す。柿木庚申堂からの遍路道は、国道56号線と並走するように続く舗装路だ。とはいえ旧街道なだけあって、古いながらも立派な屋敷構えの農家や石垣で整地された段畑など目を引くものは多い。


平地が少ない土地とはいえ、かなり高い所まで段畑が続いている


集落裏手を通る、細い路地を歩く箇所もあった

 この辺りは拡張する宇和島の市街地に飲み込まれつつあるようで、特に国道56号線沿いにはどこにでもあるような全国規模のチェーン店が建ち並んでいる。しかしながら遍路道は国道をうまく回避しつつ里道を縫うように辿っており、市街地化が進みながらも昔ながらの風景をうまい具合に残しているという印象だ。

祝森地区を抜けてより宇和島の中心部に近づくと、遍路道は国道56号線と合流する。旧街道をむりやり二車線に拡張したような道路であるため歩道が極めて細く、すぐ側を通る車が怖い。祝森地区よりもさらに市街化が進んでいてお店も多いが、所々に古い石垣を持つ農家もあり、道の歴史を裏付けている。

 15分ほど歩いたところで再び国道から旧街道へと入った。通りに沿って建ち並ぶ町家もさることながら、石積みで築かれた水路が暗渠化されずに残っており、良い感じのたたずまいである。


昔ながらの水路に立派な町家が良く映える

 細い通りを20分ほど進んでいくと、路肩に「馬目木(まめき)大師」という看板が掲げられていた。細い路地の奥にこんもりとした木々が茂っており、その袂に小さなお堂が祀られている。


住宅地の奥にひっそりたたずむ馬目木大師

 宇和島の西に浮かぶ九島の鯨谷には弘法大師空海が創建したとされる「鯨大師」こと願成寺が存在する。今でこそ九島には橋が架けられているが、昔は当然ながら船でしか行けなかったので参拝に不便であった。そこで対岸に遥拝所を設け、札掛け用の馬目木(ウバメガシ)の枝を立て掛けたという。それがいつしか根付き、「元結掛(もっとい)」と呼ばれるようになったその土地には大師堂が築かれた。これが馬目木大師の創建伝説である。

 九島の願成寺は第40番札所観自在寺の奥の院に位置付けられていたのだが、江戸時代初期の寛永8年(1631年)に元結掛の馬目木大師へと移され、また明治時代に入ると宇和島中心部の龍光院に吸収されるように合併し、以降は龍光院が第40番札所の奥の院となっている。複雑な変遷で少々ややこしいが、いわばこの馬目木大師は元奥の院、鯨大師は元々奥の院というワケだ。


元結掛からは、宇和島城の外堀であった神田川に沿って歩く


勧進橋(かんじんばし)を渡るとそこは宇和島城下町だ
武家町であった南側から天守を望む

 宇和島城は、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に西園寺公経(さいおんじきんつね)が築いた丸串城の跡に、築城の名手として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)が築いた平山城である。今でこそ埋め立てにより城の西部にも市街地が広がっているものの、かつて宇和島城は海に面しており、海水を引き込んだ内堀を持つ海城でもあった。

 現在も山頂の本丸には、宇和島藩第二代藩主の伊達宗利(だてむねとし)が寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)にかけて城を改修する際に築いた層塔型三重三階の天守が聳えており、これは全国に十二しか存在しない現存天守のひとつとして貴重な存在である。ちなみに既に通り過ぎた高知城の天守も延享4年(1747年)に築かれた江戸時代からの現存天守であるが、遍路道から外れていることからスルーさせていただいた。

 ふと時間を確認するとまだ正午前。先日の宿毛では台風によってやむを得ずビジネスホテルに宿泊したが、そのアクシデントがなければ次は宇和島で宿を取るつもりであった。しかし、遍路道的に宇和島は中途半端な位置にあるものである。この街に宿を取ってしまっていたら、随分と時間を持て余すところであった。結果オーライである。


