今日はちょっとだけ頑張らなければいけない日だ。予約を入れている松山市内のビジネスホテルまでまだ30km近くの距離があり、なおかつ三坂峠から松山までには第46番札所から第51番札所まで計6箇所もの札所が林立しているのである。これほどまでに札所が多いと、参拝や納経の待ち時間も馬鹿にならない。果たして納経所が閉まる17時までに第51番札所まで辿り着くことができるかどうか、いささか不安である。 そういう事情があるので今日はいつもより早い5時半から歩き始めようと思ったのだが、極めて残念なことに深夜から降り出した雨が今もなおパラついている。しばらく空の様子を伺いつつ、雨弱まったタイミングを待って出発した。 国道33号線(三坂道路が開通したことで2015年に国道33号線の指定が外され、現在は国道440号線の単独区間であるが)を少しだけ迂回するように通る山道であるが、あまりに短すぎて少し拍子抜けしてしまった。 後から調べたところ、この山道は旧土佐街道と重なっておらず(旧土佐街道は国道よりやや西側の、久万川沿いを通っていたようだ)、石仏や遍路墓といった道の来歴を示す物証もない。地元の人々が山や畑に入るために使っていた生活道路かなにかだろうか、なんとも謎な道であるが、国道を迂回するのにちょうど良いことから現代になって遍路道に組み込まれたのだろう。 何はともあれ、改めて国道の歩道を進んでいく。三坂峠に向かう上り坂は比較的緩やかな勾配であるものの、どこまでもだらだらと続くので体力的にも精神的にもよろしくない。古そうな石柱の道標に励まされつつ歩くこと一時間強、ようやく前方の視界が開けて三坂峠に差し掛かった。 車一台がかろうじて通れるかいった未舗装路を進み、数件の家が並ぶ三坂の集落を抜けると、標高約712mの旧三坂峠に差し掛かる。すると道幅は急激に狭まり、徒歩でしか通行できない山道へと変貌した。 かつて三坂峠は見坂峠とも書いていたらしく、その文字通り眺めの良い峠道として知られていたらしい。松山の市街地から瀬戸内の島々まで望むことができ、真念が著した『四国邊路道指南』でもその絶景っぷりが紹介されている。 宇和島を出てから内陸の山道を歩き続けてきた遍路たちが、久方ぶりに海を望むことができる三坂峠。その光景はひときわ深く印象に残ったに違いない。 三坂峠から松山平野へと一気に降りる道なだけあって、その道のりは物凄く急だ。中でも特に急な「鍋割坂」と呼ばれる区間では、雨などによる道の崩壊を防ぐ為の石畳が残る箇所も多く、昔ながらの風情を色濃く残している。 松山から久万高原を経て高知へと至る土佐街道最大の難所として知られていた急坂であるが、明治25年(1892年)に馬車が通れる新道が開通するまでは地域の人々の生活に欠かせない街道であった。「鍋割坂」という坂の名も、行商の金物屋が鍋を石畳に落として割ったことからその名が付いたといわれている。 雨に濡れた石畳は滑りやすそうでいささか怖いものの、時間に余裕がないので飛ばし気味に下っていく。それにしても険しい道なだけあって後の時代の影響がほとんどなく非常に状態の良い古道である。絵になる箇所も多く、ついつい足を止めては写真に興じてしまう。転ぶ危険性を顧みずに急いだというのに、結果的にほとんど時間の短縮にはならなかったという本末転倒っぷりだ。 東屋の休憩所を抜けて舗装路に出たのが午前7時。元治2年(1865年)の銘がある遍路墓や洗(あらい)の観音と呼ばれる小祠、晒し首のようなマネキンヘッドを横目に、ひと気のない棚田を下っていく。 舗装路に出てから30分程で桜という集落に辿り着いたのだが、その一番手前には「坂本屋」という屋号を掲げた古い家屋がたたずんでいた。明治時代末期から大正時代にかけて建てられたかつての遍路宿とのことで、昭和の初期まで道行く遍路の休憩所や宿泊施設として賑わっていたとのことである。 現在は地元ボランティアの方々によって修復され、接待所として活用されているらしい。