目を覚まして駅舎の隣にあるトイレへ向かったら、東の山の向こうにささやかな虹がかかっていた。これは良い一日になるという吉兆に違いない。 朝食を取ってからトイレの水で粉末のポカリスウェットを溶かし、準備を整えると時間は6時。私は「よし!」と意気込むと、ザックを背負って始発前の讃岐相生駅を後にした。 今日も昨日に引き続き、第1番札所の霊山寺を目指すこととなる。まずは面前に迫った大坂峠を越えて徳島県へと入るのだ。 この道標には「右 おおさかごへ 一ばん四り半 三ばんより逆に」「左 うたつごへ 一ばんへ三り余 大麻宮をへて」と刻まれている。右の道は大坂峠を越えて第3番札所から逆順に第1番札所まで4里半(約18km)、左の道は卯辰峠を越えて大麻比古神社を経由して第1番札所まで3里(12km)余りとのことだ。 私はその存在を知らなかったのだが、卯辰峠は大坂峠よりさらに東にある峠であり、それを越えれば霊山寺や大麻比古神社がある谷筋に直接出られるようである。遍路道を逆走する必要がないルートなのでそちらの方が環状巡礼路にふさわしい感じであるが、残念ながら現在の卯辰峠には車道しか残っていないようだ。 一方で大坂峠はかつて高松と徳島を結んでいた旧讃岐街道にあたり、より多くの人々が往来する幹線道路であった。故に遍路もこの峠道を利用していたのではないかと思う。遍路地図を見ると未舗装の古道も残っているようだし、ここはやはり大坂峠を行くべきだろう。 道の傍らには石仏が鎮座していて確かに昔の道だと思うのだが、それにしては道幅がやけに広いのだ。傾斜も大した事なくなだらかで、所々には整地の跡まで見られる。どうにもこうにも昔ながらの古道という雰囲気が感じられない。そこで私はピンときた。この道は江戸時代以前の古道ではなく、近代に築かれた旧道だな、と。 その私の推測通り、しばらく進んだところには「大坂峠みちの移り変わり」という案内板が立てられており、今歩いてきたこの道は明治8年(1875年)に完成した馬車道であると記されていた。 それ以前の古道は谷間の沢沿いを通っていたようだが、大正5年(1916年)に築かれた現在の県道1号線がその古道を何度も横切っており、おそらく現在は分断されて通行不能になっていることだろう。 古道を確認できたといっても、それはやたらと急かつ獣道のように微かな道筋であり、それが本当に旧讃岐街道なのかは不明である。たとえ本物だとしても峠まで続いているかは分からないので、深追いは避けて引き続き旧道を進むことにした。 馬車道とはいっても上っていくにつれ傾斜が急になっていき、土留めを兼ねていると思われる階段状に整備された登山道へと変化していった。これまでの遍路道と比べて歩く人の数が多くないので落ち葉が堆積しており足を取られやすい。馬車に対応したなだらかな道なので楽勝かと思いきや、意外にも体力を使わされた。 この大坂口番所は江戸時代に徳島藩によって設けられたもので、村瀬家がその業務を執り行っていた。江戸時代は人の移動が厳格に制限されており、武士は各藩が発行する通行手形を、庶民の場合は庄屋や檀那寺、地方役人が発行する往来手形を持っていないと通行することはできなかった。 一般的に江戸に近い幕府の関所では「入鉄砲に出女」の取り締まりを行っていたが、ここでは「入邪宗門に出百姓」と、邪宗門(キリシタン)の入国と百姓の逃亡を防ぐ為の取り締まりが行われていた。番所にはキリシタン禁教の高札が掲げられると共に、踏み絵が行われていたという。 ……なんだろう。十字架はともかく、その横の人物像(宣教師らしい)はテキトーすぎて踏み絵としての効果があまりないような気がする。もっと絵の上手い人に彫刻を頼むべきだったのではないだろうか。あるいは、案外この踏み絵は形式上だけのパフォーマンスに過ぎなかったのかもしれない。 ベンチに荷物を下ろし、自販機で買ったジュースを一気に飲み干す。今更ながら、内側のモモが股ずれでヒリヒリと痛い。昨日、タオルで体を拭いた時には黒ずんでしまっていた。これまで長期間歩き続けてきた弊害であるが、まぁ、それもこれももうじきに終わるのだ。この痛みも甘んじて享受しようではないか。 いやはや、何もかも皆懐かしい。約2ヶ月ぶりの再訪で、実に感慨深いものがある。当時はゴールデンウィークということもあって境内は大勢の遍路でごった返していたが、今は夏に入ろうとしている季節なだけに人の姿はまばらだ。 この金泉寺からは遍路道を逆走することになるのだが、せっかくなので各札所で参拝していくことにした。なぁに、ローソクも線香もまだまだたくさん余っているのだ。無事歩き通すことができたお礼も兼ねて、しみじみとお礼参りさせて頂こう。 覚えのある懐かしい風景を満喫しつつ、噛み締めるように以前歩いた遍路道を遡っていく。時間はもうすぐ昼になろうとしている頃合い。季節が季節な上にこの序盤区間は朝の時間帯に通り抜ける人がほとんどらしく、すれ違う遍路は皆無であった。 これにて四国一周、約1400kmを踏破である。いやぁ、歩いた、歩いた。喜び勇んでお礼参りを済ませ、それから納経所へと立ち寄る。遍路初日にこの納経所で出発時の署名をしたので、それに満願日を記入して締めくくるのだ。 出発者名簿のページを遡りつつ、自分の項目を探し出す。