闇の奥深くに沈んでいた私の意識は、「参拝者が来ているので起きましょう」というお坊さん遍路の声によって引きずり出された。寝ぼけ眼で時間を確認するとまだ5時前。周囲がようやく明るくなり始めてきた頃合いであるものの、朝の早い近所のおじいさんがお参りに来たようである。 蓄積した疲労が澱む体をなんとか起こし、のろのろとテントを片付ける。一晩中雨が降り続いていたにも関わらず、フライシートはまったく濡れていない。さすがは唐破風付きの立派な玄関、ただの軒下とは違うものである。 テントを使わないお坊さんは玄関の板間にエアマットを敷いて寝袋で寝ていたのだが、これが普段とは比べものにならないくらいに安眠できたという。私のくたびれ具合とは対照的に、お坊さんは昨日に増して元気ハツラツだ。 朝食を取りながら今日の予定について尋ねると、お坊さんは徳島県三好市にある別格第15番札所の箸蔵寺(はしくらじ)に向かうとのことである。私は第66番札所の雲辺寺へと直行するので、どうやらここでお別れのようだ。私より一足先に準備を整えたお坊さんは、相変わらずの良い笑顔で「それでは」と椿堂を後にしていった。 私もまた出発の準備を終え、普段よりだいぶ早めの6時ジャストに出発する。雲辺寺が存在するのは香川県と徳島県の県境である讃岐山脈の雲辺寺山。その標高は911mと、四国八十八箇所霊場で最も高所にある札所である。当然ながら山登りになるようなので、気を引き締めて挑まねば。 実をいうと、お坊さん遍路に椿堂のことを聞くまでは、この遍路小屋が昨日の宿泊地の最有力候補であった。しかし実際訪れてみると国道沿いであるのに加え、眼前に広がる棚田の眺望を意識しているのか道路より数段高く築かれている。当然ながら周囲から丸見えの状態であり、とても野宿できるような環境ではない。改めて、椿堂のことを教えてくれたお坊さんに感謝である。 出発から一時間ほど経った頃、七田(しちだ)という集落に辿り着いた。その入口に立つ道標の矢印は、異なる二方向を指し示している。 私は改めて遍路地図を確認する。左のルートは七田集落から山を上り、曼陀峠(まんだとうげ)から尾根沿いを伝って雲辺寺に向かう「曼陀峠道」。右は阿波街道をこのまま東に進み、境目峠を越えたところにある佐野集落から雲辺寺山へと上る「佐野道」である。 どちらの道を行くか迷ったが、私が持つ遍路地図では「曼陀峠道」の方が点線部分が長い――すなわち車両通行不可の部分が多いようなので、そちらを行くことにした。少しでも多くの古道が残っていることを期待してのチョイスである。 私はてっきり曼陀峠まで未舗装の山道が続いていると思っていただけに、林道とはまさかまさかの誤算である。現在は車がほとんど通っていないのだろう、畑を抜けて山林に入った途端に路面に落ち葉が積もりだし、かなり荒れた印象だ。故に遍路地図では徒歩道として扱っているのだと思う。 だらだらと続く林道を進むこと約1時間、讃岐山脈を上り詰めて尾根の付近に辿り着いた頃、林道の左手から未舗装の山道が続いているのが見えた。ここにきて、ようやく古道がお出ましになったようである。私は待ちわびたと言わんばかり、雨露に濡れた枝葉を掻き分け突入する。 椿堂から歩き通しということもあり、県境の倒木に腰掛けて20分ほど休憩を取った。「菩提の道場」こと愛媛県に入ってから21日間、長かった伊予路もこれで終わりとなると一抹の寂寥を感じるものである。私は立ち上がってザックを担ぎ直すと、感慨をしみじみと噛み締めつつ再びの阿波国へと足を踏み入れた。 この「曼陀峠道」は上りが緩やかで足腰にやさしく、決して悪くはない遍路道である。しかし古道を期待していた身としては、ぶっちゃけ期待外れという感も否めない。どこまでも延々と続く車道の尾根道は退屈なもので、やっぱり「佐野道」にした方が良かったかなと少し後悔した。 後から知ったことであるが、遍路道としてより一般的なのは「佐野道」の方で、澄禅の『四国遍路日記』や真念の『四国遍路道指南』にもそちらのルートが記されているとのことである。