私が寝袋の中で気持ちよく寝息を立てていたところ、突然アルベルゲの照明が全部付き、スピーカーから大ボリュームで音楽が流れだした。すわ何事かと飛び起き、思わず周囲を見渡す。時計が指していたのは6時ちょうど。どうやら起床時間のようである。 この突然の照明と音楽は、「さっさと起きやがれこの寝坊助め!」というアルベルゲからのメッセージなのだろう。いやはや、巡礼を始めて一ヶ月以上が経つが、起床を強要されたのはこれが初めて事であった。さすがは“巡礼者収容施設”である。 フランスでノンビリ巡礼生活が染み付いてしまっている身にとって、せかせかした行動はどうも苦手である。しばらくボーっとした後、7時に朝食を取り、それからしばらくKさんと情報交換をした。……すると係員のおばちゃんがやってきて、もう8時になるから早く出ろと言う。う〜ん、しょうがない、それでは歩くとしましょうか。 ちなみに、Kさんとはこのロンセスバージェスでお別れである。これで3度目のサンティアゴ巡礼のKさんは、今回は私が歩く「フランス人の道」ではなく、スペインの北岸を行く「北の道(Camino del Norte)」を歩くのだそうだ。ロンセスバージェスからバスに乗り、「北の道」の拠点の町に移動するとの事である。 Kさんにはフランスの「ル・ピュイの道」で宿を予約して頂いたり、サンティアゴ巡礼についての情報を山ほど教えてもらったりと、これまで何度も助けられてきた。ここでお別れなのは少し寂しい気もするが、まぁ、お互い目指す場所は同じである。最後に「ブエン・カミーノ!(良い巡礼を)」と挨拶し、私は巡礼路を進んで行った。 ロンセスバージェスから続くこの一帯は、かつて魔女の森として恐れられていたそうだ。その中、この十字架は道の守護として立てられたものだという。このような歴史的モニュメントが点在しているところに、改めて道の歴史の古さが感じられる。 なお、スペイン内のサンティアゴ巡礼路のうち、この「フランス人の道」、及びピレネーの別の峠を越えてこの先の「プエンテ・ラ・レイナ」という町で合流する「アラゴンの道」は、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産である。 この世界遺産に含まれる構成要素は膨大な数に及ぶので全ては把握しきれていないが、この二本の巡礼路の他、その途上に位置する教会や修道院、橋、村など、サンティアゴ巡礼に深く関わってきたモニュメントも包括して世界遺産になっているようである。古くから巡礼者を受け入れてきたロンセスバージェスの修道院もその一つだろう。 このブルゲーテという村は、ヘミングウェイゆかりの地として知られている。ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」で主人公がマス釣りの為にやってきたのがこの村だ。またヘミングウェイ自身もここに滞在し、マス釣りを楽しんでいたという。 それ程大きくはない村ではあるが、村の入口にはちょっとしたスーパーもあり、私はそこでバケットやサラミなどを昼食用に購入した。 また村の中心には立派な教会もあり、せっかくなので中に入ってみようと扉を押したものの、残念ながら鍵が掛けられており開かなかった。フランスでは村の教会は開放されているのが当たり前であったが、スペインでは逆にそのほとんどが施錠されている。もちろん、それには理由があるのだが……。 私は朝8時に出発したものの、ほとんどの巡礼者はそれよりも早い6時とか7時には出発したようだ。スペインは日中の日差しが殺人的に強烈であり、日の出前の涼しいうちに出発するのが当たり前らしい。それを聞いて、私は「ふーん」という感じであった。だって、暗いと景色が見えないじゃない。そんな中、歩いてもつまらない。 宿を遅く出た事によるメリットは他にもある。歩いている巡礼者の数が少ないのだ。昨日のピレネー越えではあれ程いた巡礼者も、今日はまばらにしか見かけない。行列になる事もペースを乱される事もないので、のんびり歩く事ができる。 巡礼者がだいぶ少ない時間帯とはいえ、それでも歩いている人の数は「ル・ピュイの道」より多い。人が多ければそれだけ色々な人がいるものだ。私がエスピナルの入口に設置されていたベンチに座って休憩していると、スペイン人のおばさん巡礼者が数人やってきて、私の横に腰掛けた。 私は少なくなった水を補充しようと、座っていた場所にザックを置き、数メートル離れた水場に移動してペットボトルに水を汲んだ。そして振り返ると、なんと私がザックを置いた場所に、いつの間にか別のおばさんが座っているではないか。私のザックはベンチの横に転がされていた。 話に夢中になっているおばさん巡礼者たちの横で私はザックを担ぎ上げ、そのままベンチを後にした。