まだ朝早いこともあり閉まっていたが、三坂峠を下りてきた遍路が一息入れるのにちょうど良い場所である。 旧街道に沿って家屋が建ち並ぶ桜集落を抜け、田畑の中を突っ切るように通る路地を抜ける。それなりに幅の広い車道と合流して道なりに進んでいくと、再び畦道のような細道に入っていった。遍路道は里に下りると単調になりがちであるが、この辺りは細い道を選ぶようにルートが取られている。「あ、次はそこを行くんだ」というような気付きがあってなかなか楽しい。 しばらく歩いていくと、今度は榎(えのき)という集落に差し掛かる。その入口には巨大な岩がどっしりと鎮座しており、何とも言えぬ存在感を放っていた。岩の前には立札が掲げられており「弘法大師の網掛け石」と記されている。 この巨石については次のような弘法大師伝説が語られている。かつて三坂峠には二つの巨石が突出しており、通行の邪魔になっていた。地元の人々はそれを何とか取り除こうと試みたものの、動かすことができない。そこに弘法大師空海が通りがかり、「それなら私が取り除こう」と申し出る。 空海は二つの岩に網を掛け、オウク(担ぎ棒)の両端に吊るして運び出した。しかし大岩はあまりに重く、次第にその岩肌に網の目が食い込んでいく。つまいにはオウクが二つに折れ、巨石の一つは御坂川の底に、もう一つは街道沿いに転げ落ちたそうだ。それがこの「網掛け岩」である。確かに岩の表面には網目のような模様が刻まれており、そのような伝承が生まれても不思議ではない印象だ。 一方で空海が担いでいたオウクは折れた拍子で空高く舞い上がり、山中に突き刺さって大きな窪地になった。そこが現在の久谷町大久保集落であるとのことだ。伝承が地名の由来になってるというのも、歴史ある土地の昔話という感じで風情があるものである。 ゆるゆると続いていた下り坂もこの辺りでようやく終わり、御坂川に架かる出口橋を渡って県道194号線を北西に向かう。周囲はごく普通の住宅街で、道沿いに建つ家屋も新しいものが多い。だが所々には古い家屋も見られ、ここもまた歴史を積み重ねてきたこと道であることが分かる。 雨が再びパラついてきた中、心持ち早足で遍路道を進む。道はやがて右に大きくカーブしたかと思うと、その先に巨大なコンクリート建築が建っていた。戸建てが並ぶ集落にしては不釣り合いなほどに巨大なその建物は、どうやら旅館のようである。 よくよく見ると、その旅館と向かい合うように石垣と築地塀が続いている。なるほど、どうやらここ私が目指していた次の札所らしい。緑の濃い木々が境内からはみ出さんばかりに生い茂っており雰囲気の良さそうな寺院ではあるものの、その門前に聳える旅館の方が偉そうに悪目立ちしているのはいかがなものか。 寺伝によると、和銅元年(708年)に布教のため当地を訪れた行基が仏法修行の道場として堂宇を築いたことに始まり、その後の大同2年(807年)に弘法大師空海が再興したとされる。室町時代末期には伊予を治めていた河野氏の家臣であり荏原(えばら)城主であった平岡道倚(ひらおかみちより)が病気の平癒を祈願。たちまち完治したことに感激し、伽藍の整備を行った。 江戸時代中期の正徳5年(1715年)には火事により堂宇や寺宝を焼失したものの、天明5年(1785年)に地元の庄屋から住職になった堯音(ぎょうおう)が全国行脚で浄財を募り、現在にまで残る堂宇を再建している。 私が浄瑠璃寺に到着したのは9時少し前。門前の旅館に泊まっていた人たちなのだろうか、境内には既にそれなりの数の遍路がいた。今日は急いでいるというのに、納経所で混み合うのはご勘弁頂きたい。手早くお参りと納経を済ませ、次の札所へと向かう。 事前に遍路地図で確認していたので分かっていたことではあるのだが、この辺りの地域は札所間の距離が極端に短い。まぁ、一日で歩ける距離に7箇所もの札所が密集しているのだから必然的にそうなるとはいえ、実際に歩いてみるとあまりの短さにビックリする。 