さぁ、いよいよ高野山参詣である。言わずと知れた高野山は、弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から下賜され、弘法大師空海が開いた真言宗の総本山だ。伝教大師最澄が開いた比叡山と双璧を成す、日本密教最大の聖地である。 高野山へ上る参詣道は主に7つのルートが存在し、総じて「高野七口」と称されている。そのうち空海が高野山を開いた際に使用したとされ、以降、数多くの人々が歩いてきた、いわば高野山へのメインルートが「高野山町石道(ちょういしみち)」だ。 町石道が始まるその入口には「慈尊院」という寺院と「丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)」が存在する。まずはこれらの寺社に参拝してから出発しようじゃないか。 慈尊院は空海が高野山を開いた際にその表玄関として伽藍を創建し、政所(寺務所)を置いたことに始まるという。 修禅の道場である高野山は明治5年(1872年)まで女人禁制であった。空海の母親である玉依御前(たまよりのごぜん)が息子が開いた高野山を一目見ようと訪れてきたのだが、女人禁制により入山することができず麓の政所に滞在していたという。空海は母親に会うべくひと月に9度も高野山から政所に通っていたとのことで、この地が「九度山」と呼ばれるようになったそうだ。 承和2年(835年)に玉依御前が死去すると、空海は廟堂を建てて母親の霊と母親が篤く信仰していた弥勒菩薩を祀り、慈尊院と呼ばれるようになった。以降、慈尊院は女人結縁の寺として信仰を集め、「女人高野」として発展していった。 丹生官省符神社もまた高野山が開かれたと同時に創建された神社である。現在の祭神は丹生都比売大神、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神の四柱。かつては天照大御神、誉田別大神、天児屋根大神を加えた七柱であり、神宮寺の神通寺と併せて「神通寺七社明神」と称されていた。 かつて空海が根本道場の地を求めて行脚していたところ、猟師に高野山の存在を教えられ、猟師が飼っていた2匹の犬の案内により高野山へ辿り着いた。実はこの猟師は高野山の地主神である狩場明神であったのだ。空海は高野山の入口に狩場明神の正体とされる高野御子大神、およびその母親の丹生都比売大神を祀ったのが丹生官省符神社の始まりである。 これら慈尊院および丹生官省符神社は高野山に密接に関わる寺社であり、町石道の起点でもあることから、町石道の一部として国の史跡に指定されており、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成要素にも含まれている。 高野山町石道はその名の通り町石と呼ばれる五輪塔型の石柱が1町(約109m)ごとに立っており、高野山までの道標とキロポストの役割を兼ねている。遍路道にも同じような丁石が存在したが、それらの大部分が江戸時代に築かれたものだったのに対し、この町石が築かれたのは鎌倉時代というから驚きだ。さすがの高野山なだけあって、歴史の厚みが段違いである。 ちなみに慈尊院の境内に立っている町石は180町、すなわち高野山まで約20kmの道のりだ。急傾斜のコンクリート舗装路をえっちらほっちら上り、ようやく現れた次なる町石を見ると170町。まだまだ先は長い。 町石道は文永2年(1265年)から20年の歳月をかけて整備されたのだが、その際にこの石の上に銭を入れた壺を置き、労働者の給金として掴み取りさせていたという。しかし銭壺は上部がくびれている構造なので、たくさん掴もうとしても手が引っかかって抜けなくなってしまう。結局、大きな手の者でも小さな手の者でも掴める銭の量は大差なかったそうだ。なるほど、良く考えられているものである。 この尾根には町石が至近距離に2基並んでいて妙だと思ったのだが、これは奥のものが144町の町石で、手前のものは「一里石」であった。慈尊院から1里(約4km)すなわち36町ごとにこのような里石が置かれているという。町石と全く同じ見た目なので、いささか紛らわしい。 尾根道はだらだらと続いており、道の険しさとしては焼山寺道などの遍路転がしと比べると楽な方だろう。ただただ、とにかく距離が長いのでひたすら歩き続けることになる。もっとも、一定距離ごとに町石が立っているので励みになるし、進んでいくごとに景色も変化していくので、歩いていて楽しい道ではあるのだが。 いくつかの分岐点を越え、10時前に残り120町の地点である「二ツ鳥居」に到着した。その隣には屋根付きの休憩所が設けられており、ベンチに座って一休みする。 この休憩所はかなり広いので野営地としても良さそうだが、水場がないのが難点か。……って、どうも東屋の類を目にすると、無意識のうちに寝床に適した場所かどうか評価するようになってしまった。野宿遍路の悲しきサガである。 町石道の西に広がる天野には、「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」が鎮座する。この二ツ鳥居の横からは天野へと下る「八町坂」が分岐しており、何でも昔から町石道を行く参詣者は高野山の前に丹生都比売神社へ参拝するのが習わしであるという。