遍路51日目:戸川公園〜常福寺椿堂(21.9km)






 寝起きにiPhoneで天気予報を確認するがてら、昨夜お坊さん遍路に『四国遍路の寺』という本をオススメされたことを思い出し、せっかくなのでAmazonでポチってみた。どうせなら遍路を始める前に読みたかったが、まぁ、遍路が終わった後の復習としても良いだろう。それにしても、今は遍路中でさえも自由自在に買い物ができるのだから、便利な世の中になったものである。

 バナナハニートースト(昨日のトーストしないハニートーストにバナナを乗っけたものだ)でエネルギーを補充してから、6時過ぎに戸川公園を後にする。お坊さん遍路はまだ準備中、青年遍路に至っては熟睡中と、野宿メンツの中では誰よりも早い一番乗りの出発だ。


第65番札所の三角寺を目指し、なかなかに急な舗装路を進む


坂の上の集落には「宇頭(うず)乃御燈」なる常夜灯があった

 山上集会所の前にたたずむこの常夜灯は、明治3年(1870年)、すぐ近くに位置する北岡山古墳群に鎮座していた若宮神社に奉納されたものだという。スラリとした縦長のフォルムに入母屋屋根が乗る姿がなんとも特徴的だ。

 そのまま集落を通り過ぎると、遍路道は沢に沿って上る農道となった。一応舗装されてはいるものの、車両があまり通っていないようでかなり荒れた印象だ。路肩に立つ古い道標も、ぼうぼうと茂る草木によって埋もれてしまっている。


これから夏になると、ますますジャングル化が進むに違いない

 さらに歩いていくと坂の傾斜が増し、コンクリートで固められた細い山道となった。後世の手が中途半端に入っているものの、昔から使われてきた道であることは確かなようで、その先には古そうな地蔵尊が祀られていた。


遍路道沿いにたたずむ地蔵堂
「おかげの地蔵」と呼ばれているそうだ

 この地蔵堂を左折したところで再び視界が開け、ミカン畑の農道に出た。うーむ、どうやらこの様子では、三角寺までの道のりに状態の良い古道は残ってなさそうである。――という私の推測を一蹴するかのように、程なくして道標の先に未舗装の山道が現れた。


おぉ、紛うことなき古道である

 ところどころに丁石や遍路墓も散見され、実に良い古道である。これまでの舗装路よりもさらに傾斜がキツめなので朝から全身汗だくになってしまったものの、想定外の収穫にニンマリだ。


30分ほど登っていくと、やがて林道に出た


そのまま道なりに進み、7時半に三角寺へ到着である

 第64番札所の前神寺から約45kmの距離を4日も掛けたことはさておき、伊予国最後の札所に辿り着くことができて感無量だ。早速石段を上っていくと、境内はまだ朝早いこともあってか人の姿は少なく静寂を保っていた。よし、混んでくる前にサクッと参拝&納経を済ませてしまおう。

 寺伝によると三角寺の創建は天平年間(730〜749年)、聖武天皇の勅願によって行基が開山したとされる。その後に弘法大師空海が訪れて十一面観音像と不動明王像を刻み、三角形の護摩壇を築いて21日間の行を修めたそうだ。現在も境内には護摩壇跡とされる三角形の池が存在しており、またそれが寺名の由来ともなっている。

 平安時代には嵯峨天皇による庇護を受けて300町もの寺領を賜り、最盛期には12の僧房と七堂伽藍を備えていたという。しかしながら天正9年(1581年)の長宗我部元親による進軍にって兵火を被り、本尊以外のすべてを焼失してしまう。現存する本堂はその後の嘉永2年(1849年)に再建されたものだ。


本堂でお参りをしていたら、いつの間にか霧が立ち篭めていた

 今朝は決して晴れではないが、すぐに雨が降り出しそうな感じでもなかった。それだけに突然の霧にビックリであるが、まぁ、三角寺は標高約360mの山中にあるので、天気が変わりやすいのだろうと自分を納得させつつ納経を済ます。

 よし、これで愛媛県内の札所をすべて回り終えた。次なる第66番札所は香川県と徳島県の境に位置する雲辺寺(うんぺんじ)であるが、今日はこのまま直行するのではなく、ひとつ寄り道をしたて行きたいと思う。三角寺の奥の院である仙龍寺に向かうのだ。三角寺から仙龍寺までの道のりは法皇山脈を越える約4.1kmの山道なのだが、その大部分に昔ながらの古道が残っているとのことで、是が非でも歩きたいと思っていたのである。


