遍路57日目:一宮新池農村公園〜鶴亀公園(37.8km)






 住宅街の中にある運動公園に幕営していただけに、人目に付かないよう日の出よりも早くに起きてテントを撤収した。

 のんびり朝食を取りながら、遍路地図で今日の行程を確認する。この先で野宿ができそうなポイントは二箇所。ここから約27kmの地点と、約38kmの地点である。うーむ、どうやら今日は“あまり頑張らない”か、“物凄く頑張る”かの二択になりそうだ。明日のことも考えると、とりあえず頑張る方向で進めるとしよう。


昨日に引き続き、水田や住宅街の細道を進んでいく

 次なる目的地である第84番札所の屋島寺は、その名の通り高松市街地の東に聳える屋島の山頂に位置している。そう、源平合戦の戦場として有名なあの屋島である。

 一宮寺からの遍路道は屋島に向かって北東へ一直線状に続いており、高松の中心市街地を迂回する形だ。とはいえさすがは香川県の県庁所在地なだけに、中心部から外れた郊外にも住宅街が広がっており、遍路道としてはいささか単調だ。


今日も暑くなりそうな日差しにうんざりしつつ、溜池の堤防を横切る


アスファルトの地面に埋め込まれた井戸があった
マンホールで蓋をしつつ今も使われているのだろう

 最初は閑静な住宅街であったものの、徐々に商店などが散見されるようになり、ますます市街地然としてくる。日が昇るにつれアスファルトの照り返しがキツくなり、まだ朝でもあるのに関わらず額から汗が滴る。

 開店前のスーパーのベンチで休憩を挟みつつ、出発から3時間強でようやく屋島の全容を望むことができる新川に差し掛かった。


見事なテーブル状の山容である

 屋島はかつて独立した島であったが、江戸時代前期の寛永14(1637年)の埋め立てによって陸続きとなったという。一応は相引川によって本土から切り離されてはいるものの、実質的には陸続きとして扱われている。

 もっとも、その少し手前を流れる詰田川には渡し舟があったようなので、陸続きになった後も遍路たちはそれで直接屋島に乗り付けていたていたのかもしれない。


屋島の麓には、享保11年(1726年)頃に築かれた「道池」が現存する


その先から、屋島寺への参道が続く

 屋島は高松の観光地として有名であり、遍路以外にも数多くの参詣者が歩いていて賑やかだ。参道も道幅が広く、石畳で舗装されていてとても歩きやすい。

 入口からしばらく登っていくと、右手に古そうな石仏が並んでいた。その足元には石組で組まれた小さな水場があり、なんでも空海の祈祷によって湧いた「加持水」なのだという。干ばつで池や井戸が枯れても、この湧き水は尽きることがないそうだ。


歴史のある屋島らしく、「加持水」を始め古いモノが数多い

 加持水の他にも、空海に梨を所望された人が「これは食べられない梨」だと嘘をついて断ったところ、実際に石のように固くなり食べられなくなったという「不喰梨(くわずのなし)」や、平安時代末期から鎌倉時代にかけて数多くの歌を残した西行が「宿りしてここにかりねの畳石 月は今宵の主ならん」と詠んだ「畳石」など、屋島寺の参道には数多くの伝説が残されている。


畳を何枚も重ねたような形をした「畳石」

 それにしても、やはりというか何というか。予感していた通り今日もまた暑い日になった。屋島寺の参道は木々に覆われているものの、それでも蒸し暑さは変わらず、すっかり汗だくになって吐きそうだ。登り始めてから約30分、ようやく山門が見えた時には正直助かったと思った。


10時半頃に第84番札所の屋島寺へ到着した

 瀬戸内海に面した屋島は瀬戸内航路の要衝に位置しており、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いによって日本軍が唐と新羅の連合軍に敗れた後には、日本への侵攻に備えて屋島にも古代山城が築かれている。

 屋島寺の創建はその後の天平勝宝6年(754年)、朝廷によって唐から招かれた鑑真が奈良へと向かう途中、屋島の山頂から立ち昇るに瑞光に感得し、北嶺に普賢堂を建てたことに始まるとされる。その後、鑑真の弟子であった恵雲(えうん)が堂宇を建立して「屋島寺」と号し、初代住職を務めた。

