遍路35日目:道の駅 みま〜西予市宇和町信里(25.6km)






 今日もまた、明け方にかなり強い雨が降った。屋根のある場所で幕営できた幸せを噛み締めつつ、シュラフを丸めてテントをたたむ。この道の駅は国道に面していないので夜は車がほとんど通らず、実に快適な睡眠を取ることができた。かなりオススメの野宿スポットであるが、ただ私が遍路をした翌年の平成24年(2012年)には松山自動車道が宇和島まで開通したとのことで、現在は車の通りが増えているかもしれない。

 三間は標高150m前後の盆地である為か、辺りにはうっすらと霧がかかっている。なんとも幻想的な田園風景をバックに、私は県道31号線を北に向かって歩き出した。


6時過ぎに道の駅を出発し、真っ直ぐ続く県道を行く


30分程進んだところで右手に寺院が見えた
早くも第42番札所の仏木寺に到着である


境内の入口には真新しい楼門が構えられていた

 素木の色合いが美しく、初々しさが感じられる楼門である。なんでも、大正8年(1919年)に建てられた楼門が老朽化で倒壊しかかっていた為に去年から建て替えが行われていたとのことだ。わずか5日前の5月28日に落成したとのことで、まさに完成したてホヤホヤの楼門なのである。写真で見る以前の楼門は下層が低くずんぐりむっくりとした感じだが、新しいものはすらっとスマートで垢抜けた印象だ。これから時が経つにつれて渋味が増し、四国八十八箇所霊場にふさわしい貫録が出てくることだろう。

 ただ完成したばかりすぎて通行はまだできないようなので、楼門をくぐらず横の路地から境内へと入った。城郭を思わせる高い石垣で整地されたコンパクトな境内に、本堂や大師堂などといった諸堂が建ち並んでいる。


まだ7時前ということもあり、境内には私一人しかいなかった

 中世に尊円親王が記した『仏木寺記録』によると、大同2年(807年)に弘法大師空海がこの地を巡錫した際、牛を牽く老人と出会った。老人に勧められるがままに牛の背に乗って進んでいくと、ふと楠の梢に宝珠が引っかかっているのを発見したという。それは空海が唐から帰国する時に、有縁の地が選ばれるようにと三鈷杵と共に東へ投げた宝珠であった。ここが霊地であると感得した空海は、宝珠が引っかかっていた楠を使って大日如来像を刻み、眉間に宝珠を埋め込んで本尊とし、仏木寺を開山したという。

 空海が唐から投げたモノを起源とする四国霊場は、第36番札所青龍寺、第38番札所金剛福寺、そして今回で三箇所目だ。ヨクアル創建伝説はともかく、仏木寺は昔から「お大日さん」と称され、牛馬の守り神として信仰を集めてきた。鎌倉時代には宇和郡に勢力を有した西園寺氏の菩提寺として栄え、また江戸時代には宇和島藩の支藩である伊予吉田藩の庇護を受けており、現在の本堂は享保13年(1728年)に第5第吉田藩主の伊達村賢(だてむらやす)の寄進によって建てられたとされる。また茅葺屋根の鐘楼は元禄年間(1688〜1704年)の建立とされ、なかなかに古い建物が残っている。

 誰一人としていない朝一番の境内は静謐で趣き深い。お参りを丁寧に済ませ、開いたばかりの納経所で朱印を貰う。今日はできれば大洲市内まで進みたいと考えているので、ここからまだ30km以上の距離を歩かねばならない。なかなかに長い道のりではあるが、張り切って行こうじゃないか。まず目指すは三間盆地から歯長峠を越えたその先、宇和盆地に鎮座する第43番札所明石寺(めいせきじ)だ。その距離、およそ10km。


仏木寺から三間川沿いの農道を行く


ため池に沿った車道に、遍路を意識した看板が立っていた
歩き遍路にとって車は恐怖の象徴なだけに、嬉しい心遣いである


ため池を通り過ぎると、いよいよ山へと入る

 登山口には明治36年(1903年)の銘がある古い道標が据えられており、期待感が煽られる。この歯長峠もまた、なかなかに雰囲気が良さそうではないか。

 愛媛県に入ってからというものの、毎日こうした未舗装の遍路道を歩くことができている。古道を歩くために遍路をやっているといっても過言ではない私にとって、これは何より嬉しいご褒美だ。