仙龍寺への参詣路は、三角寺の境内から続いている
その入口には「58丁」と刻まれた丁石が設置されていた


進んでいくとすぐに境内裏手の棚田に出るものの、それを越えると――


本格的な山道となった
期待通りの素晴らしい雰囲気だ

 かつて三角寺には大師堂が存在せず、弘法大師を本尊として祀る仙龍寺を三角寺の大師堂とみなしてセットで参拝するのが一般的であった。その参詣道は真念の『四国邊路道指南』や寂本の『四国遍路霊場記』にも記述が見られ、江戸時代前期には既に仙龍寺を経由するルートが確立していたことが分かる。一定間隔に設けられている丁石も、享保年間(1716〜1736年)および宝暦年間(1751〜1764年)に整備されたものとなかなかに古い。

 三角寺にも大師堂が築かれた現在、わざわざ仙龍寺まで足を運ぶ遍路は少なくなったようだ。しかしながら、かつて多くの遍路が歩いていたこともあって、その道筋は今もなおしっかりと残されいる。古道としての状態も非常に良く、平成29年(2017年)には『伊予遍路道』の一部にあたる「三角寺奥之院道」として三角寺境内から4丁石までの約3.8kmが国の史跡に指定された。


遍路道の写真を撮っていると、お坊さん遍路が追い付いてきた
重い荷物を背負っているにも関わらず、そのペースは早い


丁石地蔵を横目にひたすら登っていくこと約70分


法皇山脈の尾根筋にあたる地蔵峠に差し掛かった
仙龍寺まで残り26丁の地点である

 少し疲れてきたところだったので休憩にする。この地蔵峠には複数の道標が並んでいるのだが、そのうちのひとつである地蔵丁石は仏海という木食僧によって築かれたものだそうだ。室戸岬に向かう途中の入木に仏海庵を建てて遍路の支援にあたり、明和6年(1769年)に入定して即身仏となった人物である。

 伊予北条に生まれた仏海は、生涯24回に渡って四国霊場を巡拝した。仙龍寺にも2年ほど滞在しており、その際に千体地蔵を刻んだと伝えられている。この地蔵丁石もまたそのうちの一体なのだろう。


地蔵峠からは急な坂道を下っていく


すぐに「桜馬場」と呼ばれる平場に出た
その名の通り、送電鉄塔の横に桜の古木が枝を張っている

 ここにはかつて遍路相手の無人販売所があったというが、現在はその代わりに送電鉄塔が威圧的に聳えており、肝心の桜はその足元に甘んじている印象だ。幹は非常に立派で葉もつけているが、老木ということで倒壊が心配されているのか周囲にロープが張られていて近付けないようになっていた。


桜馬場から急な坂道をさらに下ると舗装路に出た
路肩に並んでいるハチの巣箱が横穴墓のように見えてギョッとした

 そのまま道なりに進んでいくと、道路の脇から再び古道が伸びていた。しかしそれまでのごく普通な山道とは違い、ここからの遍路道は石段や石畳が敷かれていて少し雰囲気が変わった印象である。


道幅も広く、社寺の参道といった趣だ


その先にはお堂が待ち構えていた
奥の院の不動堂とのことである

 奥の院の本堂までは残り八丁とのことで、この不動堂より先は「八丁坂」と呼ばれている。名前が付くような坂道ということは、それだけ人々の印象に残るようなキツイ道のりだということだ。


傾斜が急な上に危険な箇所も多く、慎重に歩みを進める

 切り立った斜面に足がすくみつつも何とか進んでいくと、四丁の地点で道が左右に分かれていた。左は昔ながらの遍路道のようだが、「崩落個所あり危険注意」という何とも不穏な看板が掲げられている。なぁに、これまでも結構危ない箇所あったし、行けないこともないだろうと左へ進んでみたのだが……。


あ、これ、無理、怖すぎる

 断崖絶壁の縁を行く上に、岩がボロボロと崩れていて足場が悪い感じである。張られているロープも頼りなく、重いザックを背負った不安定な体勢で歩いたら、バランスを崩して滑落してしまうかもしれない。素直に引き返し、右の道を進むことにする。


こちらは比較的安全だが、それにしてもやけに石仏が多い

 オリジナルの遍路道から分岐するこの道は、遍路道に数多くの道標を建てたことで知られる中務茂兵衛(なかつかさもへい)が発起人となり、既存の遍路道と併せることで仙龍寺からぐるっと一周できる新四国霊場のコースとして大正3年(1914年)に整備されたそうだ。すわなち道沿いに並ぶ石仏は、四国八十八箇所霊場を表した「写し霊場」というワケである。