 弘仁6年(815年)には嵯峨天皇の勅願を受けた空海が屋島寺を訪れ、北嶺にあった伽藍を現在地である南嶺に移し、また十一面千手観音像を刻んで本尊にした。以降、屋島寺は山岳信仰の霊場として栄えていく。

 本尊の木造千手観音坐像は平安時代中期に築かれたものが現存しており、重要文化財に指定されている。本堂は鎌倉時代の前身堂の部材を用いて元和4年(1618年)に再建されたもので、同じく重要文化財である。


全体的には古式ながら、向拝の彫刻に桃山様式を見ることができる

 とまぁ、屋島は古代山城が築かれた山であり、源平合戦の古戦場となった地でもあり、古刹までもが鎮座する。日本史上に度々登場する重要な島であり、また四方を断崖に囲まれたテーブル状の台地地形「メサ」の代表例でもあることから、島域全体が国の史跡および天然記念物のダブル指定を受けている。


屋島寺は山頂に位置していながら池までも存在する

 この池は「瑠璃宝の池」と呼ばれている。空海が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠と共に納めたことからその名が付いたといい、その宝珠を竜神が奪いに来るとも伝わっている。

 また源平合戦の際には壇ノ浦で戦った武士が刀を洗ったため、池の水が血で染まったことから「血の池」とも呼ばれるようになったそうだ。輝ける宝珠にどろどろとした血、対極に位置する呼称である。

 本堂と大師堂でお参りを済ませて納経所へ向かったのだが、団体客が重なってしまったため朱印を貰うのに物凄く時間がかかった。並んでいる人数はさほどでもないのだが、そのひとりひとりが引率のガイドさんで、束になった納経帳をカウンターにドスンと置く。ここの納経所は団体客と個人客を分けたりせず順番に処理していくので、結果的に20人分ぐらい待たされた。今日はかなり頑張る日だと決めていただけに、思わぬタイムロスに焦りが募る。


屋島寺からは、境内の東側から続く遍路道を行く
享保14年(1729年)の地蔵丁石が残る古道である

 続く第85番札所の八栗寺(やくりじ)は、屋島の東隣に聳える五剣山の中腹に位置している。すなわちまたもや山登りだ。この終盤に来ての登山二連発とは、RPGのラストダンジョンにおけるボスラッシュを彷彿とさせる展開である。


木々に囲まれた古道を抜けると、正面に五剣山が見えた。


その先の左手には、何やら立派な墓石が

 なんでもこれは、佐藤継信(さとうつぐのぶ)の墓だという。源氏の郎党であった継信は、源平の屋島合戦の際に平教経(たいらののりつね)の強弓から大将源義経の命を守るべく、矢面に立って身代わりに討ち死にした。その忠義を称えるべく、寛永20年(1643年)に初代高松藩主の松平頼重(まつだいらよりしげ)によって築かれた記念碑的な墓である。

 屋島の東麓に広がる壇ノ浦は屋島合戦において戦場となった地区である(くしくも、源平の最終決戦地となった下関の壇ノ浦と同じ地名だ)。この佐藤継信の墓に始まり、壇ノ浦には屋島合戦にまつわる伝承が数多い。同じく遍路道沿いに鎮座する安徳天皇社は、平宋盛(たいらのむねもり)が都から落ちる際に奉じた安徳天皇の行宮跡と伝わっている。

 さらにその先の屋島東小学校の横に祀られている祠は、佐藤継信を斃した平教経の小姓、菊王丸のものだという。教経が継信を射ると菊王丸はその首を取ろうと駆け寄ったのだ、継信の弟である佐藤忠信(さとうただのぶ)に射られて死亡した。教経は菊王丸の死を嘆き悲しみ戦いを辞めてしまったという。……とまぁ、この辺りは源平合戦に関する史跡ばかりでいとまがない。


菊王丸の墓と伝わる祠

 また壇ノ浦から橋を渡った牟礼(むれ)地区にある洲崎寺は、四国遍路ならば必ず立ち寄りたい寺院である。なぜならその境内には、四国遍路中興の祖とされる真念の墓が存在するのだ。