写真を撮りながら歩いても15分足らずなのだから、普通のペースならば10分と掛からないであろう。長い距離を歩いて久万高原へと辿り着いたその直後なだけに、こんなにも楽に次の札所まで到達出来て良いもののかと罪悪感を覚えてしまうくらいだ。 なんでも八坂寺は修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)によって開山され、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を受けた伊予国の国司でえある越智玉興(おちたまこし)が堂宇を整えたとされる。その際に八つの坂を切り開いて築かれたことから八坂寺という寺名になったそうだ。 一時は荒廃したものの弘仁6年(815年)に空海が再興し、その後は紀州から熊野十二社権現を勧請、修験道の根本道場として多大に栄えた。最盛期には境内12坊、末寺84を抱える大寺院であったものの、天正年間(1573〜1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失したことをきっかけに衰退してしまう。 境内は現代的に整備されていて綺麗すぎるきらいがあるが、本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代前期の特徴を持つ秘仏であり50年に一度しか開帳されない。また境内には鎌倉時代中期に築かれた宝篋印塔が現存するなど、その歴史は本物だ。 浄瑠璃寺に続いてこちらも既にかなりの人出なので、手早くお参りをして先を急ぐことにする。次の札所までの距離は4.5km。先ほどの短さを考えると少し遠いように思うが、それでも札所間の距離としては短い方だ。さぁ、張り切って行こうじゃないか。 松山平野に下りてからというものの、随分とあちらこちらで溜池を目にしている。それもそのはず、先ほど私が下ってきた三坂峠は分水嶺であり、久万高原に降る豊富な雨はすべて仁淀川、つまり高知県へと流れていってしまうのだ。故に松山平野を流れる水の量は少なく、農業用水を確保するには溜池を作らざるを得ないのである。 これは松山に限った話ではなく、四国北部の瀬戸内海沿岸地域に共通する悩みの種だ。特に香川県は農地が広いこともあり、弘法大師が造ったとされる満濃池をはじめ、昔から数えきれないくらいの溜池が築かれてきた。 それもこれも四国の分水嶺が北側に偏りすぎているせいであるが、その原因は四国北部を中央構造線が横断しているためだ。穏やかで温暖な気候だが慢性的な渇水に悩まされる瀬戸内海側と、水は豊富だが激しい雨風が吹き付けて時には水害に悩まされる太平洋側、四国はどちらも一長一短である。 この文殊院の境内は、かつて衛門三郎(えもんさぶろう)という人物の邸宅があった場所だという。……ん、衛門三郎? どこかで聞いた覚えがあるような……あぁ! 第12番札所焼山寺から山を下る途中にあった、杖杉庵で亡くなったとされる元祖四国遍路の人か!! 平安時代にあたる天長年間(824年〜834年)の頃、この地の長者であった衛門三郎は托鉢を求めてきた僧侶を手酷く追い返した。すると翌日から八人いた子供たちが一人ずつ怪死してしまう。先日の僧侶が弘法大師だと悟った衛門三郎は、空海の後を追うべく四国巡礼を始める。そして21周目の逆回りの途中、杖杉庵で倒れた際に空海と再会を果たして懺悔をし、空海から「衛門三郎」と記された石を受け取って力尽きた。天長8年(831年)10月のことであったという。 この文殊院はかつて徳盛寺と称されていたそうだが、天長元年(824年)に文殊菩薩に導かれた弘法大師がこの地に逗留。衛門三郎の子供の供養と悪因縁切の修法を行い、文殊院に改めたという。空海が訪れた年と衛門三郎の没年が前後しているようだが、これは衛門三郎が出発した直後に空海が来たということだろうか。