石畳が敷かれているが、継ぎ目が粗く、古いモノかは定かではない

 デコボコかつ濡れた石畳に足を取られないよう慎重に足を進める。朝靄は完全に晴れ、時折日の光も差し込んできた。うむ、期待通りの良い道ではないか。……と、この時は思っていた。


ゆっくり歩いて30分弱で県道31号線と合流する
そのまま道なりに進み、再び山道へと入ったのだが……


そこからが、とんでもない傾斜の上り坂であった

 ここが本当にキツい急坂であった。一応鎖が設けられてはいるものの、まるで壁のような急傾斜なので全身を使って登らなければならない。ヒーヒーと声にならない声を上げながら、必死になって木々の根っこにしがみつつ、なんとか登り切ることができた。しかし全身ヘロヘロ、脚はガクガク、汗ダルダル、まだ朝なのにも関わらず、満身創痍の状態に成り果ててしまった。

 この歯長峠は宇和から三間を経由して宇和島に至る唯一の道であり、昭和の初期までは大勢の人々で賑わっていたという。こんな物凄い坂道を行き来するとは、昔の人々はなんてタフなんだ! と思ったが、改めて国土地理院の地図を確認すると、旧街道は現在の遍路道よりも傾斜の緩いルートを辿っていることが分かる。おそらく旧街道は荒れ果てて道筋が失われ、遍路道として復興された際に現在のルートに付け替えられたのではないかと思う。

 まぁ、ともかく、急坂エリアを乗り越えさえすれば、かつての街道に重なるのであろう等高線沿いの道となる。先ほどの鎖場の死闘が嘘のような、歩きやすくて平和な山道だ。


先ほどの急坂はともかく、この平坦な道は昔ながらの古道のはずだ


登山口から一時間強で歯長峠に到着した

 峠へと上がる最後の坂道は石積で整備されており、また峠には広々とした平地が広がっているなど、かつては茶屋などの建物が存在したことが偲ばれる。往時は街道の休憩所として数多くの人々で賑わっていたのだろうが、現在の歯長峠にはコンクリートブロックで築かれた小さな祠と送電鉄塔が聳えるだけだ。

 ちなみにこの祠の内部には弘法大師と六地蔵の石像が安置されており、「送迎庵見送大師」として第42番札所仏木寺の奥の院となっている。かつてこの場所には歯長寺が存在していたのだが、昭和35年(1960年)に火事で失われてしまった。その後の昭和42年(1967年)に現在のお祠が建てられたという。

 またこの峠には、平安時代末期の武将である足利忠綱(あしかがただつな)の伝説が伝えられている。忠綱は源氏の出自でありながら平氏方に付いた人物で、宇治川の戦いで先陣を切るなど武功を立てた。しかし源氏に敗走し、この地に流れ着いたという。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』では忠綱を末代無双の勇士と評し、「一人にして百人力、声は十里四方にも響き、その歯の長さは一寸にもなる」と記している。そのような身体的特徴から歯長又太郎とも称され、その忠綱が庵を結んだことから歯長峠と呼ばれるようになったのだとか。

 そのような逸話が残る峠も、人がいない今では閑散とした印象だ。とりあえず祠の近くに立っていた造林記念碑の基壇に腰を下ろし休憩する。峠とはいえ視界は開けておらず、何を見るでもなくただボーっとして時間を潰す。20分程そうしていたのだが峠に上ってくる人はおらず、私はより際立った寂寥感に追いやられる形で歯長峠を後にすることとなった。


峠を越えたら後は下るだけだ
途中で未舗装の林道を横切りつつ、一気に坂道を降りていく


峠から45分程で宇和盆地の南東端に出た

 次なる札所の明石寺は宇和盆地の中央部に位置している。残りの距離は5km程なので、ようやく折り返し地点といったところだろうか。もっとも、ここからは平地だけのようなので、歯長峠よりはずっと楽な道のりなのだろうが。