洲崎寺もまた遍路道沿いに位置している


境内に一段高く祀られているのが真念の墓である

 四国遍路を20週以上巡礼した真念は、貞享4年(1687年)に初の四国遍路ガイドブックである『四国遍路道指南』を発行。現在に通じる八十八箇所の霊場を確定した。また「真念庵」と呼ばれる遍路小屋を建て、数多くの道標を建立するなど四国遍路の普及に尽力し、庶民による四国遍路の流行をもたらした立役者である。

 現在もこうして数多くの遍路が歩いているのは、真念がいたからこそといっても過言ではないだろう。偉大なる先達の墓に手を合わせ、ここまで無事に歩いてこれたことを感謝しつつ、遍路道を先へと進む。


住宅街を縫うように伸びる、緩やかに上る路地を行く


なんか立派な構えのうどん屋に出くわした

 何とも重厚な店構えで、掲げられている暖簾も「うどん本陣山田家本店」とやけに仰々しいものだ。外観が外観なだけに、そんじょそこらのうどん屋と違いかなりお高そうな雰囲気である。……が、現在時刻は12時50分とだいぶ腹が減っている。この先に代わりとなるうどん屋があるように思えないので、思い切って入ってみることにした。


どうやら古民家をリノベーションした店のようである

 改めて調べてみると、このお店は大正時代に建てられた古民家「旧清酒源氏正宗醸造元」を改装したものである。長屋門に至っては江戸時代後期にまで遡り、表通りに立つ灯篭を含む計8棟の建造物が国の有形文化財に登録されている。

 店内に入ると、しっかりとした接客の店員さんが迎えてくれた。「椅子のお席と座敷がありますがどちらにしますか?」と聞かれたので「椅子でいいです」と答えたら、居酒屋のボックス席みたいなところに案内されて驚いた。私はカウンター席を想像していたのだ。さすがの店構えなだけあって普通のうどん屋とは一味違うわいと、おそるおそるメニューを開く。

 立派なお店なだけにお値段も立派……と思いきや、かけうどんは300円と思っていたよりリーズナブルであった。もっとも、他の製麺所とかでは一玉150円とかで食べられることを考えると、高級店なのかもしれないが。


私のような貧乏遍路でも手が届く、ありがたい価格設定である

 味も店構えに負けないうまさであった。普通の讃岐うどんに比べて鰹節のダシがガツンと効いており、塩分も濃い目であるような気がする。食後の余韻がラーメンを食べた後のようであった。一般的な讃岐うどんとは少し違うが、これはこれで非常に美味かつ満足感がある。なにより大量に汗を流した後なだけに、豊富なミネラル分が体に染み渡るというものだ。

 昼食をたっぷりと満喫した私は、クーラーが効いた店内に後ろ髪を引かれながらもザックを背負って歩き出す。八栗寺まであともう少し、そう自分に言い聞かせつつ、じっとりとした熱気に耐えて進む。


程なくして八栗寺の参道入口に到達した

 五剣山はその名の通り五つの切り立った峰が聳えており(右端の五ノ剣はあまり尖っていないが、宝永4年(1707年)の地震により崩壊したとのこと)、なるほど、いかにも山岳信仰の対象になりそうな山容である。八栗寺はその八合目に位置しており、ケーブルカーで上ることもできるようであるが、私は当然の如く歩いて登ることにした。


参道は舗装路であるが、石仏が鎮座していたりと雰囲気がある
近年になり、この左手から続く古道も復興したようだ


およそ30分程で八栗寺に到着した
五剣山をバックに、本堂(右)と聖天堂(左)が並んでいる

 寺伝によると八栗寺の創建は天長6年(829年)、弘法大師空海がこの山で求聞寺法を修めた際に天から五振りの剣が降り注ぎ、山の鎮守である蔵王権現が顕現してここが霊地であることを告げた。空海はそれらの剣を山中に埋め、五剣山と名付けて寺院を開いた。その頂からは四方八国が眺められたことから、開山当時は八国寺という寺名であった。

