私の嫌な予感は的中した。例の虫刺され痕は右手のみならず左手や足首にまで拡大し、それら無数の赤いポツポツは昨日とは比べものにならない程の尋常ならざる痒みを発していた。これはもう間違いない、南京虫にやられたのだ。私は身を悶えるように手首を掻きむしった。 世界中から巡礼者が集まるサンティアゴ巡礼路では、近年南京虫の被害が増加しているという。南京虫は英語でベッド・バグと言い、その名の通りベッドの隙間などに住み着いて人が寝ている間に露出部を滅多刺しにするという最悪な害虫だ。アルベルゲによってはベッドに防虫シートを掛ける事を義務付けている所もあるし、中にはベッドルームにザックを持ち込む事を禁止している宿もある。 そのような中、まさか自分が南京虫の被害を受けるとは思ってもいなかった。南京虫は刺されてすぐに症状が出るのではなく、少し時間が経ってから徐々に発疹と痒みが現れるものである。私が症状を自覚したのは昨日の朝なので、おそらくはレオンに着く前、マンシージャかベルシアノスのアルベルゲでやられたのだろう。いずれも防虫シートの無いアルベルゲであった。最有力候補は、マンシージャの宿で借りた毛布である。 手首はまだ歩きながらでも掻く事ができるが、足首の痒みは厄介である。私は時折歩みを止め、足首を掻きながら進むことを余儀なくされた。天気もイマイチぱっとせず、なんとも陰鬱な出発である。 巡礼路は今日も国道に沿った道を行く。その途中では、橋の欄干にもたれかかりながら休む女性巡礼者の姿があった。私は「オラー」と挨拶しながらすれ違う。う〜ん、大丈夫だろうか。巡礼路上で辛そうにしている人を見ると、どうしてもナスビナルの巡礼宿で亡くなった女性の事を思い出してしまう。 出発から一時間強、8時半に私は次の町オスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Orbigo)に到着した。その入口には、馬を引き連れて歩く二人組の巡礼者の姿があった。昨日サン・マルティンの私営アルベルゲ前に繋がれていたあの馬である。 馬は二人のおじさん巡礼者と共に、パッカパッカと軽快な足音を立てながらアスファルトの道を闊歩して行く。私はてっきり馬には乗るものかとばかり思っていたのだが、なるほど、荷物の運搬用だったのか。 しかし、馬を連れて巡礼というのもなかなか大変そうな話である。餌の確保とか、フンの始末とか、それらの苦労は想像に難くない。比較的田舎な場所ならまだ何とかなるのだろうが、レオンなどの都会では一体どうしていたのだろう。都会でなくとも、町の中心部にあるアルベルゲは避けるなど、いろいろ気を使う事が多そうだ。 そんな私の心配をよそに、お馬さん御一行はのんびりマイペースに歩いて行く。私もまたその後に続き町の中へと進んで行くと、その先にはとんでもなく長いアーチの石橋が待ち構えていた。うおぉ、なんだこの壮大な橋は。 対岸の町が小さく見える程の長さを誇るこの橋は、中世に架けられたパッソ・オンロッソ橋である。17世紀にルネサンス様式で架け直された部分もあるようだが、おおむね13世紀の様相を残しており、特に中央後ろよりの一部は10世紀から11世紀にまで遡る可能性があるとの事だ。現在は川の上流に貯水池が築かれ川幅が狭まったものの、中世の頃はこの長さの橋が必要な程の川幅があったのだろう。 いやはや、何ともロマンを感じさせるたたずまいの橋であるが、やはりその姿に相応しい伝説が残っているようである。サンティアゴの聖年(聖ヤコブの祭日である7月25日が日曜日にあたる年の事で、この年に巡礼を行うと全ての罪が赦されるとされる)にあたる1434年、ドン・スエロという名の騎士が愛する姫君の為に王の許可を得てこの橋の上で武術大会を開催したという。ドン・スエロは挑戦者を次々と打ち倒し、300もの槍を集めたそうだ。まるで武蔵坊弁慶のような話である。その後、ドン・スエロは姫君から金のブレスレットを賜り、サンティアゴに参拝してそのブレスレットを奉納したという。 ドン・スエロの伝説は「パッソ・オンロッソ(名誉の歩み)」という名でヨーロッパ中に広まり、名誉を掛けて戦った中世騎士の物語として語り継がれていった。