遍路56日目:五色台休憩所〜一宮新池農村公園(26.0km)

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 朝5時過ぎにテントから這い出ると、昨夜この東屋でご一緒していた二人のうち、ベンチで寝ていた女性遍路の姿が既になくなっていた。随分と早い時間ではあるが、出発した後のようである。一方でもう一人の同居者であるおじさん遍路のテントからは断続的にいびき声が聞こえてくる。こちらはまだしばらく起きそうにもない。

 私は疲れと眠気が残る体に鞭を打ちつつ、荷物をまとめて自分のテントを片付ける。昨夜はおじさんがラジオを付けていたのだが、やがて寝る時間になっても女性遍路がラジオを付けっぱなしにして欲しいと言っていた(おそらく、寝袋にたかってくる蚊の音をごまかす為だろう)。おじさんはそのお願いを律儀に守り、就寝時間を過ぎてもなお東屋にラジオの音が響き続けることとなったのだ。

 しかし元来音に敏感な私にとってはたまらない。零時を回っても消す気配がなかったので、さすがに辛抱たまらなくなった私は「ラジオがうるさくて眠れないので止めてくれませんか」と言って切ってもらった。その後にようやく眠りについたのだが、睡眠時間は5時間にも満たず完全な寝不足である。今日も天気が良いようだし、暑さでぶっ倒れてしまわないか心配だ。

 私は近くにあった自販機でコーラを買い、それでパンを流し込んでから出発した。今日はまず、五色台の西端にある白峯寺(しろみねじ)へと向かうことになる。現在地は五色台の中心付近なので西へ戻る形になるのだが、昨日歩いてきた遍路道をそのまま引き返すのはいささか芸がない。そこで、途中までは県道180号線を歩くことにした。


眺めの良い車道からは、水墨画のような美しい風景を見ることができた

 昨日国分寺から登ってきた遍路道との交差点である一本松を通り過ぎた辺りから、県道180号線は自衛隊の国分台演習場に沿って続いている。なので左手側は物々しい金網を眺めながら歩くことになるのだが、その途中、車道と金網の間から細い小道が続いていることに気が付いた。


……これは、ひょっとして遍路道だったりするのだろうか

 実を言うと、私があえて県道180号線を行くことにしたのには一つの明確なる理由があった。現在は失われた旧遍路道の痕跡を探すためだ。

 かつて国分寺から白峯寺へと登る遍路道は、現在の国分台演習場の敷地内を通っていたという。旧来の遍路道は明治時代に陸軍の演習場に定められたことで廃道となり、その東側に現在の遍路道が付け替えられたという経緯がある。昨日登ってきた遍路道には石仏などの古いモノが残っていなかったのはその為だ。古道を歩くことにこだわりたい私は、こうして県道180号線を歩きつつ、それと交差するはずの旧遍路道を探しているわけである。

 まるで獣道のようなか細い道筋ではあるが、もしかするとこの道こそ、私が探し求めていた旧遍路道なのではないだろうか。まるで吸い寄せられるように進んでいくと、その予感はすぐに確信へと変貌した。


おぉ、地蔵丁石があるではないか! これは、まさしく遍路道だ!

 この古い地蔵丁石を見つけた時には本当に興奮した。現在は失われたかつての遍路道を発見できて、体内に残っていた疲れや眠気はどこへやら。演習場によって断絶された道なのでどこまで残っているかは分からないが、行けるところまで突き進んでみることにしよう。


程なくして旧遍路道は演習場に出て、入口のゲートに差し掛かった

 私はくねくねと曲がる県道180号線を歩いてきたことから方向感覚が失われており、最初この旧遍路道は国分寺へと下りる道なのかと思っていた。しかしこうして県道180号線へ抜けるゲートに差し掛かったことで、ようやく白峯寺へと向かう上りの遍路道であることに気付いたのであった。期待よりあっさり終わって少々拍子抜けしたが、でもまぁ、昔ながらの古道を少しでも長く歩くことができたのだから良しとする。

 それにしても、結果的にではあるが演習場内に入り込んでしまって大丈夫なのだろうか。というか、外に出ることはできるのだろうか……と思いきや、演習場側もこの道を歩く遍路がいることを知っているのか、ゲートの横には人ひとりが通り抜けられるくらいの隙間が設けられていた。


