遍路59日目:大窪寺前の東屋〜讃岐相生駅(35.1km)






 いつものように5時に起き、いつものように6時になったら出発する。昨日無事結願を果たすことができたものの、私の遍路生活はもう数日だけ変わらず続く。今日は遍路道の環を閉じるべく、第1番札所の霊山寺を目指すのだ。


大窪寺から東へ進むと、すぐに東かがわ市に入った

 朝の山道というのは緑の匂いが濃く実に清々しいものだ。ここ数日、いったい梅雨はどこへ行ってしまったのだと言いたくなるくらいに暑い日が続いていたが、今日はうっすらと雲がかかっており日差しが柔らかだ。涼しい風も吹いており、心穏やかに歩くのに最適な日であろう。


1時間ほど歩いたところで長野という集落に辿り着いた

 大窪寺から霊山寺までの遍路道は、主に二通りのルートが存在する。ひとつは県境に位置するこの長野集落から徳島県へと入り、日開谷川に沿って南下して第10番札所の切幡寺に出るコース。もうひとつはこのまま東へ進んで旧讃岐街道と合流。大坂峠を越えて徳島県へ入り、第3番札所の金泉寺に出るコースである。

 前者は歩く距離が短くて済むというメリットはあるものの、切幡寺から霊山寺まで遍路道を逆走する距離が長く、なんとなくショートカットしているという感じがしてイマイチそそられない。

 一方で後者は途中から海沿いに出て、香川県の東端から徳島県へと入ることになる。すなわちそれは四国の外周を辿る道筋であり、まさに環状巡礼路にふさわしい道筋なのだ。また、それに加えてとある場所に立ち寄ることもできるので、私はこのルートを歩くことにした。


長尾集落から雰囲気のある木橋を渡り、山の中へと入っていく


「八丁坂」と呼ばれる古道の遍路道である


道中には明治時代の道標が残っている
白鳥町まで三里、三番札所金泉寺まで七里とのことだ

 やはり現在は大窪寺から歩く遍路が少ないのか、八丁坂の入口には草が茂っており少しだけ荒れた印象だ。しかし途中からは下草がなくなり、多少は歩きやすくなった感じである。……が、物凄い数の蚊が飛んでおり、わずか800m程度の距離でありながら、山を抜けた頃には腕や脚にいくつもの痕ができていた。


痒みを堪えつつ、境目集落へと降りる


樹齢600年にも及ぶという「境目のイチョウ」
乳と呼ばれる気根が無数に垂れることから乳神として信仰されてきた

 先程の長野集落と同様、この境目集落もまたその名の通り徳島県と香川県の境に位置している。だがここで徳島県側に下るという選択肢は私にはない。そのまま集落を突っ切り、東の中尾峠へと向かう。


中尾峠にも未舗装の遍路道が残っていた
道幅が比較的広いので、明治の馬車道かもしれない


溜池の堤体を横切り、境目集落からの舗装路と合流した


そのまま峡谷に沿って続く車道を歩く
路肩に置かれているのは文化元年(1804年)の遍路墓だ

 最初は鬱蒼とした木々に覆われていたその道も、やがて視界が開けて人家がポツポツと見られるようになってきた。途中には白鳥温泉なる施設もあって気になったものの、まだ時間が早すぎるということもありスルーする。

 大窪寺を出発してから10km強、時計がちょうど9時を指そうとした頃に、私は第二の分岐点へ到達した。


東へ行くか、北へ行くかの分かれ道である

 このまま東へ進むと、現在の東かがわ市の中心部である白鳥町、あるいはその東に位置する引田(ひけた)へと辿り着く。一方で北へ行く道は、三本松という港町に続いている。

 距離的には東へ行く方が近く、北ルートは5km以上の遠回りになってしまうのだが、しかし三本松には今日ぜひとも立ち寄りたいと思っていた場所が存在するのだ。なので、ここはあえて北ルートで行くことにする。


分岐点のすぐ北に三宝寺があった
境内には見事な菩提樹が聳えているお寺である


そこからは県道132号線をひたすら歩く

 なんの変哲もない単調な山道なのでいささか退屈していたそのさなか、星越峠を越えた辺りで車道の右手から未舗装路が伸びていた。遍路地図には表記がないものの、傍らには「四国のみち」の道標が立っており、その道へ進むことを促している。

 四国に張り巡らされた遊歩道である「四国のみち」は、遍路道と被っている部分が少なくない。しかし大窪寺へと至るルートのように必ずしも旧遍路道と一致しているわけではなく、あさっての方向へ通じている可能性も無きにしも非ずである。