スーパーで昼食を購入してから、宇和島城をぐるっと迂回して東に周る

 せっかくなので城山に登ることも考えたのだが、実をいうと宇和島には去年の3月にも訪れている。その時は遊子(ゆす)水荷浦(みずがうら)の段畑を見に行ったのだが、ついでに宇和島城にも立ち寄っていたのだ。今日はできるだけ先に進みたいという思いもあり、今回はパスということで良いだろう。

 宇和島城の東側はかつての町人地であるが、城下町時代の名残りは薄い。なぜなら第二次世界大戦末期の空襲により、宇和島の中心部は焼け野原と化したからだ。幸いにも天守こそ無事であったものの、麓にあった大手門は城下町と共に焼失し、現在は石垣もろとも跡形もなくなっている。宇和島城の大手門は非常に巨大かつ立派な櫓門で、「十万石に過ぎた門」と言われていたのだそうだ。かつては遍路たちもその威容に足を止めていただろうに、残念で残念で仕方がない。

 アーケードのある商店街を横切り、神田川と共に宇和島城の外堀を担っていた辰野川を渡る。その突き当りに鎮座するのが、先ほどの馬目木大師から第四十番札所の奥の院を引き継いだ「龍光院」である。


石段を上った、市街地を見渡せる高台に境内を構えている


本堂でお参りを済ませてから、境内を散策する

 龍光院は正式には「臨海山福寿密寺龍光院」と号し、伊達政宗の長男である伊達秀宗(だてひでむね)が宇和島藩の初代藩主として入封した元和元年(1615年)、宇和島城の鬼門(北東)にあたる位置に築いた鬼門封じの寺である。

 江戸時代の創建なので他の四国遍路の霊場と比べたら歴史がやや浅いものの、弘法大師創建の願成寺を吸収した経緯もあってか、昭和43年に創設された四国別格二十霊場の第6番札所に定められている。以前に立ち寄った徳島県海陽町の鯖大師は第4番札所だったので、図らずともこれで私は二箇所の別格霊場に参拝したことになる。私の目的はあくまでも四国八十八箇所霊場なので別格霊場は対象外とするつもりであったが、遍路道沿いにあるのならば話は別だ。こうした寄り道もまた一興だろう。


予讃線の線路を横切り、宇和島城下を後にする


鮮魚店の店先で干物作りの様子を眺めながら住宅街を行く

 正午を周り、そろそろ昼食にしたいのだが、まだまだ市街地が続いているが故に腰を下ろせるような場所が見当たらない。空き腹を抱えながらしばらく歩いていくと、団地に付属する小さな児童公園を発見した。幸いにも遊ぶ子供はいなかったので、その小さなベンチで昼食休憩とさせて頂いた。

 ブリの照り焼き弁当を平らげて腹が膨れ、人心地ついたところで再度歩行を進める。住宅街を突っ切ったところで遍路道は県道57号線と合流し、そこからはひたすら歩道を歩くこととなった。


どうやら県道57号線は山の方へと続いているようだ


途中のバス停に闘牛の番付が張り出されていた

 そういえば宇和島は闘牛で有名だった。ここで言う闘牛はスペインのような人と牛が戦う闘牛とは違い、牛と牛が角を突き合わせてぶつかり合う、いわば牛相撲というべき競技である。かつては「突き合い」などと呼ばれていたそうだ。

 その起源は、鎌倉時代に農耕用の強い牛を作る為に角の突き合わせをしたのが始まりという説と、江戸時代の17世紀後半に宇和海を漂流していたオランダ船を救助したお礼に2頭の牛が贈られたのだが、その際にたまたま格闘しだしたことに始まるという説がある。いずれにせよ、少なくとも江戸時代後期の享和年間(1801〜1804年)には本格的な土俵を設けた闘牛が行われた記録が残っており、また幕末の安政3年(1856年)には興業化された闘牛の熱狂ぶりが郡奉行が代官へ宛てた文書に記されている。闘牛の隆盛は大正時代から昭和初期にかけてピークを迎え、宇和島近郊の村々には必ず闘牛場が設けられ、農閑期やお祭りの際に庶民の娯楽として開催されていた。