 先ほどの断崖絶壁よりはマシであるものの、それでもなおキツ目の坂道を下っていくと、しばらくして轟々と水が落ちる滝に差し掛かった。清滝という名らしく、現在も滝行が行われているそうだ。


なかなかに迫力があり、風流な滝である

 これは良いものを見ることができた。むしろこちらの道に進んで良かったと思いつつ下っていくと、やがて視界が開けて眼下に巨大な堂宇が見えた。三角寺を出発してから約2時間半、ようやく奥の院の仙龍寺に到着である。


山深い谷間に現れた、巨大な本堂に目を見張る

 寺伝によると、6世紀から7世紀頃にインドから渡ってきた僧侶である法道仙人がこの地に居を構えたとされ、その後の弘仁6年(815年)に空海が訪れて金剛窟に籠り、五穀豊穣と虫除けの護摩行を21日間に渡って修めたという。以降は「虫除大師」として信仰を集め、現在は四国別格二十霊場の第13番札所にその名を連ねている。

 特異な楼閣状の本堂は通夜堂とも称され、その名の通り夜を徹してお参りを行う場所であると共に、山を越えてきた参拝者の宿泊施設でもあったようだ。いわば本堂と宿坊と庫裏をひとつにまとめた建物なのだろう。

 現存する本堂は昭和9年(1934年)の建立とのことで、昔は全然違う様相だったのかな……と思いきや、『四国遍礼名所図会』にも似たような形状の建物が見られ、また寂本の『四国遍礼霊場記』には18間にも及ぶ回廊の存在が記されており、往時からこのような複合建造物であったことが分かる。


コンクリートで土台を築き、その上に懸造で建てられている
前庭の下部には沢が流れており、滝が落ちる様子も見える

 参拝案内の矢印に従って堂内へと入り、赤い絨毯を辿って本尊の弘法大師像が鎮座する上階へと向かう。そこには先行していたお坊さん遍路がおり、住職と思われる男性と会話をしていた。私は「どうも」と軽く会釈をしつつ、お参りの準備に入る。

 読経を終えて振り返ると、お坊さん遍路は既に出発したらしく姿が見えなくなっていた。この仙龍寺は四国八十八箇所霊場ではないものの、せっかくここまで来たことだしと納経帳の空きページに朱印を貰う。対応してくれた住職さんの話によると、今でこそ納経はお金を払って朱印を貰うだけとなっているが、かつては“納経”という文字通り、夜を徹して写経をし、それを本尊に納めていたそうだ。それをすべての札所でやっていたのだから、いやはや昔の遍路は物凄い努力と信心である。

 さてはて、仙龍寺から雲辺寺に向かう道筋であるが、手持ちの遍路地図には新宮ダム沿いの車道を行き、掘切トンネルを抜けるルートしか記されていない。しかし昔の遍路道はまったく違っていたようで、先程下ってきた八丁坂を不動堂まで引き返してから市仲(いっちゅう)という集落を経由して堀切峠へと向かい、土佐街道を下ったところにある平山集落で三角寺から雲辺寺へ向かう遍路道に合流していたようだ。古道好きな身としてはぜひとも旧遍路道を歩きたいところであるが、しかし私にはそのルートの詳細な情報がない。少し不安ではあるものの、探り探り辿ってみることにしよう。

 下ってきた時にも感じたことだが、上りとなると改めて道の険しさを思い知らされる。仙龍寺を出る前に昼食として食べたバナナハニートーストをリバースしそうになりながら八丁坂をリバースしていくと、不動堂を過ぎた辺りに雲辺寺へのルートを示す道標が立っていた。


ただし、その道標が示す方向に道はない
いや、よく見ると微かに道筋が見える……か?

 この道標が移設されたものとは思えないので、おそらくかつてはこの方向に堀切峠へ向かう遍路道が続いていたのだろう。少し上に車道が通されたことで歩く人が皆無となり、草木に覆われて廃道と化したのだ。うーむ、やはり旧遍路道を辿るのはかなり難しそうな感じである。


しょうがなく、車道を歩いて堀切峠を目指す
先程の道標から続く旧遍路道は、下に見える集落を通っていたに違いない


結局、旧遍路道らしき道筋を見つけられないまま進んだのだが……


堀切峠の少し手前で、旧遍路道らしき未舗装路を発見した!

 この発見には本当に興奮した。路肩には道標らしき石柱も立っており、この道筋が市仲集落から続く旧遍路道にあたるのだろうと思う。どこまで続いているのか調べてみようと思ったが、少し進んだところで竹が茂っていて道筋が不明瞭になっており、さらには霧が出てきたので諦めて引き返すことにした。

 改めて堀切峠まで進むと、今度は右手によりハッキリとした未舗装路が続いていた。先程の未舗装路とは違って今度は明確に「へんろ道」という標識が掲げられており、これなら問題なく進めそうである。


堀切峠からの遍路道を歩いていくと――


すぐに「峰の地蔵」という巨大な地蔵菩薩像に辿り着いた


さらに林道を進んでいくと……旧土佐街道の案内板が!