だとすると遍路に出なければすぐに会えたことになるが、もっとも衛門三郎が空海を求めて旅立ったからこそ文殊菩薩は空海を導き、また死ぬ間際に空海と再会できたのだろう。神や仏というのは常にいけずなものである。 文殊院を出て県道194号を少し進んだところで、左手に石柱の道標が立っていた。遍路道は道なりに真っ直ぐ進むようだが、左を行けば「八ッ塚」というものがあるらしい。わざわざ案内するくらいなのだから寄ってみる価値があるのだろう。せっかくなので、左に折れてみることにした。 この辺りの丘陵部には古墳が数多く存在するようで、この「八ッ墓」もまたそれらに続く平野部に築かれた古墳群とのことだ。古墳時代末期に築かれたと考えられているが、衛門三郎の邸宅に近いだけに、怪死した八人の子供たちを祀ったものと伝えられている。 それにしても邸宅跡といい子供の墓といい、遍路の序盤で見かけた衛門三郎の名をここで再び目にするとは。杖杉庵でいわれを見たときは半ば伝説的な人物と捉えていたが、こうして現実に存在するものに即して語られると途端に現実味を帯びてくるから不思議なものだ。たとえ古墳の造営時代が違うとはいえ、そのすべてに子供を守護する地蔵尊が祀られているのを見るに、連綿と続いてきた人々の信仰が衛門三郎の伝説に良い意味での生々しさを与えている。 このお堂は衛門三郎が弘法大師を追って旅立った際、まず最初に訪ねた場所だそうだ。しかし既にその姿はなく、衛門三郎は自分がここに立ち寄ったことを空海に伝えるべく、紙片に姓名を記してお堂に貼った。そのことから「札始大師堂」と呼ばれるようになったという。んん? それって四国遍路における「納め札」そのものではないか。なるほど、納め札というものは自分がそこに来たことを弘法大師に伝えるためのものだったのか。 ひとつ目から鱗が落ちたところで休憩することにした。お堂の前に設えられていたベンチに座り、昨日の夜に頂いたお接待の袋を開ける。中には何種類かの柑橘類と共に、松山の老舗製菓店「一六本舗」のお菓子が詰め合わせてあった。 ちょうど小腹が空いてきたところだったのでいくつか摘まんでみたのだが、どこれもこれも美味であった。「一六タルト」は一六本舗を代表するお菓子として名前だけ知っていたが、食べるのはこれが初めてだ。タルトといっても洋菓子のタルトとは全く違い、カステラで餡子を巻いたロールケーキに近い感じ。しっとりと滑らかな口当たりで、ふんわりと優しい甘みが疲れた体に染み渡った。 ねじった見た目が面白い「しょうゆ餅」も気に入った。もちもちとした食感に醤油と生姜の風味が香り、素朴ながらも昔懐かしく滋味を感じる。ズッシリと腹持ちも良さそうで、空き腹の間食にはもってこいだ。 うーむ、頂いたときは既に暗くて手元が見えなかったこともあり、ほとんど中身を確認せずに受け取ってしまったのだが、それが申し訳ないくらいに良い品々である。これはぜひとも品物を見てからお礼が言いたかった。今更ながら、改めて感謝感謝である。 寺伝によると、西林寺の創建は天平13年(741年)。聖武天皇の勅願を受けた行基が、越智玉純(おちたますみ、八坂寺の堂宇を築いた越智玉興の子)と共に開山したとされる。元は北東の徳威という集落に位置していたというが、大同2年(807年)に空海が訪れて現在地に境内を遷したそうだ。 江戸時代の寛永年間(1624〜1645年)には火災が発生して焼失したものの、元禄13年(1700年)から伊予松山藩によって順次再建がなされていった。宝永4年(1707年)には本堂と鐘楼堂が建てられ、天保14年(1843年)には仁王門が建立されている。大師堂もまた文化10年(1813年)に建てられたものの、現存するものは平成20年(2008年)の再建だ。 ちなみに西林寺の南西には「杖ノ淵(じょうのふち)」という池が存在する。空海が西林寺を再興した際に水不足に苦しむ村人たちを見て、杖を突いて湧き出させたという、いわゆる弘法大師加持水伝説の池である。 