私の後にも数多くの遍路が出発したようだが、私の名前がある4月29日前後のページでは、満願日を記したのは私だけであった。少しだけ誇らしい思いだ。 それから、納経所に併設されている売店で新品の金剛杖を見せて頂いた。店番のおばさんに許可を貰い、私が使ってきた金剛杖と並べてみる。 いやはや、毎日金剛杖を突いていて、自分でも前より短くなったかなとは思っていたのだが、こう見比べてみると一目瞭然である。金剛杖は軽いながらも丈夫で固い木材が使われているのだが、それでも1400kmを歩き通すとなるとこれだけの長さが減るものなのだ。自分が辿ってきた遍路道に思いを馳せながら、改めてその道のりの長さを思い知らされた。 霊山寺を後にすると、時間は正午を回ったところであった。ちょうど目の前にうどん屋があったので、吸い込まれるように入っていく。 さて、腹も満たして人心地ついた。四国八十八箇所をすべて周り切り、さらには環状巡礼路の環を繋ぐこともできて私は大いに満足だ。これで心置きなく四国を後にすることができるというものである。 よし、それでは、四国遍路の最後の仕上げにかかるとしようではないか。四国遍路を終えた遍路が結願を報告しに行くとされるあの場所――高野山の奥の院に参るのだ。 四国遍路は常に弘法大師空海と共にあり、無事に歩き通すことができたのは弘法大師のお導きであり、ご加護のお陰であるとされる。故に結願を果たした遍路は、今もなお空海が生きているとされる高野山奥の院にお礼参りをするのが慣例である。私もまた、その習わしに従いたい。 というワケで、これから徳島港まで歩いてフェリーで和歌山港へと渡り、そこから高野山を目指すことにする。私の四国遍路における、ファイナルステージの幕開けだ。 ここからは遍路地図も標識もないので、自分で道を選んで進んでいくしかない。高徳線に並走する旧撫養街道を東へ進み、池谷駅を越えた直後の踏切から南へ向かう道路へと入っていった。 自分の勘だけを頼りにテキトーに歩いているだけなのだが、意外と昔からある道をなぞることができているようで、道はくねくねと曲がりつつも途切れることなく続いていった。 ……と思いきや、住宅街の中で突然行き止まりにぶち当たり、どっちへ行けば良いのか分からなくなったりもした。うろうろさまよっているうちに吉成駅に出たので、自販機でジュースを買って一休みする。 かつての徳島藩の中心地であった徳島城は、クロッケーに興じるおじいちゃんたちや、水道から水を飲むハトなど、なんとものんびりとした雰囲気だ。 和歌山へ渡るフェリーが出ているターミナルは、ここからさらに5km程東へ行ったところにある。ネットで時刻表を確認すると、今日はあと18時55分の便と21時50分の便があるようだ。とりあえずそのどちらかに乗ることができればOKなので、のんびりしながら行くとしよう。 この福島橋には人柱の伝説が残されている。福島橋は徳島城下と福島・沖洲地区を結ぶ重要な橋なのだが、しかし助任川が氾濫する度に流されてしまっていた。そこで橋を架け変える際、難工事がうまくいくようにと人柱を立てることとなり、六部という通り掛かりの僧侶に懇願して人柱になってもらったという。六部の入った棺は橋台に埋められ、以降49日間鉦を打ち鳴らし続け、橋は無事完成したという。 この六部という僧侶は遍路であったという説もあり、何とも他人事ではない話である。たまたま通り掛かっただけで死ぬことを求められ、橋の下に埋められるとは。現代の価値観では測り知ることのできない逸話である。 さてはて、福島地区からさらに沖洲橋を渡って沖洲地区に来た。iPhoneの地図で確認するとフェリーターミナルはこの南側にあるのだが、そこまで最短ルートで行こうとしたら、細い路地に迷い込んでしまいかなり焦った。 フェリーターミナルというと近現代に埋め立てられた港というイメージがあるが、徳島港はそのすぐ近くにまで密集した住宅地が迫っているようだ。吉野川を始め数多くの川が紀伊水道へと注ぐその河口に位置する徳島の地形上、埋め立てられる土地が少なく、なおかつ埋立てで港を造成しなくても大型船が入れる水深を確保することができるのだろう。 私としては21時50分の便でも良かったのだが、18時55分の便にギリギリ間に合ったので、とりあえずそれに乗船することにした。急いでチケットを買ってフェリーに乗り込むと、すぐに出航の時間となった。 徳島港から和歌山港までの所要時間は2時間と少し。夜の時間を少しでも短くする為にも遅い便の方が良かったかなと思ったのだが、しかし夕日をバックにした四国を見ることができたので結果オーライだ。 船内では特に何をするわけでもなく、疲労によりうとうとしているうちに和歌山港へ到着した。今日はもうこれ以上移動するつもりはなく、フェリーターミナルのベンチで仮眠を取らせて貰うつもりだ。とりあえず最後の便が到着する0時まで、夕食でも取りながらゆっくり待つとしよう。 明日は、この和歌山港から紀ノ川を遡って高野山を目指すことになる。とはいえ、高野山までは60km以上の距離があり、しかも最後の20kmは登山道なので一日で歩き通すのは不可能だ。どこかで一泊しなければならない。 遍路文化が根付いる四国とは違い、その外にある和歌山県で野宿をするには少々不安があるが……まぁ、なんとかなるだろう。たぶん、きっと、おそらく、メイビー。 Tweet |