そして歩きながら、ピレネー山脈が隔てているものは相当に大きいのだなのだとため息をつく。この事もあり、スペインに入った直後、私のスペイン人に対する印象はあまり良いものではなかった。 エスピナルを出てからは丘陵に開かれた牧場の中を歩く。ピレネーから標高を下げていく道のりの為か、この辺りは基本的に下りが主で、上りがあっても傾斜はそれほど急ではない。尾根からの眺望も良く、道中には花も咲き、歩くのが楽しい区間である。 坂を下り、比較的平坦な道を歩いて行くと、後ろから長身の男性がやってきたので歩きがてらに少し話をした。男性はノルウェーから来たらしい。確かに髪の色もブロンドというより灰色に近く、北欧系の雰囲気が漂っていた。物腰も柔らかく、話していてなかなか気持ちの良い人である。 男性は私よりも歩くのが早いので先に行き、私は自分のペースでのんびり歩く。しばらくして先ほど山の上から見た村、ビスカレッタ(Viscarret)に到着した。小さな村だが雑貨屋もあり、私はここで昼食にする事にした。まだ11時半と少し早いが、まぁ、良いだろう。 雑貨屋に入って品物を見ていると、ふと缶ビールが目に留まった。張られているラベルには0.4ユーロとある。田舎の小さな村なので物価は高めの設定だと思うが、それでもこの値段。スペインの物価はフランスよりだいぶ安いようだ。これはありがたい。 雑貨屋の前にある石段に腰掛けてザックを下ろし、フランスパンとサラミをナイフで切り分けて食べる。ぽかぽか陽気の下で片手にビール。いやぁ、たまらんですな。 ホンワカ気分になった私は荷物をその場に置き、雑貨屋でもう一本ビールを買う。そして戻ってみると……あれ?サラミが無くなっている。周囲を見渡すと、そこにはサラミの包装が落ちており、またその近くに猫がうろついていた。むぅ、犯人はお前か! 盗品の現物は依然行方不明なのでこの猫が犯人とは決まったワケではないが、まぁ、おそらくはこの一派の仕業であろう。うぬぬ、まさか盗賊団の襲撃を受けるとは、油断大敵である。まぁ、かわいいから許すけど、サラミなんて塩分の高いものを与えてしまった事は反省だ。慌てて食料をザックの中に隠し、買ってきた追加のビールを飲み干した。 さてそろそろ行こうかと立ち上がったところ、突然「アニョハセヨ」と韓国語で声を掛けられた。そこには、私と年齢が同じか少し下くらいの女性と、やや年上な感じの女性が二人。おそらく、姉妹なのだろう。あまりに不意であったので、私は思わず「あ、こんにちは」と日本語で返事をした。 彼女たちはきっと私を韓国人だと思って声を掛けたのだと思うが、私が日本人だと分かってもなお好意的であった。名前はシンさんと言うらしい。話によると、韓国では数年前にサンティアゴ巡礼の本が出版され、それがきっかけに現在サンティアゴ巡礼のブームが起きているそうだ。実際、このお二人を皮切りに、「フランス人の道」では度々韓国の方とご一緒する事になる。 リンソアインのバルで昼食休憩を取る巡礼者たちを通り過ぎ(そこには、ノルウェー人男性の姿もあった)、私は村を出て山へと向かう。ここの上りはかなり急な坂道で、ビールを二本飲んだ後の私にとってなかなかしんどい道であった。ある程度登ると道は平らになったものの、私はすっかり汗だくである。 とりあえず木陰の丸太に座り、休憩を取る。買っておいたミネラルウォーターを開けて飲んだが、これが酷くマズくて驚いた。少し塩気があり、またニガリのようなエグ味があるのだ。どんなミネラル分が入っているのか知らないが、普通の水を飲みたかった私としてはこれは辛い。 私が顔をしかめながら水を飲んでいると、韓国人女性の二人がノルウェー人男性と一緒に歩いてきた。どうやら先程の村で仲良くなったようである。私を見るや否や、妹さんが「コンニチハサン!」と私に向け手を振った。最初に声掛けられた時に「こんにちは」と挨拶した事で、彼女たちの中で私は「コンニチハさん」というあだ名になったようだ。う〜ん、まぁ、いいか。私もまた三人を笑顔で見送った後、再び歩き出す。 これは一体何だろうと足を止め、掲げられているプレートを見る。すると、そこに書かれていたのは……「SHINGO YAMASHITA」、日本人の名前であった。続いて「PEREGRiNO JAPONES FALLECiDO EN AGOSTO DEL 2002 A LOS 64 ANOS(2002年8月に日本人巡礼者が死去、64歳)」の文字。そう、これは慰霊碑だったのである。2002年にヤマシタ・シンゴさんが、ここで亡くなっていたのだ。 スペインの8月は、恐ろしいくらいに暑いらしい。しかも険しい上り坂の後という事もあり、ここで力尽き倒れてしまったのだろう。私はこの慰霊碑を見て、巡礼5日目の夜にナスビナルのジットで亡くなった二本杖ご夫婦の奥さんを思い出した。