引き続き、演習場沿いの遍路道を行く

 演習場の敷地を出てからも旧遍路道は続いており、やがて白峯寺とその次の札所である根香寺(ねごろじ)を結ぶ現行の遍路道に合流した。そのまま道なりに進んでいくと、遍路道の路肩に二つの石造物が立っていた。


摩尼輪塔(まにりんとう)と下乗石(げじょうせき)である

 簡易的な屋根によって雨風から保護されている摩尼輪塔は、鎌倉時代末期の元応3年(1321年)に宗明(しゅうみょう)という僧侶によって築かれた。塔に据えられた円盤には大日如来を表す梵字が刻まれており、またその下部には「下馬」と記されている。ここからは白峯寺の聖域なので、どんなに位の高い者であっても乗り物から下りよという意味だ。

 江戸時代後期の天保7年(1836年)には摩尼輪塔を小屋で覆って保護し、その隣に新たな下馬石が築かれた。当時から、中世にまで遡る貴重な石造物だと認知されていたのだろう。古いモノを守ろうという、いわば文化財保護の概念は江戸時代には既に存在していたのである。


摩尼輪塔から少し歩くと築地塀が連なる舗装路に出た


第81番札所の白峯寺に到着である

 時間はちょうど納経所が開く7時。東屋を出発したのは6時なので、ちょうど1時間で辿り着いたことになる。早朝なので人が少ないかと思いきや、既に境内はそこそこの参拝客で賑わっていた。これ以上人が増える前に、お参りを済ませてしまうとしよう。

 白峯寺の寺伝によると、弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海が五色台を構成する五峰に金剛界曼荼羅の五智如来を感得し、そのうち白峯の山頂に如意宝珠を埋めて白峯寺を創建したという。貞観2年(860年)には空海の甥にあたる智証大師円珍が宝珠の輝きを見て白峯に登頂し、その際に白峯大権現の神託を受けて千手観音菩薩を刻み本尊にしたそうだ。

 また長寛2年(1164年)に「保元の乱」で敗れた崇徳上皇が流刑地であった讃岐で死去すると、その遺詔に従い白峯寺境内の北隣に位置する断崖絶壁「稚児嶽」の上に陵墓が築かれている。江戸時代には四国遍路の札所のみならず、崇徳院廟所としても参拝者を集め、朝野の崇敬を集めていた。


石段を上がり、本堂と大師堂で朝一の読経をする

 現在の境内には慶長4年(1599年)建立の本堂を中心に、 高松藩によって整備された江戸時代の堂宇が密度高く残っている。また崇徳院の廟所には崇徳院を祀る頓証寺殿が鎮座するのも特徴的だ。


崇徳天皇陵墓の手前に位置する頓証寺殿

 白峯寺は四国霊場の札所と崇徳院陵墓が一体となった、極めて特異な伽藍構成であり、各堂宇もクオリティが高く地方色に富んでいることから、大師堂、阿弥陀堂、行者堂、薬師堂、頓証寺殿、勅学門、客殿、御成門の計9棟が平成29年(2017年)に重要文化財の指定を受けた。

 実際に訪れてみると、本堂へと至る参道に沿って様々な堂宇が並んでおり、開放感のある境内に堂宇がギュッと詰まった印象だ。崇徳院を祀る頓証寺殿の存在が他の札所にはない雰囲気を醸しており、仏教寺院に神道を溶かして混ぜ合わせたような、そんな印象を受けた。

 納経所で「おはようございます、御朱印をお願いします」と納経帳を差し出すが返事はない。素っ気なく納経帳を受け取り朱印を押す。うーむ、このお寺に限らず、どこも朝一の納経所は不愛想な場合が多い気がする。朝は忙しい時間帯であると理解はしているのだが、いささかもやもやとしたものが残る中での出発となった。


白峯寺からは、歩いてきた遍路道を戻って次なる根香寺を目指す


その途中には白峯寺歴代住職の墓地があった

 木漏れ日が神秘的な墓地からさらに進むと、先ほど歩いてきた旧遍路道との合流点に差し掛かる。今度はそのまま直進し、まだ歩いていない根香寺への道に入る。徐々に太陽が昇り始め、山の中にいてもなお日差しの強さがうかがえる。

