テントの入口を開け放ち、新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。全てをやり終えた朝にふさわしい、実に清々しい天気である。高野山ケーブルの始発が始まる前にテントをたたみ、荷物をザックにまとめて朝食を取る。さぁ、後は家に帰るだけだ。 ……が、せっかく高野山にまで来たのだから、高野山にある国宝や重要文化財の写真を撮って帰りたい。でも一眼レフは大窪寺で電源が入らなくなってしまったしなぁ。――と何気なくカメラのスイッチを入れてみたら……あれ、普通に動いたぞ。 とりあえずシャッターを押してみると、ちゃんとカシャンと撮影できる。モニタに映っている画像も問題なし。なんで今になって復活したのか分からないが、まぁ、結果オーライだ。さっそく金剛峰寺に下りて写真を撮るとしよう。 金剛峰寺は真言宗の総本山であるが、その境内に建ち並ぶ建造物は火災やら建て替えやらの影響で現存するものは江戸時代後期から昭和初期にかけてと比較的新しい建物が多い。とはいえ、もちろん古いモノも少なからず残っており、中でも不動堂は鎌倉時代の建立と壇上伽藍で最も古く国宝に指定されている。 また金堂の西に鎮座する山王院本殿も室町時代の大永2年(1522年)と中世にまで遡るものであり、重要文化財に指定されている。 これら三棟の本殿は、右から丹生都比売大神を祀る一ノ宮、高野御子大神を祀る二ノ宮、十二王子・百二十番神を祀る総社となっている。丹生官省符神社や丹生都比売神社と同じく、高野山の地主神を祀る御社というワケだ。 空海は仏教をより広める為には日本古来の神と仏の融和が必要と考えた。仏教伝来以来、神と仏はなんとなく共に存在していたのだが、空海は神は仏と同一の存在であるとして仏教に取り込んだのである。その象徴たる例が高野山における土地譲りの伝説であり、地主神を祀るこの社殿である。以降、明治時代の神仏分離令に至るまで、日本は神仏習合の時代が続いていった。 この壮大な書院建築は幕末の文久3年(1863年)に再建されたものだ。屋根の上に防火用の桶が乗っているのが特徴的であるが、かつては高野山に存在した寺院の多くがこのような桶を備えていたという。 屋根の上に防火用水を置く建築と言えば、四国遍路の途中で見かけた愛媛県旧大西町の旧井手家住宅を思い出すが、やはり建築としてのスケールはこちらの方が段違いである。もっとも、いち個人宅と真言宗の総本山を同列に比べるというのは実にナンセンスな話であるが。 金剛峰寺の次は、高野山に残るもう一つの国宝を見ておこう。高野七口のひとつ、高野山から熊野へと至る古道「小辺路」の入口にたたずむ金剛三昧院だ。 高野山の中心である金剛峰寺の壇上伽藍はもちろんのこと、その子院にまでバッチリ祀られているとは、いかに高野山において地主神が重視されてきたのかが良く分かるというものである。空海に高野山の地を明け渡してからも、地主神はずっと高野山の守り神として敬意を払い続けられてきたのだ。 さてはて、高野山に残る二つの国宝建造物をカメラに収めることができた。これで私は満足したので、そろそろ高野山を下りて帰宅の途に就くとしようじゃないか。再び女人堂へと戻り、そこから高野七口のひとつ「京大坂道」へと入る。 京大坂道はその名の通り主に京都や大坂からの参拝者が歩いた道で、現在の大阪府河内長野市から紀見峠を越えて橋本から高野山へと上るルートである。紀の川沿いから高野山へ最短で至る参詣道として、江戸時代を中心に発展した。 大正4年(1915年)に高野山の創設1100周年事業として道の改修工事が行われ、現在の県道118号線が造成された。しかしその新道は険しい坂道を迂回して通された為、不動坂と呼ばれる登山道の一部が今もなお現存している。その古道が残る部分に限り、2015年には「高野参詣道」の一部として史跡に指定され、また2016年には世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成要素に追加された。 この清不動堂から高野ケーブルの極楽橋駅の付近まで未舗装の不動坂が続いており、この区間が史跡かつ世界遺産となっている。……のだが、残念ながら私はその入口に気付くことができず、大正時代の新道(といっても相当古い道路なのだが)を下っていった。 それもそのはず、この古道は新道の開通以降ずっと山に埋もれており、再整備されて人が通ることができるようになったのは、私が歩いた翌年の2012年のことであったという。まぁ、高野山にはまたいずれ行くことになるだろうし、その時にまで取っておくとしよう。 ちょうど電車が出発するところだったので慌てて乗車し、橋本駅で難波行きに乗り換える。座席に座って手摺にもたれかかっていると、たちまち眠気が襲ってきた。そのまま熟睡してしまい、気が付いたら終点の難波である。 時間を確認すると12時を過ぎており、とりあえず私は地下鉄で大阪駅まで行き、その地下街で串カツとビールを頂いた。ほろ酔い気分で新大阪駅へと移動し、東海道新幹線に乗り込む。自由席ではあるものの、平日の午後ということもあって客席はガラガラに空いており悠悠自適だ。 新大阪駅を出発した新幹線は、目まぐるしく景色を変化させながら東に向かって突き進んでいく。頭の中にふつふつと浮かび上がってくるのは、この車窓のようにあっという間に移り変わっていく遍路道の光景だ。短いようで長く、長いようで短い、あまりに濃厚な日々であった。 ふと、この新幹線の線路を歩いたとしたら家まで何日かかるのだろうかという考えが脳裏をよぎった。この2ヶ月間私が歩き続けてきた距離も、新幹線ならばものの数時間で辿り着いてしまうのだろう。だが、歩き遍路には乗り物で通り過ぎるだけでは決して味わうことのできない楽しみがみっちりと詰まっていた。それは遍路道の景色であったり、他の遍路との出会いであったり。いずれも印象的な風景、そして人々ばかりであった。 そういえば、遍路の序盤で出会ったフランス人の二人組はもう日本を離れた頃だろうか。結局、松山の先で分かれてから再会することはなかったが、おそらく無事結願を果たして四国を後にしたことだろう。 彼らはサンティアゴ巡礼というヨーロッパの巡礼文化を通じて四国遍路に興味を持ったと言っていたが、実は私もまた彼らに出会って以降、サンティアゴ巡礼に興味を持ちつつある。私はアジア圏内しか旅行経験がなく、初めてのヨーロッパ旅行で歩き旅とはなかなかに難易度が高そうだが、まぁ、気が向いたらヨーロッパ行きの航空チケットを探してみようじゃないか。 それよりも、目下の目標は元の生活に戻るということである。この2ヶ月間、朝起きたら歩きだし、夕方になったら寝床を探して寝るという、非常に規則正しい生活を送ってきただけに、日常がどういうもなのかをすっかり忘れかけているような気がする。というワケで、以前のような生活に馴染む為のリハビリとして、しばらくは家の中でぐうたらしていることにしようじゃないか。いくら満願成就を果たしても、私のものぐさな性格は変わるものではない。 とまぁ、何はともあれ、とても楽しく、満ち足りた2ヶ月間であった。大変だったことは間違いないが、それを上回る充実感があった。特に結願を果たした時の満ち足りた感覚は、なかなか味わえないのではないだろう。それだけでも、四国遍路を歩いて良かったと声を大にして言えるものだ。
― 終 ―
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