私もまたそれに従い立ち寄ってみることにした。 八丁坂という名の通り約800m続く九十九折りの坂道を下っていくと、天野の里へ入った辺りに二基の五輪塔が立っていた。横に立っている案内板によると、どうやらこれは「院の墓」らしい。鳥羽天皇の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)の墓……ではなく、院に仕えた中納言局(ちゅうなごんのつぼね)の墓だという。 平安末期に歌僧の西行が記した歌集『山家集』によると、中納言局は待賢門院の喪に服した後、京の住まいを離れて天野に移り住んだという。中納言局は西行と縁が深く、西行がいた高野山へ続く八丁坂の入口に庵を結び、死去した際には里人によって葬られたそうだ。 また院の墓の少し先には「有王丸の墓」も存在する。有王は平家打倒を企てた僧都の俊寛(しゅんかん)に仕えていた人物で、密告によって陰謀を暴かれた俊寛は鬼界ヶ島に流され朽ち果てた。有王は俊寛の遺骨を高野山に納めて僧侶となり、この天野で生涯を終えたという。また俊寛の娘も天野で尼になったと伝わっている。 さすがは高野山のお膝元なだけあって、高野山に纏わる人々のドラマチックな伝承が数多く残る里である。 丹生都比売神社は高野山が開かれる以前より存在する古社であり、祭神は丹生官省符神社と同じく丹生都比売大神、高野御子大神、大食津比売大神、市杵島比売大神の4柱。丹生都比売神を祀る神社の総本社で、紀伊国の一の宮でもある。 奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」の名で記されており、高野山の周囲一帯は丹生都比売神社の神域であった。その後、狩場明神の導きにより高野山は空海へと譲られ、丹生都比売神社の神域も高野山が領すようになったという。 高野山の創建に深く関わる神社であり、なるほど高野山詣でに欠かすことのできない霊場である。その歴史から、丹生都比売神社とそこから八丁坂へと至る八丁坂もまた世界遺産に含まれている。 丹生都比売神社に残る建造物のうち、楼門は室町時代中期の明応8年(1499年)、四棟並ぶ本殿のうち第一殿が江戸中期の正徳5年(1715年)、第二殿と第四殿が室町時代中期の文明元年(1469年)、第三殿が明治34年(1901年)のものであり、それら計5棟が重要文化財に指定されている。 拝殿横のベンチでしばらく休憩してから、先程下りてきた八町坂を登って町石道へと戻る。ザックの重みが肩に食い込む中、息を切らしつつひたすら登り、二ツ鳥居まで辿り着いた頃には全身汗だくになっていた。 これは「白蛇(はくじゃ)の岩」というらしい。かつて高野山から丹生都比売神社へ向かっていた僧侶が、この岩の隙間に入り込もうとした蛇を杖で突いて驚かせた。その帰り道、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付いて僧侶を待ち構えていた。僧侶は自分の非を悟り、丹生都比売神社で祈祷をして戻ってくると既に大蛇は消えていたという。 以降、この岩には白蛇が棲んでいるとされ、お参りをして白蛇の姿を見ると幸せになると伝えられている。私も物は試しに大岩に向かって祈りを捧げてみたが、残念ながら蛇が姿を見せることはなかった。 この辺りには開けた平地が広がっており、ちょっとした集落が形成されている。応其池と呼ばれる古い溜池もあり、かつて集落の周囲には田畑が広がっていたことだろう。……が、現在はゴルフ場として開発されており、町石道はその敷地の縁をなぞる様に続いている。 歩きながらふと横を見るとゴルフカートが走っていたり、町石道の上にもゴルフボールが転がっていたりと、古道の雰囲気がだいぶ削がれてしまっている気がする。もっとも、戦後の様々な開発によって分断されたり失われたりする古道が多い中、古来からの道筋が残されているだけでもマシなのかもしれないが。 笠木峠からは尾根沿いの平坦な道を南へ進み、徐々に高度を落としていく。さらに2km程進んだところで国道370号線が横切る矢立峠に出た。時間は既に13時を回っていたのでここで昼食を取ることにした。アンディーウォーホールの絵のように熟し切ったバナナを胃に押し込め、高野山までの体力を充填する。 残すところは60町――約6.5kmである。どうやら納経所が閉まる17時までに奥の院まで辿り着けそうな感じである。さぁ、ラストスパート、気張って行くとしようじゃないか。 これは空海が袈裟を掛けたと伝わる岩で、ここから高野山の清浄結界となるらしい。鞍のような形をしており、この岩の下を潜ることができれば長生きできると言い伝えられている。……が、穴が狭すぎるのでこれを潜れるのは子供ぐらいなものだろう。 少なくとも私にはどう見ても無理なので試すことすらしなかったが、頑張って潜ろうとする人は少なくないらしく、穴の下の土が擦れてツルツルになっていた。まったく、無茶をして。穴に体が引っかかって出られなくなってしまったらどうするのか。 こちらは「押上石」と呼ばれている。空海の母親である玉依御前が結界を乗り越えて入山しようとしたところ、たちまち激しい雷雨が襲ったという。空海はこの巨岩を押し上げ、その下に母親をかくまったという。 