 なので遍路地図にない道を行くのは若干不安があるが、意外と昔ながらの古道に出会える事もあるから侮れない。まぁ、虎穴に入らずんば虎児を得ずともいうし、思い切ってこの未舗装路に入ってみることにした。


車の轍が残る林道から沢沿いを行き、ダム湖に通じる遊歩道であった

 結局、この「四国のみち」の道筋には石仏などの古いモノは存在せず、未舗装路とはいえども特に歴史のある古道というワケではなかったようだ。途中からは大内ダムの湖畔を歩き、最終的には堰堤の下に出たので、少なくともダムが建設された後に整備された道なのではないかと思う。

 若干の肩透かしに終わった感があるが、はなからダメ元という感じでもあったので、まぁ、こんなものだろう。やはり「四国のみち」は遍路道と少しズレているという事を確認できただけでも良しとする。


遍路道へと戻り、与田川沿いの県道129号線を行く

 山から里へと下り、遍路道沿いの景色はすっかり田畑が広がる田園風景へと変貌した。この辺りはどうやら水主という地名のようである。先ほど大内ダムがあったように、水不足に陥りがちな讃岐国において、水が出る場所として貴重な土地なのだろう。立派な神社も祀られており、古来よりこの地が水源地として重視されていたのかが良く分かる。

 水主の集落を抜けてさらに進み、与田川を離れて細い路地を歩いていくと、やがて広大な境内を持つ寺院の山門に差し掛かった。これこそが、私が立ち寄りたいと思っていた場所「與田寺(よだじ)」である。


真言宗善通寺派別格本山の寺院である「與田寺」

 與田寺の創建は奈良時代の天平11年(739年)、行基が醫王山薬王寺薬師院という名で開山したとされる。その後に空海が神宮寺と改め、嵯峨天皇によって勅願寺に定められた。中世には1000もの子院を有する讃岐屈指の大寺院として多大に発展したという。

 安土桃山時代には豊臣秀吉による長宗我部征伐の四国攻めの兵火によって伽藍の大部分を焼失したものの、江戸時代初頭に高松藩初代藩主の松平頼重(まつだいらよりしげ)によって復興されている。その後、明治時代に入ってから現在の與田寺に寺名を改めた。


四国八十八箇所の総奥の院に位置付けられている

 この與田寺がある三本松は、かつて近畿地方からの船が行き来する港町であった。ここから四国に上陸する遍路も多く、第1番札所に向かう前に與田寺へと参拝し、結願した後に再び與田寺にお礼参りをして四国を後にしていたことから、四国八十八箇所の総奥の院と称されるようになった歴史を持つ。かつて多くの遍路が結願後に参拝したこの與田寺に、私もまた参拝したいと思っていたのだ。

 與田寺にも四国八十八箇所の各霊場と同じく本堂と共に大師堂があり、その両方で読経してから納経所に向かう。墨書を書ける人がいなかったのか、朱印は納経帳に直接押してもらうのではなく、あらかじめ紙に書かれたタイプであった。

 ちなみに四国遍路の納経帳には第88番札所の次にお礼参りのページが存在する。本来なら一番最初に参拝した霊場として第1番札所の朱印を貰うべきところなのだが、私はあえてそこに與田寺の朱印を張って貰った。総奥の院で〆る形になって、これはこれでキリが良い感じである。


與田寺を後にし、畑の中の道を東へ進む

 こう歩いていて改めて思うのが、道は曲がっているのが自然なのだということだ。道というものは古来より人々が歩いて踏み固められた跡であり、すなわち地形に応じて山や湿地を迂回するなど歩きやすい場所を選びつつ伸びているのが当然である。

 直線の道路など自然の地形を変えうる能力を持った近代以降のものであり、道としては不自然極まりないものなのだ。……そんなどうでも良いことを考えつつ、コンビニでアイスを食べたりと休憩を挟みながら東に向かってテクテク進んでいく。


相変わらず、香川県には溜池が多い


その先に東照寺というお寺があったので立ち寄った

 白鳥町にあるこの東照寺もまた行基により開かれた寺院とされる。その後、弘仁12年(821年)に満濃池の大改修を終えた空海がこの寺に立ち寄り、日本・漢・天竺の三国の土をもって塑像乾漆の薬師如来像を築き、本尊とした。以降、東照寺は田ノ口薬師と称され信仰を集めていったという。住宅街の中にある小さな寺院であるが、その歴史は相当に深いもののようだ。

 東照寺を出ると、遍路道は田畑が広がる白鳥町の郊外を進んでいく。時間は既に13時を過ぎてしまい、すっかりお腹がペコペコだ。いい加減そろそろ昼食にしないと……と思っていたところで、うどん屋を発見した。