 未舗装路から県道31号線に出て少し進むと、右手に小さなお堂がたたずんでいた。遍路地図には「歯長地蔵」と記されている。その傍らには、かつて遍路道沿いにあったものを集めたのだろうか、いくつかの遍路墓も並べられていた。


なぜか赤いコンクリで整備されている歯長地蔵

 また地蔵堂の隣には、テーブル付きのベンチと東屋が備えられていた。トイレがないので宿泊地としては微妙だが、峠を越えた後に一息入れる休憩所としては最適だ。目の前にある自販機でコーラを買い、乾いた喉を潤しながら少しばかり足を休ませる。現在時刻は10時半、この調子なら昼前には明石寺に到着するだろう。さらに夕方まで歩き通せば、大洲まで辿り着くことも可能だろうか。


肘川を渡り、その川沿いを通る県道29号線を北西へと進む


相変わらず、南予地方の石積みはレベルが高い


程なくして「導引大師」なるお堂に差し掛かった

 先ほどの歯長地蔵と同じくらいに小さなお堂であるが、願を掛けると導いて助けてくれるとのことで、昔から地元の人々に篤く信奉されているようだ。堂内で宿泊も可能だというが、体を横たえるにはさすがに狭く、よほど小柄な人でないとキツそうである。


道沿いに残るレトロな雰囲気を味わいながら、宇和盆地の中央へ進む

 遍路道沿いには農家がまばらに並んでおり、昭和中期を思わせる懐かしさが漂っている。戦前にまで遡るような歴史あるたたずまいとはまた違うが、おばあちゃん家を思わせるような、どこか親しみのある空気感だ。

 道標に従いつつ路地を進み、松山自動車道のトンネルを抜けて西予宇和インターチェンジの北に出る。第43番札所までもうあと少し。足腰に感じる疲労を振り払いつつ水田沿いの集落を歩いていくと、いささか奇妙な植え込みがあった。


ウサギなのだろうが、しょぼくれた負のオーラを放っている

 刈り込まれた当初はおめ目パッチリのかわいらしいウサギだったのかもしれないが、枝葉が伸びたことでこのような溶けたスライムのような悲しげな表情になったのだろう。何とも気の抜ける感じの見た目であるが、それが逆に微笑ましくもある。

 不思議な表情の植え込みに見送られながら集落を抜けていくと、こんもりと木々が茂った一角があった。石垣で整地された敷地の中に、小さな石造の社が鎮座している。


巨石を祀る「白王権現」とのことである

 近世に編纂された『宇和旧記』によると、18、19ぐらいの若い娘が大きな石を軽々と両脇に担いで歩いていた。この地に差し掛かったところで夜が明け、すると娘は石を置いたまま去っていった。人々はその娘を千手観音菩薩の化身であろうと考え、娘が担いでいた石を白王権現として崇め、祠を祀ったという。

 この先にある第43番札所の明石寺は今でこそ「めいせきじ」という名であるが、かつては「あげいしじ」と称されており、現在も地元では「あけしさん」などと呼ばれている。これは「上げ石」が転訛したものであるとされ、すなわちこの白王権現は明石寺の起源であることから、明石寺の奥の院に位置付けられている。

 札所に参拝するより前に奥の院を訪れたことになってしまったが、まぁ、奥の院の方が手前にあるのだからしょうがない。むしろ先に創建にまつわる霊場へ立ち寄れたのは、札所の歴史を理解する上で良かったのではないかと思う。


白王権現から細い路地をさらに進むと――


左手に明石寺の入口である鳥居が聳えていた


緩やかな坂道を進み、石段を上ったところに本堂が建つ

 寺伝によると、明石寺の創建は古墳時代の6世紀前半にまで遡るという。日本最古の本格的な仏教寺院である飛鳥寺(法興寺)よりも古くなってしまうが、まぁ、それはさておき、なんでも欽明天皇の勅願を受けた円手院正澄なる行者が、唐からの渡来仏である千手観音菩薩像を祀るべく、乙女に化身した千手観音菩薩が篭った霊地とされる(先ほどの白王権現の伝説だ)この地に七堂伽藍を建立して開山したという。その後、奈良時代の天平6年(734年)に寿元という行者が熊野から十二社権現を勧請し、修験道の中心道場として存続していった。