四国の遍路道沿いにもやれ水を湧かせただの鯖を生き返らせただの超人的な弘法大師伝説が数多く残されていたが、高野山はその本拠地なだけあって伝説のスケールが違う。巨石を押し上げて天災から母親を守るなど、超能力の枠を超えてもはやアメコミヒーローのような無敵っぷりである。 なんというか、あまりにいわれのある岩が多すぎて、町石道沿いに転がっている岩のすべてに伝説があるんじゃないかという感じである。ちなみにこの鑑岩は表面が鏡のように平らであることからその名で呼ばれ、この岩に向かって真言を唱えると心願成就できるという。 現在は苔や草が生えていてあまり平らには見えないが、昔はもっと滑らかでピカピカ光っていたのだろうか。とりあえず手を合わせてから先へと進む。ここまでくれば、高野山はもう目と鼻の先に迫っているはずだ。 いやはや、なんとか無事に町石道を乗り越えてここまで来ることができた。時間は15時過ぎと、まぁ、おおむね予定通りな感じである。まずは高野山の中心である壇上伽藍と金剛峰寺へ。それから奥の院で弘法大師にご挨拶だ。 高野山とは特定の山の名前ではなく、八つの峰に囲まれた盆地の総称である。その中心に真言宗総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)とその根本道場の壇上伽藍が鎮座しており、それらの周囲に117ヶ寺にもおよぶ子院が建ち並んでいる。盆地内だけで完結するその町並みは、まさしく宗教都市といった様相だ。 高野山は全域が金剛峰寺の境内にあたり、そのうち「大門地区」「伽藍地区」「本山地区」「奥の院地区」「徳川家霊台地区」「金剛三昧院地区」の計6箇所が国の史跡に指定され、世界遺産の構成要素となっている。 さすがは日本屈指の仏教聖地なだけに、奥の院には古今東西様々な人物の墓が密集している。中でも目立つのは戦国武将の霊廟だ。織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、上杉謙信などなど、まさにオールスターといった錚々たる顔ぶれである。中には建築的な価値が高く、重要文化財に指定されている霊廟も存在する。 参道の入口から石畳を歩き続けること約1.5km。ようやく奥の院の最奥部、弘法大師空海の入定地である御廟に辿り着いた。今もなお空海が生きているとされる聖地中の聖地である。 これで正真正銘最後のお参りだ。背筋を正して読経を始める。開経偈に始まり、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒を一句一句丁寧に唱える。続いて般若心経を読み、光明真言を3遍、高租宝号を3遍、最後に回向文で締める。全てを読み終えた時、私は自分の肩が軽くなったような感じがした。 四国遍路の納経帳は、一番先頭のページに高野山奥の院の欄が存在する。そこに御朱印を貰うことで、私の納経帳は完成した。これにて満願成就、すべてが終わったのだ! ……と、歓喜に沸くのも束の間、時間は17時をちょうど回ったところ。これから日没までに寝床を確保しなければならないという現実が待っている。私は奥の院入口のベンチでメローイエローを飲みながら、寝床の確保について思案した。 実は私は以前にも高野山に来たことがあり、その時にはユースホステルを利用した。今回もまたユースのお世話になろうと思っていたのだが、先日予約をしようと電話番号を調べたところ、いつの間にか営業をやめてしまっていたのである。完全にアテが外れてしまった。 高野山には宿坊が多いが、いずれもかなりお高めの値段設定で私のような貧乏遍路には手が出せない。最後の手段として高野山を下りて電車で大阪まで行き、数ヶ月前まで私が勤めていた会社の後輩の家に泊まらせて貰おうとも考えたのだが、電話を掛けてもまったく繋がらなかった(後から知ったことだが、彼もまた既に会社を辞めていた)。 この女人堂は高野七口のひとつである「京大坂道」における高野山の入口に位置している。女人禁制が解かれる前は、女性はこの女人堂でお参りをして下山したそうだ。 この女人堂の奥には高野山ケーブルカーの駅があるはずなのだが、なんと女人堂から先はバス専用道路ということで徒歩であっても立ち入り不可であった。大した距離でもないのに、バスに乗らなければならないのは癪である。 幸いにも、この女人堂の横にはテントを張れるスペースと公衆トイレがある。高野山の中心部から離れているので日没後は訪れる人もいないであろう。今日はここで最後のテント泊をし、明日改めて徒歩で下山することにした。 私は遍路を始めてからこれまで野宿をする時は完全禁酒を貫いてきたのだが、この高野山奥の院へのお礼参りをもって四国遍路を終了ということでアルコールを解禁である。四国八十八箇所霊場、そして高野山まで無事歩き通すことができたお祝いということで、ただのビールではなくプレミアムモルツである。緩やかにアルコールが体に回り、目標達成の多幸感と高揚感もあってすっかり気分は上々だ。 日が落ちて夜の帳が下りると、人里離れた女人堂は闇に包まれ真っ暗である。空を見上げると、木々の間から零れ落ちんばかりの星々が見えた。そういえば、私はこの遍路においてあまり星を見てこなかった気がする。歩き疲れてすぐ寝てしまうのでしょうがないのだが、まぁ、その分、今夜たくさん見ておくとしよう。 Tweet |