 木々に囲まれた現在はまだマシであるが、五色台を下りた後はなかなかにしんどくなりそうだ。そんな覚悟を決めながら進んでいくと、ふと道端に「閼伽井(あかい)」と刻まれた石碑が立っていた。


水が湧いている、1m四方の井戸だ

 根香寺まで残り34丁の地点に位置するこの閼伽井は、空海が白峯寺を創建する際に掘った井戸であるという。山の上まで水道が普及している現在とは違い、かつては貴重な水場として遍路たちの喉を潤したことだろう。一応蓋が設けられているものの、地面に近すぎてさすがにこの生水を飲むのは躊躇われる。

 残り19丁の地点で国分寺からの遍路道と合流し、そのまま道なりに進んで昨夜寝床にした東屋まで戻ってきた。さすがにラジオおじさんも出発した後であり、私はそのベンチで一息入れてから改めて根香寺に向け出発した。さぁ、今日の本番はここからだ。

 東屋から県道180号線を少し歩くと、右手から再び未舗装の遍路道が続いていた。ここから根香寺にかけての区間もまた昔ながらの古道であり、『讃岐遍路道』を成す「根香寺道」の一部として国の史跡に指定されている。


歴史ある遍路道は、直射日光を遮るという点でもありがたい


9時半過ぎに第82番札所の根香寺に到着だ

 根香寺は五色台を構成する五峰のうち東端の青峯に位置する寺院である。寺伝によると、空海が青峯に「花蔵院」という堂宇を建てて創建したとされる。その後の天長9年(832年)には円珍がこの地で山の鎮守である市之瀬明神の化身に遭遇し、そのお告げによって霊木から千手観音像を刻み「千手院」を建てて安置したそうだ。霊木の切り株はその後も良い香りを放ち続けたことから根香寺という寺名になったという。

 同じ五色台にあるだけに、白峯寺とよく似た縁起である。しかし境内の雰囲気は白峯寺とは少々異なり、木々が鬱蒼としておりこれぞ密教寺院という印象だ。秋にはモミジが色付く紅葉の寺としても有名らしい。


山門からまず谷間に下り、それから石段を上がる参道が特徴的だ


境内で一番高い所に本堂が鎮座し、その一段下に大師堂が存在する

 根香寺の本尊は平安時代に築かれた一木造の千手観音立像で、国の重要文化財に指定されている。……が、33年に一度開帳される秘仏なので普段は拝見することはできない。ちなみに次の御開帳は平成48年(2036年)とまだまだ先だ。

 読経と納経を終え、木陰のベンチで一休みする。太陽はますますギラついており、正直言ってここから出たくないというのが本音だ。だが午前中に距離を稼いでおかないと、これからますます暑くなるだけである。意を決して根香寺を後にする。

 次の札所は五色台山を下りたその先、城下町高松の南側に位置している。ここからの距離は約12km。市街地がメインになるようなので大部分が舗装路なのだろうが、この炎天下でアスファルト路を歩くというのは、想像するだけで頭がゆだるというものだ。


根香寺から来た道を少し戻ると、三丁の地点に道標が立っている

 この道標の側面には「是ヨリ一宮迄二里半」と刻まれている。“一宮”とは次なる第83番札所の一宮寺(いちのみやじ)のことであり、根香寺を後にした遍路はこの道標から伸びる遍路道を行き一宮寺へと向かう……のだが、遍路地図にはそのルートが記されておらず、結局、私は根香寺から7丁付近まで引き返し、そこから車道を歩くことになった。


何も遮るものがない車道は直射日光にさらされて物凄く暑い

 とにかく暑い、うだるように暑い。飲んだ水が瞬時に汗となって流れる暑さの中、だらだらと続く車道をひたすら歩く。高松の市街地や瀬戸内海の眺めが気付けになったものの、所詮は焼け石に水。じりじりとした太陽光線により体力と気力がガリガリと削られていく。


いつの間にか三丁目からの遍路道と合流したらしく、狭い道に入った

 つづら折りの車道よりも急傾斜ではあるものの、何より木々が茂っているのがありがたい。農道として使われている道なのかコンクリートで舗装されている部分もあるものの、石仏なども残っていて雰囲気は悪くない。