西林寺でお参りと納経を済ませるとちょうど12時になったので、この杖ノ淵で昼食とした。三坂峠から浄瑠璃寺まではかなり良いペースだったのに対し、西林寺までの道のりには文殊院や札始大師堂など寄り道していたこともありスローダウンしてしまっている。少し急ぎ目にいかないとマズいかもしれない。 三坂峠からこれまでの遍路道は田畑の中に点在する集落を渡り歩いていた感じなのに対し、西林寺からは完全に住宅街の中の車道となった。それだけ松山市の中心部に近付きつつあるということなのだろうが、目に入る風景が画一的なので歩いていて面白くない。いや面白い道だとそれはそれで時間が掛かってしまうので困りものだが……なんとも悩ましい遍路のジレンマである。 昼を過ぎ、気温が上がってきた。レインウェアが非常に蒸れるので脱いでしまいたいところであるが、雨が降ったり止んだりと不安定な天気なのでザックにしまうわけにもいかない。不快感を我慢しながら3.2kmを約50分で歩き通し、次なる第49番札所の浄土寺に到着した。 浄土寺の創建は天平勝宝年間(749年〜757年)、孝謙天皇の勅願を受けた恵明(えいみょう)という僧侶によって開かれたとされる。当初は奈良仏教の法相宗であったが、天徳年間(957年〜961年)に空海が逗留し、伽藍を再興した際に真言宗に改められた。 鎌倉時代の建久3年(1192年)には源頼朝が一族の繁栄を祈願して堂宇を修復したものの、室町時代の応永23年(1416年)に兵火に掛かって焼失。間もなく伊予国の領主であった河野通宣(こうのみちのぶ)によって再興された。 本堂は室町時代のものが現存しており、重要文化財に指定されている。日本古来の和様と大陸由来の禅宗様を織り交ぜた折衷様で、シンプルな見た目ながらも重厚感のある仏堂だ。堂内に鎮座する厨子には室町時代から江戸時代にかけての遍路による落書きが残っており、遍路の歴史を物語る貴重な史料となっている。 それにしても、こうも札所が連続していると参拝がオートメーション的というか、流れ作業な感じになってしまっている気がする。せっかくだし、できるだけ一ヶ寺一ヶ寺丁寧に見ていきたいところであるが、今日の宿泊地が決まっている以上先を急ぐ必要がある。これもまた、なんとももどかしい遍路のジレンマだ。 繁多寺は天平勝宝年間(749年〜757年)に孝謙天皇の勅願を受けた行基が開いたとされる。元は光明寺という寺名であったが、弘仁年間(810年〜824年)に空海が訪れて繁多寺に改めた。一時は荒廃していたものの、伊予守の源頼義(みなもとのよりよし)によって再興されている。江戸時代には徳川家の庇護を受けて境内66坊、末寺100余り、広大な寺域を持つ大寺院となったものの、明治維新の廃仏毀釈によって寺域を十分の一まで削減された。 繁多寺の境内は眺めの良い山の中腹に位置しており、松山の市街地を見渡せる素晴らしいロケーションである。ただやはり廃仏毀釈の影響なのか、境内の広さの割に建物の数や規模が小さく、どことなくガランとした印象だ。今日周ってきた松山平野の札所は、どこも境内がコンパクトにまとまっていただけに余計にそう思えたのかもしれない。 やけに余白が多く感じられる境内に一抹の寂寥感を覚えつつ、少し強めの雨が降ってきたので早々に参拝を終えて繁多寺を後にした。 次に向かうはいよいよ本日最後の札所である。その距離は2.8km。現在時刻は15時を回ったところなので、これはもう17時までの到着も余裕であろう。一時は間に合うか怪しい感じだったのに、急いだ甲斐があったのか、今ではむしろ早く着きすぎるくらいだ。 これならば、もう一箇所くらいの寄り道をしても問題ないだろう。ちょうど繁多寺から近いところに立ち寄りたい施設があったのだ。というのも、昨夜のお接待で頂いた袋の中に、このようなものがひっそり仕込まれていたのである。 