朝7時、私は少々眠気が残った頭を振りながらサン=ジャン=ピエ=ド=ポールの旧市街を歩いていた。昨夜、私は二段ベッドの下段に寝ていたのだが、そのベッドがかなりガタガタなもので、上段の人が寝返りを打つ度にベッドが揺れるのだ。その揺れっぷりは、地震の夢を見て二度目を覚ました程である。 しかしまぁ、その眠気もノートルダム門をくぐった辺りにはすっかり消え去っていた。これからピレネー山脈を越えスペインに入るという興奮の方が、圧倒的に上回っていたのである。そう、私はいよいよ国境を越えるのだ。 町を出て、しばらくは道沿いに家屋が点在する郊外の風景である。サン=ジャン=ピエ=ド=ポールからは「フランス人の道」と巡礼路の名こそ変わるものの、これまでの「ル・ピュイの道」と同様に赤白マークの道標が巡礼者を導いてくれている。 この黄色い矢印は、スペイン国内におけるサンティアゴ巡礼路の道標である。現在はまだフランス内なので赤白マークとの併記であるが、スペインに入った後は赤白マークが無くなり、矢印のみを頼りに歩いて行く事になるのだろう。 矢印だと行くべき方向がはっきり示されるので赤白マークよりも分かりやすいのだが、電柱に描かれたそれはなんだかペンキで殴り書きしたような感じであり、上品さは赤白マークの方が上という印象だ。フランスの赤白マークにスペインの黄色い矢印。巡礼路の道標がそのままお国柄を表しているようでもあり、なかなかに興味深い。 「フランス人の道」に入って明らかに変わった事として、巡礼者の増加が挙げられる。サン=ジャン=ピエ=ド=ポールで見かけた人の数からも容易に想像できた事ではあるが、いやはや、思っていた以上の増えっぷりである。 巡礼者の国籍は様々で、必然的に路上で聞かれる言葉は英語が主である。まだフランス国内なのにも関わらず、フランス語はすっかり息をひそめていた。巡礼者を追い越す、また追い越される際、私はいつものように「ボンジュー」と挨拶するものの、帰ってくる言葉は「ハロー」か「オラ(スペイン語の挨拶)」、または「ブエン・カミーノ(スペイン語の巡礼者同士の挨拶)」である。 ピレネーの巡礼路は非常に景色が素晴らしく、また心配していた天気にも恵まれた事もあり、最高に気持ち良く歩く事ができた。 この道では天気が悪いと遭難者が出る事もあるらしく、日本では2012年(なんと、私がサンティアゴ巡礼路を歩いていた時だ!)に公開されたサンティアゴ巡礼の映画「The Way」(邦題「星の旅人たち」)の冒頭でも、主人公の息子がこのピレネー越えで遭難し、死亡している。 私もまた彼のピレネー山脈を越えるという事でキツイ登山に臨む心構えであったが、しかし実際には険しい部分はそれほど無く、のんびりピクニック気分であった。雨が土砂降りだったり雪が積もっていたりしなければ、まぁ、心配する必要は無いだろう。 途中にあるオリソンという場所の宿には公衆トイレが設置されていた。ちょうど催していたのでありがたくお借りする。すっきりした顔でトイレから出ると、そこには日本人のご夫婦がいた。旦那さんの方は頭にハチマキを巻いており、お二人が話していた言葉も日本語である。この「フランス人の道」では、やっぱり日本人も結構歩いているのだな。私は少し嬉しくなった。 またこのオリソンから少し歩いた所では、フランス人の男性に声を掛けられた。彼が言うには、数日前に私の姿を見たという。という事は、この男性もまた「ル・ピュイの道」を歩いてきたのか。私は「どこから歩き始めたんですか?」と聞いてみると、男性は少し笑って「リヨンの自宅から」と言った。おぉ、懐かしのリヨン。私はリヨンからスタート地点のル・ピュイまで鉄道で行ったが、この男性はそこも歩いてきたのか。 巡礼を始めた直後に会ったオランダ人男性は故郷から歩いてきたと言っていたし、やはり公共交通が発達した今もなお、昔と同じように自宅から歩く人は少なからずいるのである。う〜ん、凄いものだ。 引き続き、大勢の巡礼者と共に列を成しながらアスファルトの道を進む。この付近では山々の尾根に沿って歩く感じとなり、道の勾配が緩やかで歩きやすい事この上無い。 さらにしばらく行くと、道は険しい崖の上に出た。その露出した岩の頭頂には、道行く巡礼者を見守るように聖母子像がたたずんでいる。ここは巡礼の休憩所ともなっているようで、そこここに巡礼者が腰を下ろして休んでいた。私もまたしばしの休憩を取る。 この辺りの山々は牧草地となっており、特に巡礼路沿いには木々がほとんど生えていない。なので非常に眺望が良く、それだけでここまで来て良かったと思う程である。馬や羊が放し飼いになっており、それらの動物を眺めるのもまた楽しい。 