途中の集落では、丁重に祀られている石仏に和んだ


さらに坂道を下っていくと、鬼無(きなし)という地区に出た

 鬼無とはまた変わった地名であるが、なんでもここはかの桃太郎伝説の舞台であるという。かつて高松市の沖にある女木島に海賊が住んでおり、周辺地域で悪事を重ねていた。この地に立ち寄った桃太郎は本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れし、数多くの軍勢を従えて海賊を倒したという。そうして悪さをする海賊、すなわち鬼がいなくなり、鬼無と呼ばれるようになったというわけだ。

 また江戸時代初頭にこの近隣で暴れていた牛鬼が討ち取られ、その角が根香寺に奉納されたという牛鬼伝説が残っており、それもまた関連があるのかもしれない。いずれにせよ興味深い話である。

 現在の鬼無では盆栽の生産が盛んらしく、遍路道沿いに造園業の看板が数多く見られた。その周囲はまるで植木の畑であり、様々な種類の庭木が栽培されている。なかなか面白い風景であるが、暑さと疲労でそれらをじっくり眺めている余裕はない。

 JR予讃線の線路を渡ったところで、道路の奥に「手打ちうどん北山」という看板が見えた。時間はちょうど12時を回ったところ。これは渡りに船とばかり、即断で昼食休憩とした。


冷やしうどんを頼んだら、有難い事に氷でキンキンに冷やされていた

 氷で冷やされ締まっているのか、讃岐うどんにしてはコシが強い。かなり固めではあるが、これはこれでしっかりと「うどんを食っている!」という気がして満足感がある。麺つゆも全部飲み干し、水分と塩分をしっかり補給してから再出発だ。


鬼無からの遍路道は住宅街の細い路地を進む

 五色台を下りてからは住宅地が続くので遍路道も車道を行くことになるのかと思いきや、意外と昔の道筋が残されていて驚いた。おそらく、かつてこの辺りには家屋が少なく田畑が広がっていたのだろう。遍路道はゆるゆるとカーブを描きつつ一宮寺に向かって最短距離で続いており、直線的かつ直交であることが求められる車道としては不適格だ。故に車道は遍路道を上書きすることなく別途設けられ、結果的にその道筋が残されたのだろう。


細い路地を抜け、本津川に架かる橋を渡る


その先に鎮座する岩田神社からは南へ続く参道を進む


門前には「飯田の観音さん」と呼ばれる石仏が立っていた

 鬼無から本津川を渡った飯田町には、やけに神社やら石仏やら古いモノが数多い。それもそのはず、ここには中世の頃に旗本であった飯田氏の居城として飯田城が存在したという。現在その遺構は全く残っていないものの、周囲に残る集落のたたずまいから歴史の残滓を感じ取ることができる。


水田が広がる中に、飯田氏の祖先を祀る「茶臼塚」が鎮座する

 かつては近隣地域の拠点であったのであろう飯田町を抜けると、遍路道は再び最短距離のルートを取る曲線的な路地となる。途中からは田畑の灌漑水路と並走し、暑いながらも水が流れる音が聞こえてきて清涼感がある。要所要所に「一ノ宮」と刻まれた道標も立っており、遍路道としての雰囲気たっぷりだ。


昔から遍路たちを見守ってきたのであろう、お地蔵さんと道標


その先の香東川では、久しぶりに沈下橋を渡った


高松自動車道の高架を渡る手前には、遍路の為の休憩所が

 ここまでくると、もはや高松市街地の一部である。田畑が少なくなった代わりに住宅が建ち並び、企業の工場や商業施設も増えてきた。しかしやはり昔は田畑が広がっていたようで、遍路道はくねくねと曲がる水路に沿って続いていく。


水路の上に立つ道標、なかなかにシュールである

 おそらくこの道標は手前にある道路の上に立っていたのだろう。しかし車道の整備拡張により邪魔となり、水路の上に移動させられたのだと思う。なんとも強引な感じではあるものの、道路整備によって破棄される道標も少なくない中、今に残っただけでも御の字である。