 その後、空海が唐へ留学する前に、入唐求法の成果を占うべく八つの焼き栗を植えた。無事唐から帰国した空海が再びこの地を訪れると、芽吹くはずのない焼き栗から芽が出ており、それにより八栗寺という寺名に改めたそうだ。

 また八栗寺は木食上人こと以空(いくう)が東福門院から賜った歓喜天を祀る聖天堂があり、「八栗の聖天さん」としても知られている。私は最初本堂と並んでいるお堂を太子堂だと思ったのだが、それは大師堂ではなく聖天堂であった。

 せっかくなので本堂と太子堂のみならず聖天堂にも参拝する。ちなみに本堂の脇からは五剣山への登山道が伸びており、かつては五峯を巡る遍路もいたようだが、現在は崩壊や滑落の危険から立ち入り禁止となっている。


納経を終えて休憩していたら、14時半を回ったので慌てて出発
八栗寺からは県道145号線を歩いて五剣山を下る

 第85番札所の八栗寺の参拝を終え、残すところはわずか3ヶ寺である。今日中には無理であるが、明日には第88番札所まで参拝し終えることができるだろう。結願(けちがん)の時は近い。

 次の第86番札所である志度寺(しどじ)は、ここから約6km離れた志度という町に位置している。納経所が閉まる17時までには余裕で間に合うだろうが、それでも野営候補地のことを考えるともうあまり時間がない。少し急ぎ目に歩くとしよう。


下山の途中、古い道標があってそちらに行きそうになった

 遍路地図を確認すると、どうやらこの道標は番外霊場である六万寺へ続く道を示しているようだ。そう遠回りでもないようなので時間に余裕があっら立ち寄りたいところではあるのだが、残念ながら今回はパスさせて頂く。道標を無視し、そのまま県道145号線を直進した。


山を下ると、二ツ池親水公園に出た

 この公園は、本日の野営地として考えていた候補のひとつ、“あまり頑張らない”方の野宿ポイントであった。……が、実際に現地へ来てみると、ここでの幕営はちょっと厳しそうだ。トイレはあるものの、ちゃんとした屋根のある東屋がないのである。ここでの野宿はキッパリと諦め、残る選択肢は“物凄く頑張る”一択となった。………………頑張ろう。


志度に向かう途中、大量の土管が置かれていてシュールだった


かなり暑いが、昔懐かしい風景に心が癒される


旧街道へと入り、琴電志度線の線路を渡ってさらに進む


八栗寺から1時間強――志度の町に到着した

 志度にはかつて高松藩の米蔵があり、「志度のお蔵」と呼ばれていたそうだ。この石灯篭も嘉永4年(1851年)に蔵の警備のために築かれたものだという。初代の蔵番は喜左衛門良盛という人物が命じられ、以降は代々世襲で務めていた。

 しかしその後の宝暦4(1754年)、四代目の蔵番であった源内が学問を目指して藩務を退役。大坂、京都を経て江戸で学び、全国をまたにかけて数多くの発明や文芸作品の発刊、鉱山事業などを行い八面六臂の活躍を見せた。そう、この源内こそ、エレキテル(静電気発生機)の復元に成功した発明家として知られる平賀源内その人である。この志度は平賀源内が生まれ育った町なのだ。


平賀源内の生家も現存しており、国の有形文化財に登録されている

 残念ながら時間がないので立ち寄ることはできなかったが、志度には平賀源内旧邸をはじめ数多くの町家が残っている。なかなかに良い雰囲気の町並みを眺めながら通りを進んでいくと、その突き当りに第86番札所の志度寺が山門を構えていた。


門前には塔頭が並んでおり、想像以上に大きなお寺である


本堂と仁王門は寛文10年(1670年)の建立で、重要文化財である

 寺伝によると志度寺の創建は飛鳥時代の推古天皇33年(625年)にまで遡るという。海人族である凡薗子(おおしそのこ)が浜辺に流れ着いた霊木で十一面観音像を刻み、堂宇を建てたことに始まるそうだ。