現在この町では、6月第一週の週末に盛大な祭りが催され、当時の騎士試合が再現されるという。あと10日早く来ていれば、私も見る事ができたのだろう。 ちなみにオスピタル・デ・オルビゴの町自体も橋同様に古い謂れを持ち、元はマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が設立した巡礼者の為の救護院を中心に発展したという。町の名にオスピタル(病院)を冠するのはその為だ。通りにはマルタ十字をあしらった旗がはためき、雰囲気を盛り上げている。 橋のたもとにあった雑貨屋でビールとチョコレートを購入し、少し休憩してからオスピタル・デ・オルビゴの町を後にした。町の出口では矢印が二手に分かれており、そのどちらにも巡礼路を示すモホン(道標)が置かれていた。直進か右か、三度目の分岐である。 他の巡礼者の様子を伺ってみると、どうやら直進のルートを選ぶ人が多いようである。地図を確認すると、直進のルートは国道に合流する道、右のルートは国道から外れ丘を登る道のようだ。私は少しだけ迷ったが、国道を歩くよりも丘の方が面白そうだったので右のルートを辿る事にした。 この丘の道は路上に転がる石が多く、少々歩き辛い感じがした。通常の「フランス人の道」は、数多の巡礼者によって道が踏み固められ踏み締められ、ぺったぺたの真っ平らになっているのが常である。それに比べて、このルートはやや荒れているような印象を受けた。目にする巡礼者の数も少なく、やはり国道沿いと比べこちらはマイナーなルートなのだろうか。 緩やかな坂道を上り詰めると今度は下り坂となり、その先にサンティバニェス・デ・バルデイグレシアス(Santibanez de Valdeiglesias)の村が見えた。 しかし、なかなかに気持ちの良い道である。丘陵地帯ではあるが、高い木があまり無いので眺めが良い。ブルゴスからレオンまでの区間はずっと平地が続いていただけに、アップダウンが多いのもまた新鮮である。南京虫の痒みもまぎれるというものだ。 さらにしばらく行くと、坂道を上った所にポツンと小屋が建っていた。その前には小さな屋台が出ており、若いお兄さんが道行く巡礼者にドリンクを振舞っていた。ちょっとした休憩所のようである。その台の上にはスタンプが置かれていたので、巡礼手帳に押させて頂いた。意外にも、ハート柄のかわいらしいスタンプである。 この十字架の前にはちょっとした広場が設けられており、数台のピクニック・テーブルがしつらえられていた。格好の休憩スポットである。私はベンチに座ると、オスピタル・デ・オルビゴで買ったビールを飲み、パンを少しかじった。 眼下に広がるアストルガの町並みをぼんやり眺めていると、突然「こんにちは」と声を掛けられた。不意打ちの日本語にびっくして振り返ると、そこにはレオンのアルベルゲでお会いしたIさんがいた。お話を伺うと、どうやらIさんは国道沿いコースを歩いてきたらしい。昨日は国道から外れるコースを歩いたとの事で、私とはことごとく逆の選択を経てきたようである。 このIさん、どうやら旅程にあまり余裕が無いらしく、今日はアストルガをスルーしてその先まで行こうと考えているのだと言う。アストルガの先は本格的な山登りになるらしく、今日はその麓の村まで歩き、明日山を越えたいとの事だ。へー、山登りとはまた久しぶりだ。大変そうだなぁと思う反面、ちょっとだけわくわくする。 サン・フストの町を抜けて車道沿いをしばらく行くと、巡礼路の先にアストルガのカテドラルが見えた。レオンを出るとサンティアゴまで大きな町が無いと聞いていたが、このアストルガもまた十分に大きな町のようである。 周囲に建物の多いアスファルトの道を進むと、中世に架けられた石橋があった。小川に架かる三連アーチの小規模なものであるが、なかなかに美しいフォルムの橋である。 橋の写真をパシャパシャ撮っていると、例の馬を引き連れたおじさん巡礼者の二人が追い付いてきた。古い橋を渡る馬と巡礼者。なんとも絵になる光景だ。 