途中にチェックポイントのような場所があり、そこでは国籍を聞かれたりした。おそらく、巡礼者の数や出身国を調査しているのだろう。日本人は私で5人目だと言っていた。先程オリソンで見かけたハチマキご夫婦に、あとKさんも来ているだろうか。それでも4人。まだ他にも一人、歩いている人がいるようだ。そして皆、歩くのが早い。 この日、私は意図的にペースを落としていた。急いで歩いてしまうのはもったいない景色であるし、またサン=ジャンから極端に巡礼者が増えたので、他人のペースに引きずられてしまわないようにという防衛策でもある。まぁ、巡礼は競争ではないし、のんびり行きましょうや、という感じだ。 この未舗装の道に入ってから、途端に巡礼路という雰囲気になった。特に十字架の直後にあった上り坂は結構急で息が切れる。そこを登り詰めた場所には、小さな石積みの避難小屋も設けられていた(中はゴミだらけであったが)。巡礼者がピレネーで遭難するとしたら、おそらくこの辺りなのだろう。 この水場は通年湧き出しているのではなく、運が良ければ湧いている、という程度に考えた方が良いそうだ。しかしこの時はもったいないくらいにジャブジャブ湧いており、数多くの巡礼者が喉を潤していた。 時間を見ると正午を回っており、ちょうどスペインに入った事だしと、私はここで昼食を取る事にした。フランスパンとカマンベールチーズをもしゃもしゃやってご馳走様。食後に水を汲もうと水場に戻ったところ、先客として少し色黒な大柄の男性が水を汲んでいた。どこから来たのかと聞かれたので日本と答え、私もまたどこから来たのかと聞き返すと、男性は「カナリヤ諸島」と答えた。 カナリヤ諸島というと、アフリカの西にあるスペイン領の島だったはずだ。スペインの一部ではあるとはいえ、カナリヤ諸島からも巡礼者がやってくるものなのか。男性は非常にフレンドリーで、いつかカナリヤ諸島に行ってみたいものだ、そう思った。 森を抜けると小さな避難所のような建物があった。これはなんと、巡礼宿なのだそうだ。ちょっと中をのぞいてみると、宿の主らしいおじさんが掃除をしている所であった。数人が横になったらいっぱいになってしまいそうだが、山の中で日が暮れそうになった時とか、避難所的に利用する宿なのだろうか。 とりあえずその巡礼宿をスルーして先に進むと、あのハチマキご夫婦が坂の途中で休憩を取っていた。「こんにちは」と挨拶を交わし、少し話をする。どうやらこのご夫婦は、普段から登山などで歩く事に慣れているようだ。今日はロンセスバージェスまで行くという。 私もこの日はロンセスバージェスまで行こうと思っていたので、またお会いするでしょうと言って先を行く。しかし、ロンセスバージェスという村はどれ程の規模なのだろうか。地図を見る限りでは相当小さな村のようだが……この歩いている物凄い数の巡礼者を収容できる巡礼宿があるのだろうか。私は少々、宿の空きが心配になってきた。 13時半、私は標高1430mのレポエデール峠に到着した。この日歩いてきたピレネーの道は、かつてナポレオンがスペイン遠征の際に通った道でもある。ナポレオンは「ピレネーを越えたらそこはアフリカだった」と言ったそうだが、レポエデール峠から見たスペインは木々が生い茂り、むしろ牧草地が続いていたフランス側より緑が豊かなように思えた。 レポエデール峠からは下りの山道を一気に下る。その途中ではカナリヤ諸島の男性とすれ違い、「よく会うね」と笑ったりもした。 スペインに入ったら無くなると思っていた赤白マークの道標は、スペイン内にもちゃんと存在した。……が、どうもなんか変である。赤白マークは横に描くものなのにこれは縦で、しかも左に曲がってる。 少しの間をおいて、あぁ、これは左に曲がれという意味なのかと悟った。しかし、フランス内ではこのような描き方をする赤白マークは存在しなかった。おそらく、スペイン人がフランスの赤白マークを参考に描いたのだろう。しかし曲がれの指示の描き方が分からず、このような形になったのだ。そう考えると、なんとも微笑ましい。 山を下り切り、しばらく森の中の平らな道を行くと、その先に大きな建物が見えた。おぉ、あれがロンセスバージェスだろうか。思っていたよりも早い到着に、私は足取り軽くその建物へと向かう。しかし目の前に広がったロンセスバージェスの光景は、私が想像だにしていなかったものであった。 私はてっきり、ロンセスバージェスは普通の村なのかとばかり思っていた。しかしそこにあるのは巨大な修道院とその付属施設、および数軒のバル(スペインの食堂兼バー)だけである。あぁ、なるほど、ここは巡礼者の宿泊に特化した修道院なのだ。 思わぬ誤算に最初は面食らったが、修道院や周囲に並ぶ建物は古いものばかりである。