 天武天皇10年(681年)には藤原不比等(ふじわらのふひと)が妻の墓を建立して「志度道場」と名付け、持統天皇7年(693年)には不比等の子である藤原房前(ふじわらのふささき)が行基と共に堂宇を拡張し、学問の道場として栄えていった。戦国時代には荒廃したものの、高松藩主である松平頼重(まつだいらよりしげ)の寄進により再興している。

 お参りと納経を済ませると時間は16時半過ぎ。もう間もなく17時なので参拝はこれまでなのだが、しかし今日はまだまだ歩かなければならない。本日の野営候補地は、志度寺から南へ約7km下ったところにある第87番札所長尾寺の近くに存在するのだ。


日没までに着くよう、急ぎ足で長尾寺を目指す

 今日は志度寺までも結構な距離を歩いたが、さらに体に鞭を打って進まねばならない。これまで私は1日に20〜25km程度しか進んでおらず、30kmも歩けば「あぁ、今日は歩いたなぁ」と思うくらいの遅鈍具合であった。それだけに、40km近くもの距離を歩かねばならない今日はまさに“物凄く頑張る”日である。

 遍路地図では志度から県道3号線をひたすら進むことになっており、面白みの少ない歩道ということもあって気が滅入りつつあったのだが、その途中には地図に載っていない旧遍路道が残っていてモチベーションが回復した。


どうせ歩くなら、車の多い県道より旧遍路道だ


静かな農村集落を通る里道である

 旧遍路道に鎮座する石仏や、傍らで寝そべる猫に和みつつ、されども一歩一歩しっかりと進んでいく。やがて旧遍路道は県道3号線と交差し、その先には玉泉寺というお寺が存在した。


第87番札所長尾寺の奥の院に位置付けられている寺院である

 玉泉寺は弘仁5年(814年)に空海がこの地の霊石で地蔵菩薩像を刻み創建した「霊雲寺」に起源を持ち、日切地蔵尊と呼ばれ信仰されてきた。この辺りは昔から「お大師さんの休み場」とも呼ばれており、門前には遍路を接待するお茶堂が設けられていたそうだ。明治初頭の廃仏毀釈によって廃寺となったものの、昭和5年(1930年)に三豊郡観音寺町(現観音寺市)の玉泉寺を移転して復興したという。


玉泉寺の先で鴨部川に架かるへんろ橋を渡る
長尾寺のある長尾の町はもうすぐ先だ

 18時半過ぎにようやく長尾へ着いたものの、野宿予定地はここからさらに南へ2km進んだ鶴亀公園である。既に棒と化している両脚をなんとか動かし、ロボットのようなぎくしゃくた足取りながらも19時過ぎに鶴亀公園へ到着した。

 鶴亀公園は遍路地図にも大きく表示されているだけに、非常に大きな池を持つ公園だ。これだけ広大な公園ならばと睨んでいた通り、駐車場の脇には巨大な東屋……というか、もはや東屋とはいえないくらいに大きな休憩所が建っていた。私はほっと胸を撫で下ろす。もう辺りはだいぶ暗くなってきており、この公園で野宿できなければ完全に路頭に迷うところであった。


テントを張り、荷物を下ろして夕食を取る

 休憩所のベンチで弁当を食べていると、遍路姿の男性がこちらに向かって歩いてきた。気さくな笑顔で「僕もここで寝て良いですか?」とたずねてきたので、私は「もちろんです」と答える。男性は隅のベンチに座ると、荷物を置いて寝袋を広げた。

 薄暗い中ではあったものの、男性の肘から手首にかけて彫り物が覗いており、明らかに只者ではないことが分かる。話を聞くと遍路は今日から始めたらしく、第1番札所の霊山寺から第88番札所の大窪寺まで歩いたという。なんと、この男性は四国八十八箇所を逆順に周る、逆打ちの遍路であった。

 弘法大師空海は現在も四国八十八箇所を歩いているとされ、その反対方向へ行く逆打ちは空海に出会いやすい巡礼だという。この男性がどのような経緯で逆打ちの遍路を始めたのかは知らないが、その彫り物を見るに、気さくな笑顔からは想像できないような並々ならぬものを背負っているのではないかと思う。

 ――四国遍路は実に様々な人が歩いている。結願を明日に控え、改めてそのことに気付かされたのであった。