また佐野集落から尾根まで上がる遍路道はかなり険しい山道であるものの、丁石や道標など古い石造物が数多く現存しており、平成29年(2017年)には『阿波遍路道』の一部を成す「雲辺寺道」として国の史跡に指定された。 なんと、私の求めているものは「佐野道」にこそあったのだ。また遍路をやる機会があったとしたら、次は迷わずそちらのルートを行こうと思う。 雲辺寺を間近にしての古道の出現に、単調な尾根道で沈んでいた私のテンションは急上昇だ。短めではあるもののどことなく荘厳な空気が感じられ、霊場の入口にふさわしい雰囲気を醸し出している。 古道を抜けて舗装路を進んでいくと、ようやく雲辺寺の駐車場に辿り着き、さらに平坦な参道をてくてく歩いていく。やがて周囲を覆っていた山林が途切れて視界が開け、雲辺寺の堂宇がその姿を現した。 雲辺寺の創建は延暦8年(789年)、当時16歳であった弘法大師空海が善通寺建立の用材を求めて雲辺寺山に登ったところ霊山だと感得し、堂宇を建立したことに始まるという。その後、大同2年(807年)には秘密灌頂の修法を行い、また弘仁9年(818年)には嵯峨天皇の勅命によって本尊の千手観音像を刻んで七仏供養を執り行ったそうだ。 以降は「四国高野」と称され、四国における僧侶の学問および修行の道場として大いに栄えた。鎌倉時代には七堂伽藍を構え、戦国時代の天正年間(1573〜1592年)には阿波池田の白地城に進攻した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が参拝し、住職に四国統一の夢を語ったという。 雲辺寺の境内は県境の南側に広がっているので住所こそ徳島県であるものの、四国遍路においては讃岐国最初の札所として扱われてきた。そう、ここからいよいよ四国遍路の最終フェーズ「涅槃の道場」こと香川県に突入するのである。次なる第67番札所、大興寺までの距離は約9.4km。雲辺寺山を香川県側に下ったその先に位置している。 序盤から中盤まではいかにもな雰囲気を醸す古道だったのに対し、終盤はハイキングコースのように階段状に整備された道へと変化した。これまた後から知ったことであるが、この雲辺寺から下る遍路道は途中から新しい道に付け替えられており、丁石を伴うオリジナルの古道は山の中に埋もれてしまっているという。なるほど、そういう事情があってのことか。 車道との合流地点には通常の道標とは別に「旧遍路みち」と書かれた立札が掲げられており、その矢印は道標とは反対の手前方向を示している。これはいったいどういうことかと頭をひねったものの、なんとなく“旧”という語感に惹かれ、道標ではなく立札に従ってみることにした。 あぁ、そういうことか! 雲辺寺からの下山道が後世に付け替えられたという事実を知った今なら分かる。この「旧遍路みち」は遍路道が変化する前の、オリジナルの古道から続くルートなのである。 この一見しただけではまるで集会所のようなたたずまいの白藤大師堂。先日お坊さん遍路から聞いた話によると、隣接する民家の方が管理しているとのことで、許可を得れば通夜堂として利用できるそうだ。 現在時刻は15時少し前と、既に夕方の気配が漂い始めてきた頃合いである。このお堂のお世話になるという手もあるが……実をいうと、今日はこの先にある観音寺駅前のビジネスホテルに部屋を取っているのである。疲労と体調を考慮してのことであるが、もう予算的にかなり厳しくなってきているので、これが最後のホテル泊になることだろう。 大興寺は三豊市の小松尾に位置しており、その地名にちなんで地元では小松尾寺と呼ばれてきた。寺伝によると平安時代の天平14年(742年)に東大寺の末寺として創建されたといい、その後の弘仁13年(822年)に嵯峨天皇の勅願により空海が熊野三所権現を祀る霊場として再興。本尊の薬師如来像と脇侍の不動明王像・毘沙門天像を刻み、堂宇を建立して安置したという。 戦国時代の天正年間には長宗我部元親の兵火に掛かり、慶長年間(1596〜1615年)に再建されたものの再び焼失。現在の本堂は寛保元年(1741年)の再建である。本尊の木造薬師如来座像は平安時代後期の作で、また山門で睨みを利かせる仁王像は鎌倉時代のもので運慶の作と伝わっている。 