 どこが仙龍寺からの遍路道と旧土佐街道との合流点なのか明確には分からなかったが、とにもかくにも旧土佐街道に合流することができたようである。あとはこの道を下っていけば平山集落に辿り着けるはずだ。……という私の安易な考えは、バナナハニートースト以上に甘かった。


途中で道筋が分からなくなってしまったのだ

 旧土佐街道という案内こそあったものの、まだ道の整備が十分ではないらしい。「お茶屋の跡」という標識を過ぎたところで道筋を見失ってしまった。とりあえずアタリを付けて進んでみるものの、森林管理用らしき林道に迷い込んでしまい、どちらへ進めば良いのかサッパリ分からない。さらには霧がますます濃くなり、これはもはや遭難の危機である。

 これ以上の深追いはヤバイと直感した私は、旧土佐街道を進むことを断念。勇気をもって撤退し、車道を行くことにした。とりあえず旧遍路道の尻尾を掴むことができただけでもヨシとしようではないか。

 何とか堀切峠まで引き返し、九十九折に下る車道をひたすら歩くこと1時間半、物凄い遠回りになってしまったものの、ようやく三角寺から続く遍路道に合流することができた。


しかし濃霧に加えて雨まで降り出し、心身共に満身創痍である


16時過ぎ、旧土佐街道との合流点である平山集落を通過する


強まる雨の中さらに進んでいくと、手作り感溢れる休憩所があった

 ゴルフクラブを握りしめたマネキンにギョッとしたものの、よくよく見ると椅子やテーブルが年季入っていて親しみの持てる休憩所である。屋根があって雨をしのげる上、カーテン付きの寝台が用意されており、宿泊も可能なようだ。

 既に野宿スポットを考える必要のある時間帯に入っており、この休憩所のお世話になるという選択肢も悪くはないだろう。しかしながら、実は本日の宿泊地を既に決めてあるので、ここは雨宿りの休憩だけにさせて頂くことにした。


連なる棚田を横目に進んでいくと――


程なくして目的地である「椿堂」こと常福寺に到着である

 この常福寺は大同2年(807年)に邦治居士(ほうちこじ)という人物が庵を結んだ場所であるとされ、その後の弘仁6年(815年)に四国を巡錫していた空海が訪れて病封じの祈祷を行ったという。その際、地中に立てた杖から椿の芽が吹き大樹となったといい、「椿堂」と呼ばれ親しまれてきた。仙龍寺に続く四国別格二十霊場の第14番札所でもある。

 昨日のお坊さん遍路に聞いた話によると、この常福寺では軒先を借りて宿泊することが可能とのことで、それならば私もお世話になろうと考えていたのだ。境内に入ると先に到着したお坊さん遍路が庫裏の前におり、なんでも本日の托鉢修行を終えたところであるという。促されるまま納経所のインターホンを鳴らして「一晩、軒下をお借りしてもよろしいですか?」と尋ねると、対応してくれた住職さんは快く許可してくれた。


せめてものお礼に、ロウソク立ての蝋クズを掃除する

 荷物を下ろした後は、お坊さん遍路と手分けをして境内の掃除である。蝋クズをすべて掬い終えた後は、トイレを担当しているお坊さん遍路の手伝いに入った。すべての便器をしっかりと磨き、ホースで床に水を撒いて綺麗にする。

 一仕事終えて寝床の設営に取り掛かろうとしたところ、庫裏から住職さんが出てきて「弁当を取るから好きなの選んで」とメニューを手渡された。えぇ?! 寝床を提供して頂いただけでも十分過ぎる程なのに、まさか夕食までご馳走頂けるとは。あまりに有難いご厚意に恐悦至極である。


これ以上ないくらいに、温かい夕食であった

 お弁当が届くまでの間、お坊さん遍路は托鉢で貰った野菜をナイフで切り、アルコールストーブでコンソメスープをこしらえていた。私の分まで作って下さったらしく、「よろしければどうぞ」とコッヘルを差し出された。

 お坊さん遍路と二人、ホカホカの野菜炒め弁当を頬張り、アツアツのスープを飲む。コッヘルを顔に近づけた時の、湯気が顔に当たる感触がたまらない。これぞ幸福というものだろう。ありがとう、椿堂。ありがとう、お坊さん遍路。