 平安時代になると荒廃していたものの、弘仁13年(822年)に当地を訪れた弘法大師空海が嵯峨天皇に奏上して復興。鎌倉時代にもまた荒廃したが、建久5年(1194年)に源頼朝が再興したとのことだ。その後も武士の崇敬を集め、室町時代には宇和郡の領主であった西園寺家、江戸時代には宇和島藩主である伊達家の祈願所となり、最盛期には70もの末寺を有する大寺院となった。

 入口に鳥居が聳えることからも分かる通り、明石寺もまたかつて神仏習合の霊場であった。現在もその境内には、熊野十二社権現を祀る熊野神社が祀られている。明石寺に現存する建造物は、幕末に建てられた鐘楼堂を除き、そのほとんどが明治時代に建てられたものだ。近代の建築ではあるものの、伝統的な意匠かつ向背などに緻密な彫刻が施されており、全部で9件の建物と石段などが国の有形文化財に登録されている。


熊野神社の社殿も他の堂宇と同様、明治時代の再建である

 明石寺からの遍路道は、この熊野神社の脇から山を越えて南の卯之町へと抜ける。昨日の龍光寺の裏山に残る遍路道が短いながらも昔ながらの風情を残していただけに、この明石寺の遍路道も密かに期待していたのだ。


未舗装の山道ではあるのだが、整備の手が入ってる印象だ


途中には無縁塚や四国八十八箇所霊場の写し霊場が祀られていた

 龍光寺からの遍路道と同様、こちらもまた峠を上って下る15分足らずの短い道である。卯之町と明石寺を繋ぐ遊歩道として遍路以外の利用も想定されているのか、山道にはあまり似つかわしくない手すりが設置されていた。深い切通しの峠を越えて下っていくと、おそらく後世に拡張されたのだろう、道幅がグッと広くなる。そのまま道なりに進むと舗装路に変化し、峠道は終わりとなった。

 手すりや道幅の拡張など気になる点がなくもないが、大部分は昔ながらの古道がそのまま残っているのだろうと思う。決して悪くはない、悪くはないのだが、これまで国の史跡に指定されてきた遍路道と比べると、現代の影響が感じられる印象だ。

 ちょっと期待しすぎていたのかもしれないなぁと考えながら車道をてくてくと下っていくと、程なくして卯之町に辿り着いた。見覚えのある懐かしい町並みに、思わず感嘆の声が上がる。この卯之町は、去年の3月に愛媛県を旅行した際に訪れた場所のひとつである。


昔ながらの町家が数多く残る卯之町の町並み

 宇和盆地の中心に位置する卯之町は、室町時代の永和2年(1376年)に西園寺氏が築いた松葉城の城下町を起源とし、江戸時代には周辺集落からの物資が集散する、文字通り宇和盆地の中心として栄えた在郷町だ。現在も旧宇和島街道に沿って江戸時代末期から明治時代の町家が数多く現存しており、平成21年(2009年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。白い漆喰とこげ茶色の板張りのコントラストが美しい町並みである。

 明石寺を出て以降、腹の虫がやけになると思いきや既に13時を過ぎていた。とりあえず昼食を購入すべく、国道56号線沿いのスーパーへと駆け込む。腹を満たして一息入れていると、ふとTwitterにメッセージが入っていることに気が付いた。昨日、三間の道の駅にお越しくださったフォロワーさんからである。なんでも、明石寺へ続く県道でギターを背負ったフランス人二人組を目撃したとのことである。なんと! 愛媛県に入った直後の一本松で再会して以来顔を合わせていなかった彼らであるが、そんな近いところにいたとは。


とりあえず、卯之町へと戻った


白壁に囲まれた風情ある小路を上がっていくと――


卯之町のシンボル、開明学校がたたずんでいる
明治15年(1882年)に築かれた擬洋風建築で、重要文化財だ

 卯之町には去年来たばかりなので今回はスルーしようかと思っていたのだが、町並みを眺めているうちに自然とカメラが向いてしまい、思わぬ長居となってしまった。ポングたち二人が明石寺の遍路道を越えて卯之町に入ってくるという期待もなくはなかったのだが、残念ながら15時半を過ぎても彼らがやってくることはなかったので、先へと進むことにした。私が昼食休憩を取っているうちに、既に通り過ぎて行ったのかもしれないし。