現在の大興寺は真言宗であるが、かつては真言24坊、天台12坊が軒を連ね、ひとつの寺院に真言と天台が兼学していた珍しい来歴を持つ寺院だ。その影響により、本堂の左手に弘法大師を祀る大師堂を構えると共に、本堂の右側には天台宗の第三祖である智(ちぎ)を祀る天台大師堂が構えられている。また本尊脇侍の不動明王も天台様式であるなど、その影響を見ることができる。 境内の片隅に設けられているベンチにザックを下ろし、身軽になってから参拝をする。読経と納経を済ませてベンチに戻ってくると、私のザックの横に飲み物のペットボトルが置かれていた。もちろん、私がザックを置いた時には無かったものだ。触ってみるとキンキンに冷えており、今まさに自販機で買ったばかりという感じである。 今日は朝から山道を歩き続け、手持ちのペットボトルはとっくに空になっていた。滝のような汗を流してかなり干上がっていた状態だったこともあり、これが涙が出そうになるくらいに嬉しかった。 せめて納札をと周囲を見回すものの、私に関心を払う人はおらず誰が置いたのかは分からない。お礼を言うことすら叶わない、顔も名前も知らない御方に手を合わせつつ、感謝しながら頂いた。 高松自動車道の高架橋を潜り、県道6号線を観音寺中心部に向かって進んでいると、路肩に立つ主婦風の女性から「木村さんですか?」と声を掛けられた。そして「これどうぞ、お接待です」と包みを差し出される。なんでも遍路道沿いに住んでいる方とのことで、私が大興寺に到着したことを知ってから、自宅の前で通り掛かるのを待っていて下さったとのことだ。わざわざすみません、ありがとうございますとお礼を重ね、納札を渡して受け取った。 観音寺市の中心部に辿り着いたのは18時を過ぎた頃である。予約しておいた駅前のビジネスホテルに到着すると、そこでもまた一人、学生風の女性が私を待っていて下さった。まるで私が宿泊するホテルを狙いすましたかのようだったので、「よくここに泊まると分かりましたね」と尋ねると、「駅前のビジネスホテルに泊まるとのことだったので。観音寺の駅前にあるホテルはここだけですから」とのお返事。なるほど、大いに納得である。 主婦風の女性から頂いたのは香川茶と、地元観音寺にお店を構える白栄堂の銘菓「観音寺」である。カステラのような生地で白餡を挟んだもので、しっとりとした食感と卵の風味がたまらない逸品だ。 学生風の女性から頂いたのは、これまた観音寺の菓子店である遊々椿の「おいり」というひなあられ風のお菓子、それと湿布とフェイシャルペーパーだ。「おいり」はカラフルで非常にかわいらしく、またフェイシャルペーパーは身だしなみに気を遣う、女性ならではの品々である。特に今の私はかなり小汚いことになっているだけに、是非とも活用させて頂こうと思う。 ホテルにチェックインしてシャワーで汗を流し、さて夕食でも買いに行こうかと思った頃、先日伊予三島で塩ラーメンを御馳走になったご夫婦からTwitterに連絡が入った。観音寺市の琴弾公園の近くに日帰り温泉の施設があるとのことで、一緒に行きませんかとのお誘いだ。 これが実に様々な種類のお風呂がある入浴施設で、それぞれをかわるがわる堪能させて頂いた。どれも良いお湯だったのだが、唯一、海水を利用した「潮風呂」なるお風呂だけはほとんど入ることができなかった。私の背中にはザックが擦れてできた生傷が多く、塩分が染みて物凄く痛むのだ。 それにしても、大興寺での飲み物に始まり、お菓子に湿布に挙句の果てには温泉まで。私なんぞにこれほど良くして貰えるとは、有難いを通り越して非常に申し訳なく思ってしまう。接待を口実として人様に甘えすぎているのではないか。遍路としてこれで良いのだろうか。そんな考えがよぎる一方で、数多くのご厚意に嬉しさを感じるのもまた事実である。 愛媛県では数多くの方々にお接待を頂き、また励まして頂いた。物質面のみならず、精神面でも大いに助けられたものである。その温かな心の波は、愛媛県を出て、香川県に入ってもなお健在らしい。つくづく、私の四国遍路は人に恵まれすぎているなぁと思った次第である。 Tweet |