非常に趣き深く、むしろここに泊まりたい、いや泊まらなくてはならないと思い直した。 後から調べてみると、やはりこのロンセスバージェスはサンティアゴ巡礼が盛んになった中世の頃より、巡礼者の宿泊を受け入れてきた歴史があった。またスペイン人巡礼者の多くは、ここからサンティアゴ巡礼を始めるそうだ。 古い教会群の迫力とその独特の雰囲気に魅了され、私のテンションは青天井に上がって行く。後は巡礼宿に空きがあるかどうかという事だが……その心配は、まったくの杞憂に終わった。 ロンセスバージェスの巡礼宿は19世紀に建てられた修道院の建物を利用したもので、フランスのジットとは比べものにならないくらいに規模が大きかった。もちろん、ベッドも余裕で確保する事ができた。 実は以前よりKさんから、スペインの巡礼宿はフランスとは桁違いにキャパシティが大きいので予約しなくても大丈夫と聞かされてはいたのだが、実際に目の当たりにするとその巨大さに唖然とするばかりである。 ちなみに、スペインの巡礼宿はアルベルゲ(Albergue)という。フランスのジットはまだ民宿的な雰囲気があったものの、アルベルゲはそのような色気は無くシステマチックな巡礼者収容所といった感じだ。まぁ、その分、宿泊費は物凄く安いのだけど。 特にロンセスバージェスは「フランス人の道」を歩く巡礼者のほとんどが泊まる要所であり、巡礼路上に数多くあるアルベルゲの中でも相当に規模がでかい。最近改装したばかりのようで快適性も高く、なんとWi-fiの電波まで飛んでいた。ただ、宿泊費が10ユーロと、公営アルベルゲにしては少し高めの設定である(それでもフランスのジットに比べれはずっと安いが)。 シャワーと洗濯をちゃっちゃと済まし、ちょっくらビールでもひっかけようとアルベルゲの外に出た所、思わぬ人たちと再会した。 「タケ!」と呼ばれ振り返ったその先には、「ル・ピュイの道」の巡礼路上やジットで度々一緒になったコンニチハおばさん御一行がいた。彼女たちは一昨日サン=ジャン=ピエ=ド=ポールで巡礼を終えたはずだったので、これにはホントびっくりした。 運転手を待たせていた事から察するに、サン=ジャンからタクシーで来たのだろう。ロンセスバージェスはサンティアゴ巡礼において重要な場所のようだし、せっかくサン=ジャンまで来たんだからロンセスバージェスも見に行こう、という感じだろうか。ちょうど帰る所だったようで、まさにジャストタイミングな再会であった。 またその後には、「ル・ピュイの道」後半に出会ったドイツ人姉妹にも再会する事ができた。彼女たちもまさに今日、ピレネーを越えてきたのだという。彼女たちとは「フランス人の道」に入って巡礼者が急増した話とか、巡礼宿の規模がでかくてびっくりした話とか、これまでとの違いについて色々話し、そのギャップに頷きあった。 バルの席に腰を掛け、ウェイトレスさんに「セルベッサ・グランデ・プロファボール(大ビール下さい)」と声を掛ける。バルではスタンプを押して貰う事もできるとKさんに教わっていたので、巡礼手帳を差し出してスタンプを貰う。ついでにスペイン語でスタンプを何て言うのかと聞いたら「セジョ」という答えであった。ヴィーノ、セルベッサ、セジョ。うん、とりあえず巡礼に必要なスペイン語を覚える事ができた。これで何とかやっていける……かな? なお、ロンセスバージェスは標高約1000mの高地にある。日が出ているうちは良いのだが、日が落ちると途端に冷え込んでくるのだ。私はビールを飲み終えると、早々に切り上げアルベルゲに戻った。私のベッドは二段ベッドの上段であったが、下段にはなんとあのカナリア諸島の男性がいた。お互い顔を見合わせて、「何度も会うねー」と笑うばかりである。 夜、昨日サン=ジャンでKさんに貰ったソバを茹でて食べていると、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。もしやと思いその音を頼りにアルベルゲの入口にまで行ってみると、そこには受付の女性に縦笛の演奏を披露するKさんの姿があった。おぉ、やはりKさんもここまで来ていたのか。またアルベルゲの廊下では、日中会ったハチマキご夫婦の姿も見かけた。遠い位置だったので声を掛ける事は無かったが。 うん、うん、スペインの巡礼路に入って色々変わった事はあれど、結局やる事は同じだし、他の巡礼者と顔を合わせる楽しみも健在である。せっかく覚えたフランス語が使えなくなってしまったのは残念だけれど、まぁ、少しずつスペイン語を覚えて行けばいい。スペインでの今後になんとか希望を見出せす事ができ、私は安堵の表情で床へと入った。 Tweet |