やはり、サンティアゴ巡礼において、死というものは身近な存在なんだと改めて実感した。 スペインの巡礼路は黄色い矢印が基本であるが、このようなモホンと呼ばれる道標も随所に立っており、巡礼者に道の方向を教えてくれている。 ペンキで描かれた矢印は、場所によっては見えにくかったり、消えてしまっていたり、酷いところではバルなど自分の店に誘導する偽の矢印が描かれていたりする事もある。しかしこのモホンはコンクリート製のしっかりしたものなだけあって、信憑性が高い。これがある道は間違いなく巡礼路だ、という安心感がある。 「狂犬病橋」と呼ばれるこの橋は、バスク語で「橋の村」という意味を持つズビリの象徴的存在である。その橋脚下には聖人キテリアの遺物が埋まっているとされており、狂犬病にかかった動物を連れてその橋脚を3度回ると、たちどころに狂犬病が治るという。また、この橋の袂にはハンセン病患者を収容する「聖マグダレーナ病院」があったが、それはカルリスタ戦争の際に兵舎として使われ、1836年に破壊されている。 さて、スビリに到着したのは15時ちょうどである。先に進むには微妙な時間なので、宿を確保する事にしよう。私は狂犬病橋を渡り、村の中心へと進んだ。 フランスのジットと同様、スペインのアルベルゲには公営のものと私営のものが存在する。公営は5〜10ユーロ、私営だと7〜15ユーロと、当然ながら公営の方が安い。高い分、私営の方が色々充実している事が多いのだが、できるだけ倹約したい私は公営のアルベルゲを中心に利用していた。 この村の公営アルベルゲはどこにあるのかとキョロキョロしていると、一軒の私営アルベルゲの前でカナリア諸島の男性と会った。彼もまた、今日はここまでなのだそうだ。私は男性に公営アルベルゲの場所を尋ねると、「それならこの先の道路を右に行ったところだよ」と教えてくれた。私は礼を言ってそちらに向かう。 スビリの公営アルベルゲは、学校を再利用した感じの建物であった。写真手前の建物がメインのベッドルームだが、満室の時は奥の体育館を利用する事もあるようだ。 私はとりあえずオスピタレオ(アルベルゲを仕切る世話人)の元へ行き、巡礼手帳を出して受付を済ませる。宿泊費は6ユーロであった。幸運にも二段ベッドの下段を確保できた私は、とりあえず寝袋をシーツの上に広げ、それからシャワーに向かった。 これには私も少々びっくりした。これまで泊まってきた巡礼宿のシャワーは個室か、もしくはシャワーごとに仕切りのあるタイプであった。しかしここは完全あけっぴろげ、隣の人と肩を並べながら浴びるタイプである。 日本人は温泉などで他人に裸体を晒す文化があるのでまだマシだが、欧米人はこのタイプが苦手な人が多いようだ。現に、私の隣でシャワーを浴びていたおじさんはとても恥ずかしそうな様子であった。 夜、食料袋を抱えてキッチンへ入ると、そこには例のシンさん姉妹がいた。彼女たちもまた、このアルベルゲに泊まっていたのである。二人は既に食事を終えた様子であった。私はスパゲティを茹でようとコンロに近づいたところ、妹さんがカタコトの日本語で「コンニチハさん、食べて」と私に鍋を差し出した。その中に入っていたのは、おぉ、ご飯じゃないか!ヨーロッパに来てからなかなか食べる事の無い、白米である。これは非常にありがたい。私は「カムサハムニダ」と謝意を述べ、その鍋を受け取った。 スパゲティも茹で上がり、それでは食べようかとフォークを探したものの、キッチンのどこを探しても見当たらなかった。なんと、このアルベルゲは鍋や皿はあるものの、スプーンやフォークは用意されていなかったのである。しょうがないのでキッチンの外に出て、テキトウな木の枝を拾い、それをナイフで削って箸とした。公営アルベルゲは宿泊費が安いだけに、こういったトラブルも起きがちである。 短い手製の箸で四苦八苦しながらスパゲティとご飯を食べ終え、ボトルに残ったワインを飲みながら食器を洗っていたところ、ちょうどスペイン人の女性が食事を始めようとしているのが見えた。皿に盛られたスパゲティの上に、黒いものが散りばめられている。え、それって……まさか海苔?! パッケージを見せてもらうと、それはまさに日本製の海苔であった。私の認識では、海苔は日本を中心とする東アジアだけで食べられるものであり、特に欧米人はカーボン紙のようだと言って敬遠する人が多い、そういうものであった。 しかしこの女性のスパゲティは海苔がてんこ盛りである。私が知らなかっただけで、寿司などと同じように欧米にも海苔食文化が広まっていたのだろうか。それとも、単に個人的な嗜好なのだろうか。まぁ、海苔は海藻なので体にも良いだろうし、ベジタリアンの人なら食べていても不思議ではない……かな。 私は洗った食器を片付け、おいしそうに海苔スパゲティを食す女性の後ろ姿を横目にベッドへと向かった。う〜ん、謎である。 Tweet |