 第二次世界大戦後は農耕機械の導入や急激な都市化、レジャーの多様化などにより闘牛は衰退するものの、間もなく再興の機運が高まり昭和34年(1959年)に宇和島闘牛振興委員が発足。昭和50年(1975年)には龍光院の裏手に位置する丘の頂上に宇和島市営の闘牛場が完成し、現在も年5回の闘牛大会が開催されている。日程が限られているので遍路の最中だと見学は難しいが、大牛の巨躯がぶつかり合う光景は迫力満点とのことで、機会があったら見てみたいものである。


進むに連れて山が深まり、川に沿って石積みの棚田が連なる

 見事な棚田や素朴な集落の景観はなかなかのものであるが、県道57号線はごく普通の車道なので遍路道として単調であることは否めない。またすぐ側を松山自動車道が通っているので高架橋などの巨大な人工物が目立ち、山間部ならではののんびりとした雰囲気が散逸してしまっている。緩やかに続く上り坂をひたすら歩いているうちに、延々と続く車道にだるさを感じてくる。舗装の固さに足も痛むので、時折休みを入れつつ騙し騙し進んでいく。

 途中には遍路小屋があったものの、車道に近く、またトイレや水場などもないので宿泊地としては不適当だろう。万が一この先に野宿できそうな場所がなかった時の保険の為、一応その存在を心に留めておく。

 山道に入ってから約40分。ようやく坂道を上り切ったと思いきや、突如として視界が開けて広々とした土地に出た。三間(みま)町に入ったのである。


道路の整備中であったが、第41番札所への道標は残されていた


道標に従い、水田を真っ直ぐに貫く舗装路を行く

 旧三間町は四万十川の支流のひとつである三間川が作り出した三間盆地に広がっており、山間部ながら肥沃な土地が広がることから、古くより良米が取れる穀倉地帯として知られていた。

 戦国時代には土居清良(どいきよよし)がこの地を治めており、兵数は少数ではありながら全員に鉄砲を持たせていたとのことで、土佐から侵攻してきた長宗我部元親の軍勢をも撃退している。また清良は農業の発展にも力を注ぎ、その一代記である『清良記(せいりょうき)』は農業に関した問答も記されていることから日本最古の農書とも言われている。

 遍路道沿いに広がる水田は不定形なものが多く、定規で引かれたかのような直線的な道路と対照的だ。遠くには泥付きの雑草を使って水路の取水口を塞ぐおばちゃんの姿も見られ、素朴ながらも微笑ましくなる光景である。


道なりに進み、戸雁(とがけ)集落で石造の鳥居が出迎えてくれた


第41番札所の龍光寺に到着である

 第40番札所から約50km、丸二日の道のりであった。なんとか今日中にたどり着けたことに安堵し、疲れた体に鞭を打って石段を上っていく。

 参道の入口に鳥居があることから分かる通り、龍光寺は元々神仏習合の霊場であった。創建伝説によると、かつて空海が三間を訪れた際に稲束を背負った白髪の老人が現れ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と述べて消え去った。空海はその老人こそ五穀大明神の化身であると悟り、稲荷明神像を刻んで堂宇に安置したという。同時に本地仏(神の本来の姿である仏)として十一面観世音菩薩と脇侍の不動明王、毘沙門天を刻み、「稲荷山龍光寺」と号し四国霊場の総鎮守として創建されたとされる。

 以降、龍光寺は「三間の稲荷」として知られ、信仰を集めてきた。昨日通った柏坂の道標に「四十番 いなり寺」と刻まれていたのはその為である。ちなみに元々は稲荷田と呼ばれる平地に位置していたのだが、火災を被ったことから元禄元年(1688年)に現在地へ遷されたそうだ。その後、明治維新を迎えると神仏分離令により仏教と神道が分離されることとなり、それまでの本堂は「稲荷神社」と改められ、新たに仏堂が建立された。これが現在の龍光寺の本堂である。ちなみに宇和島の龍光院とは名前こそ似てはいるが、関係は特にないようだ。