遍路道はホームセンターの敷地を突き抜けて――


再び田畑の路地を行く

 水田の向こうに見える小学校の敷地に沿って進み、モダンな遍路小屋を通り過ぎて歩道橋を渡る。その先の住宅街に存在するのが第83番札所の一宮寺だ。


15時少し前に一宮寺へ辿り着くことができた

 一宮寺という寺名からピンとくる通り、この寺院は隣接する讃岐国一ノ宮の田村神社の別当寺であった歴史を持つ。水源地に鎮座する田村神社は有史以前より信仰の対象とされ、和銅2年(709年)には行基によって社殿が建てられた。その際、別当寺に定められたのが一宮寺である。

 大同年間(806〜810年)には空海が伽藍を整備し、その後、一宮寺は田村神社と一体のものとして栄えていった。しかし江戸時代前期の延宝7年(1679年)に高松藩主である松平頼常(まつだいらよりつね)の命によって別当寺を解職され、以降は独立した寺院として存続していった。

 元禄2年(1689年)に発行された『四国遍礼霊場記』にも、一宮寺は田村大明神と完全に分離されて描かれている。徳島県の大日寺や高知県の善楽寺など明治の神仏分離令によって強制的に一ノ宮から切り離された別当寺の例は多いが、それより200年も前に一ノ宮から独立していたというから面白いものだ。


せっかくなので讃岐国一ノ宮の田村神社にも参拝する


田村神社と一宮寺の間には「花ノ井出水」なる水源がある

 さすがに水源地に築かれた神社なだけあって、境内の周囲には湧き水が豊富である。なんでも田村神社の奥殿は「定水井(さだみずのい)」と呼ばれる湧き水の上に築かれているという。現在も水が不足しがちな讃岐国において、豊富な湧き水を噴出するこの水源地は極めて重要な存在であったことは想像に難くない。

 さてはて、これで今日の目標は達成である。昼下がりからは雲が出てきて多少マシになったとはいえ、気温と湿度が高い中を歩き続けていて汗だくだくだ。地図を見るとこの近くに温泉があるようなので、ひとっ風呂浴びるとしようじゃないか。


なかなかに立派な施設で、たっぷり2時間ほど堪能させて頂いた

 浴槽に設置されていたジェットの気持ち良さに昇天しかけつつ、のぼせるギリギリまで温泉に浸かる。結局、施設から出た時には既に18時を回っていた。まだ寝床を確保していないのに随分と余裕があるじゃないかと思われるかもしれないが、今日はあらかじめ幕営地を決めておいたのだ。お坊さん遍路に書き写させて貰った野宿ポイントのひとつである一宮新池農村公園だ。


広々としたグランドの北側と南側に東屋がある運動公園だ

 私が一宮新池農村公園に到着すると、昨日もご一緒したラジオのおじさん遍路が水道を使っていてドキッとしたが、おじさんは北側の東屋を使うとのことで、それでは私は南側の東屋で寝させて貰うことにした。地図に載ってない公園なので誰もいないだろうとタカを括っていたのだが、やはり知っている人は知っているものである。

 この公園は住宅街の中にあり、またグラウンドでは小学生が元気にサッカーをプレイしている。のんびり観戦しながら夕食を取っていると、小学生たちは19時に帰っていたのでその後にテントを張らせて頂いた。

 日が落ちても気温が下がらず、テントの中は蒸し風呂のようである。おまけに蚊が紛れ込んでしまったらしく寝苦しいことこの上ない。なかなか寝付けずにうんうんうなっていると、どこからともなく車のエンジン音が聞こえてきてテントがライトで照らされた。それと共に、「木村さーん」と私を呼ぶ声が。なんと、坂出市の商工会の方が車で駆けつけて下さったのだ。


「ぴっぴ飯」なる料理を差し入れ頂いた

 なんとも不思議な語感であるが、“ぴっぴ”とは讃岐弁でうどんの幼児語らしい。ご飯とうどん、それと刻んだたくあんを炒めたもので、現在坂出で絶賛売り出し中のB級グルメとのことである。

 いわばそばめしのうどんバージョンなのだが、ソースではなくダシで味付けられていて、ご飯とうどんが良くマッチしている。時折口に入るたくあんも程よいアクセントだ。意外とあっさりしているので、いくらでも食べられる感じがする。これは良い料理を教えて頂いたというものである。ごちそうさまでした。



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