卯之町の北側には、松葉城跡への登山口があった

 宇和郡の領主であった西園寺氏が築いた松葉城。かなり気にはなったものの、中世の山城であるが故に本丸まで約1kmの山道を登らなければならない。さすがにもうそのような時間的余裕はなく、残念ながら諦めざるを得なかった。

 当初の目標であった大洲まではまだ20kmもの距離がある。しかも宇和盆地から鳥坂峠を越えて大洲盆地に入る必要があり、もはや今日中に辿り着くのは絶望的だろう。現在時刻を鑑みるに、せいぜい日没までに峠道の入口に辿り着くのが関の山か。それまでに寝床を確保しなければならないが、大洲まで宿泊地のアテは全くない。テントを張れそうな場所を探しつつ、遍路道を進んでいく。


道中に遍路小屋があったが、市街地すぎて宿泊は不可能だ
自家栽培らしき晩柑が置かれていたので、納め札と引き換えに頂いた


旧街道沿いにはどこまでも集落が続いている

 卯之町から大洲までの遍路道は、かつての宇和島街道を通っていく。昨日野営した三間盆地は集落が比較的まとまって存在していたのに対し、こちらの宇和盆地は物流の動脈であった宇和島街道が通っていただけあって、旧街道に沿って古いたたずまいの集落が途切れることなく続いている。

 まさしく旧街道という雰囲気で良いのだが、いかんせん、寝床探しとなると話は別だ。このまま集落が続くようであれば宿泊地が確保できず、鳥坂峠の山の中で寝ることになってしまう。それは最終手段として取っておきたいものだ。


西日を受けて黄金色に輝く麦畑が印象的だった

 結局、幕営に適した場所を見つけられないまま17時を回り、太陽も西の山の奥へと沈んでいった。宇和盆地の北端付近に差し掛かりつつあり、もう少し進んだら遍路道は峠道に入ることだろう。

 どうしたものかと遍路地図とにらめっこをしていると、この先の信里という集落に関地池という大きな溜池があることに気が付いた。谷間の少し奥まったところに位置しており、湖畔に公園でもあればテントを張れそうなものだ。微かな希望を胸に、信里集落を目指す。


石積の棚田の奥に、アースダムの堤体が見えた

 溜池とはいえ、実際に目にした関地池の堤体は地図で見る以上に大きく立派だ。付近には家屋が散在するものの、堤体を上がれば集落からは死角となるだろう。おぉ、これは実に良い感じではないか? くたびれた脚に力が入り、意気揚々と溜池の上部へ上がっていく。


関地池の湖畔には公園などはなく、ゴルフ練習場があるのみだった

 あらら、これはハズレだったか。いや、しかし、堤体の横には比較的新しい公衆トイレが設けられており、水も使うことができる。後はテントを張れるスペースさえあれば何とかなりそうなのだが……。

 辺りを見渡してみると、堤体の下にゲートボール場らしい広場が見えた。おぉ、あそこなら、テントを張れそうな感じではないか。ただ贅沢を言わせて貰うと、昨日今日と明け方に雨が降っただけに、できれば屋根のある場所に幕営したい。

 おあつらえ向きに、そのゲートボール場の片隅には倉庫兼休憩所として使われているらしい建物が併設されていた。しかも左端の窓と床が取り払われており、その部分に何とかテントを張ることもできそうだ。


というワケで、無理やりテントを張らせていただいた

 他に適地がないとはいえ小さな集落の公共施設をお借りする形となり、野宿マナー的にもあまり行儀がよろしくない感じである。もし怒られるようなことがあったら、すぐに謝罪して立ち去ることにしよう。それもこれも、今日中に大洲まで行けるだろうとタカを括った己のプランニングの甘さが原因である。

 しかし誰の目にも止まらなかったのか、あるいはお目こぼし頂けたのか、幸いにも朝まで何事もなく建物の庇に守られたテントの中で過ごさせて頂くことができた。