現在の本堂の一段高いところに位置する稲荷神社
こちらがかつての本堂であった


鞘堂に覆われている本殿は18世紀前期の建立と推定されている

 四国遍路を始めてから、これまで私は神仏分離令の影響を受けた霊場を数多く見てきた。特に明治新政府の一角を担っていた土佐の廃仏毀釈運動はすさまじく、大部分の霊場が一時的に廃寺となったくらいである。そのような時代の流れにおいて、この龍光寺は同一の境内に仏堂と神社が並存している珍しい例である。当時、三間は宇和島藩の支藩である伊予吉田藩の領土であったが、宇和島藩は佐幕派だったこともあり、あまり極端な廃仏毀釈運動が起きなかったのだろう。神仏習合時代の面影を今に残す、稀有な四国霊場だと言える。

 龍光寺と稲荷神社の両方でお参りを済ませ、納経所で朱印を受け取る。次なる第42番札所佛木寺まではたかだか2.6km程度ではあるものの、時間は既に16時を回っており、納経所が閉まる17時までに辿り着けるかは微妙なところである。地図を見ると、龍光寺から山を越えた県道31号線の南側に道の駅があるようなので、今日はそこまでで終わりとしよう。


龍光寺の墓地から裏山へと入る


短い距離ではあるものの、昔ながらの雰囲気が残る遍路道だ

 地図から想像していたよりもだいぶ険しく、なかなかに本格的な山道である。途上には遍路墓や石仏も残されており、昔から遍路たちが利用してきた道であることが分かる。尾根を上って下る、ゆっくり歩いても10分足らずの短い遍路道ではあるものの、極めて良好な状態で現存することから、平成28年(2016年)には「伊予遍路道 仏木寺道」として450mの範囲が国の史跡に指定された。


谷筋を下り、ブドウ畑の横から県道31号線に出る


1kmほど南へ戻り、三間の道の駅に到着だ。今日はここまで!

 この道の駅が素晴らしいくらいに野宿に適した施設であった。トイレや水道があるのはもちろんのこと、屋根の庇が大きく張り出していて軒が深く、雨をしのぐことができるようになっている。木製のテーブルやベンチまで据えられおり、実におあつらえ向きだ。平日だからか人の数も少なく、満場一致で今日の野営地に決定である。

 とりあえず日が暮れるまでベンチに座ってぼーっとしていると、突然「木村さんですか?」と声を掛けられた。なんと、Twitterで私の現在地を知ったフォロワーの方がわざわざバイクで駆けつけて下さったのである。それだけでも十分感激なのだが、この付近のことやこれからのことなど、たくさんの情報を教えていただき恐悦至極である。


さらに、こんなにたくさんの差し入れまで頂いてしまった

 お接待として有難く頂戴した差し入れの中身を見て驚いた。私が柑橘類や甘いモノが好きなのをご存じだったのか、南予で盛んに作られている河内晩柑をはじめ、津島の喜助餅、宇和島の唐まん、大洲の志ぐれなどの地元の銘菓、それにたくさんのシップ薬である。いずれも私がほしいモノばかりで、これ以上ないくらいに嬉しいサプライズプレゼントであった。

 日が落ち、人が完全にいなくなったのを見計らってからテントを張る。今日の夕食は宇和島のスーパーで買っておいたアナゴ太巻きと、道の駅の自販機で買ったポンジュースである。さすがは柑橘類の本場なだけあって、愛媛県では自販機でもポンジュースが買えるのだ。

 デザートには先ほど頂いた河内晩柑を頂いた。甘夏に似てるものの苦みが少なく、爽やかな甘みが疲れた体に浸透する。人の温かな心遣いが感じられる、恵まれた遍路の日々に改めて感謝をしつつ、実に心地良い眠りの夜となった。