このチケットを見た時は、なんて粋な計らいなのだろうと思った。温泉の接待など全く思ってもみなかった発想であるし、また施設の立地も完璧である。松山平野の札所ラッシュを終える目途が立ち、松山市の中心部へ入ろうというこのタイミングで汗を流せるのだ。これほど嬉しいことはない。 館内も清潔かつ広々としていてリラックスすることができ、少しだけ硫黄の香るアルカリ性のお湯で体の芯まで温まった。いやはや、さすがは松山在住の方なだけあって、良い温泉をご存じなものである。 心身共にリフレッシュしたところで歩行再開だ。いつの間にか雨が少し強くなってきているようだが、まぁ、温泉で火照った体にはちょうど良い。 石手寺の歴史は、神亀5年(728年)に越智玉純が霊夢を見てこの地が霊地であると感得し、熊野十二社権現を祀ったことに始まる。その後に聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来像を刻んで本堂に安置した。元は安養寺という名で法相宗の寺院であったものの、弘仁4年(813年)に空海が訪れ真言宗に改めた。……とまぁ、これまでの松山平野の札所と似たり寄ったりな感じの流れである。 特筆すべきなのは、石手寺に残る衛門三郎の再来伝説だ。衛門三郎が阿波国で死去した翌年、伊予国の国主であった河野息利(こうのおきとし)に長男が生まれた。しかしその子は左手を固く握って開こうとしない。心配した息利が安養寺の僧侶に祈祷させたところようやく手を開き、「衛門三郎」と記された石が出てきたという。つまりその子供は衛門三郎の生まれ変わりだったのだ。その石は安養寺に奉納され、石手寺という寺名に改められた。 さてはて、無事予定通りに第51番札所まで歩き通せたは良いのだが、到着した頃には雨脚がますます強まり、かなりの本降りになってきた。このお寺は四国霊場の中でもかなり特異な存在で色々と語りたいことがあるのだが、今日のところは参拝と納経が最優先だ。 打ち付ける雨に追い立てられるように本日最後の参拝を済ませ、納経所の窓口に並ぶ。私の前には若いお兄さんの遍路が並んでいたのだが、納経帳を受け取る際に「通夜堂に泊まることってできますか?」と訪ねていた。なるほど、どうやらこの石手寺には通夜堂があるらしい。普段ならば私もお世話になりたいところであるが、あいにくと今日はビジネスホテルが待っている。私はお坊さんから納経帳を受け取ると「ありがとうございます」とお礼だけ述べて、何食わぬ顔で山門を後にした。 江戸時代を通じて伊予松山藩の城下町であり、現在は愛媛県の県庁所在地である松山。非常に歴史のある町ではあるが、宇和島などと同じく第二次世界大戦で空襲を受けた為、中心市街地には戦前にまで遡る建物がほとんどない。 ただ、町のシンボルとして聳える松山城の天守が無事だったのは不幸中の幸いであった。安政元年(1854年)の建立と築年は比較的浅いものの、全国に12しかない貴重な現存天守のひとつとして重要文化財に指定されている。私は去年の愛媛旅行の際に松山城を訪れており、かの姫路城と同じく複数の天守が連結した「連立式」の天守は想像以上の迫力と複雑さで圧巻であった。 松山城の北側は愛媛大などの学校が密集しており、南側より静かで落ち着いた雰囲気だ。帰宅の途に就く学生たちに交じりながら並木道をてくてく歩き、平和通りにあるビジネスホテルに到着した。ただそのような立地上近くにスーパーなどの類がなく、夕食の調達に少し歩かなければならなかった。まぁ、そのくらいの距離、歩き遍路にとっては誤差みたいなものであるが。 三坂峠から始まり、松山平野における札所ラッシュ。今日だけでも結構な距離を歩いた上に、最近は毎日のように山道を歩いていたこともあり、かなり疲れが蓄積していたらしい。夕食を食べてまったりしていたらあっという間に眠くなってしまい、そのままふかふかの布団に溺れるように寝入ってしまった。 Tweet |