国道11号線沿いにあった「陣内うどん」である


かけの大盛りを頂いた

 もうじき香川県を出るので、昼飯のうどん縛りもこれでもう最後になるのだろう。出されたうどんに感慨深く箸を付けると――うむ、今日のお店も当たりである。ほど良い固さのうどんで、小麦の風味が香っている。ダシもちょうど良い濃さだ。いやはや、香川県のうどん店は本当にハズレがない。


腹を満たしたところで、再び遍路道を行く


やがて国道11号線と合流し、視界の奥に引田の町が見えてきた

 引田に到着した私は、町歩きに時間を使うことにした。引田は近畿から最も近い讃岐国の港として重視され、また地形的に風が遮られる天然の良港であることから古くより風待ちの港として栄えてきた。

 また引田は塩や砂糖の生産に加えて醤油の醸造も盛んであり、江戸時代後期には廻船問屋や豪商を営む者も現れた。現在もその通りには、江戸時代から明治時代にかけて築かれた醤油蔵や商家が密集して残っているのである。


引田の通りには厨子二階の商家建築が並ぶ


色鮮やかなベンガラ壁が象徴的な醤油蔵「かめびし屋」

 実をいうと、私は引田を訪れるのも密かに楽しみにしていた。四国八十八箇所霊場総奥の院の與田寺に加え、この町並みの存在もまた大坂峠ルートを選んだ理由のひとつである。一眼レフカメラが壊れてしまっているのが何とも悔やまれるが、iPhoneでできる限りの見所を撮影していくとしよう。


町並みの中心部には「右へんろみち」と刻まれた道標も

 大窪寺から霊山寺を目指す遍路や、先程の三本松から上陸した遍路は、引田の町を通って大坂峠へ向かったのだろう。あるいはこの引田港から上陸した遍路も少なからずいたに違いない。

 歩き遍路であっても大窪寺で結願した後は公共交通で帰る人がほどんどの現在、この道を歩く遍路はそう多くはないのだろう。しかしこの道もまた間違いなく昔から遍路が歩き続けてきた遍路道なのだということを、この古めかしい道標は教えてくれた。


馬宿川に架かる橋を渡り、引田の町を後にする

 たっぷり2時間近くかけて引田の町並みを堪能し、歩行を再開した頃には既に17時を回っていた。香川県と徳島県の境である大坂峠はこの先に待ち構えているのだが、さすがにこの時間から山に入るのはよろしくない。早いところ、野宿に適した場所を見つけねば。

 少し焦りつつ海岸沿いの旧讃岐街道を進んでいくと、ふと独特な雰囲気の石畳が広がる建物に出くわした。最初の印象では酒蔵なのかと思ったが、調べてみるとそうではなく、昔ながらの製糖方法で和三盆を製造している三谷製糖の「羽根さぬき本舗」というお店であった。


石畳敷きの駐車場の奥に、伝統的な建物が並ぶ三谷製糖


店先にはサトウキビの汁を絞る「しめ車」が展示されている

 なんでも三谷製糖は創業文化元年(1804年)の創業であり、高松藩から最初に精糖業を許可された5軒のうちのひとつであるという。以来、現在までこの地で和三盆の製造を続けてきたとのことで、和三盆を使った和菓子を購入することができるようだ。四国遍路のお土産にしても良いかもしれない。……が、さすがに老舗なだけにハードルが高く、今の私の小汚い遍路姿で入るのはためらわれた。

 さてはて、ここまでくると大坂峠はもう目の前だ。引田からここまでの旧讃岐街道沿いには住宅が並んでおり、野宿できそうな公園なども存在しなかった。このままだと山の中の休憩所で寝ることになってしまいそうだが、今日は風がかなり強くテントを張るのが困難な状況だ。万が一、雨にでも降られたら目も当てられないことになってしまうだろう。

 山に入るべきか否か、どうしたものかと悩んでいると、ふと「讃岐相生駅」という標識が目に留まった。もしやと思って見に行ってみると、やはりそこは無人駅である。よし、今日はこのベンチで寝させて貰うことにしよう。


讃岐相生駅のプラットホームから大坂峠方面を望む
明日はあの山を越えて徳島県に入るのだ


駅舎内には七夕の竹飾りがあった

 あぁ、もうそんな時期なのか。四国遍路を始めたのはまだ朝夕に肌寒さが残る4月下旬であったというのに、今や七夕の間近である。

 移り行く季節にセンチメンタルを感じながら一枚の短冊に目をやると、それには「やさいがおおきくそだちますように☆」と記されていた。何とも平和な願いにほっこりしつつ、終電を待ってから寝袋に入ったのであった。