線路を跨ぐ歩道橋を渡り、アストルガの町が広がる丘の麓に差し掛かった所、先程のおじさんが馬に乗って疾走して行くのが見えた。なんだ、荷物を乗せて引き連れるだけでなく、普通に乗馬する事もあるのか。 馬に乗ったおじさんは、ちゃんと交通ルールに則り右側通行で車道を走っていた。日本の道路交通法では、馬は自転車などと同じ軽車両扱いらしいが、ヨーロッパもまた同様なのだろう。アストルガの町を目の前に、なんで馬で駆けて行ったのかは不明だが、まぁ、おそらく餌の草場でも探しに行ったのだろう。 その後ろ姿を見送った私は、そのまま急な坂道を上りアストルガの町へと入った。坂を上り詰めた所にはちょっとした広場があり、その一角に公営アルベルゲが建っていた。 アルベルゲの玄関から中に進むと、正面に受付のデスクがあった。そこに座っているオスピタレラの女性は……えぇ、なんと日本人じゃないか。着ている服装は着物の上に割烹着、胸には日の丸と共にローマ字で名前が書かれたバッジが付けられていた。品の良いおかあさん、といった雰囲気の女性である。 どこからどう見ても日本人なのだが、とりあえず私は「日本人の方ですか?」と尋ねてみた。女性はニッコリと微笑み「はい」と答える。この日本人オスピタレラのSさん、なんでも5月から7月までの二ヶ月間、このアルベルゲでボランティアをされているそうだ。 私はSさんに宿泊費の5ユーロを支払って巡礼手帳にスタンプを押して貰い、それからスペイン人のオスピタレオにベッドルームまで案内して頂いた。カメラの電池が切れかかっていたのでベッドルームのコンセントに繋いだまま部屋を出たら、先程のオスピタレオが飛んできて貴重品は部屋に置かないでくれと怒られてしまった。誰が入ってくるか分からないアルベルゲ、確かに迂闊な行動であったと反省する。 地下の洗い場で洗濯物を済まして一階に戻ると、Sさんに声を掛けられた。そしてなんと、ソバを食べないかと言う。しかも醤油にダシ、ワサビ付きのフルセット。その上さらに、これも食べてとサラダとリンゴまで渡してくれた。うわー、なんてありがたい事なのだろう。毎日スパゲティとバゲットばかりであった私にとって、ソバの風味、醤油とダシの味は身に染みるものである。私はソバをすすりながら、思わず泣きそうになってしまった。 食器を片付けてSさんに謝意を述べ、それから私は町の散策に出かける事にした。このアストルガの町は紀元前からの歴史を持ち、ローマ帝国時代には様々な街道を繋ぐ交通の要衝として繁栄したそうだ。ローマ帝国滅亡後には一時衰退してしまったものの、レコンキスタ後にはサンティアゴ巡礼の要所として再び栄えたという。 大都市レオンよりは圧倒的に規模の小さな町ではあるものの、その旧市街にはレオンに負けるとも劣らない歴史的建造物が高い密度で並んでおり、コンパクトにまとまった良い町という印象である。またローマ帝国時代の浴場や建物などの遺跡も残っており、町の歴史の重層性を実感させられる。 小雨がパラつく中歩いて行くと、先日レオンの旧市街でアルベルゲの場所を教えてくれたおじさん巡礼者に再会する事ができた。どうやら今日は同じアルベルゲのようである。アルベルゲに戻るというおじさんたちと別れ、私は町の中心部まで進んで行った。 このアストルガには、カテドラルを始め数々の教会建築や、1703年に建てられたバロック様式の町役場など、目を引く歴史的建造物が多い。それらの中でも特に著名なのが、アントニオ・ガウディの手による司教館である。 この司教館の建設が始まったのは1889年。当時の司教がガウディと同じレウス出身であった事からガウディに依頼したという。しかし完成前に司教が亡くなってしまい、その後任の司教が「こんな建物に住むのは嫌だ」と言い出しガウディと意見が対立、結局ガウディは建設を途中で投げ出してしまったそうだ。その後にリカルド・ガルシアという別の建築家が引き継ぎ、1915年に完成したという。 レオンのカサ・デ・ロス・ボティーネスに近い時期の作品なだけあって(アストルガの司教館の方が2年早いのだが)、外観はそれと似た雰囲気だ。ネオ・ゴシック様式をアール・ヌーヴォーで味付けした感じのモデルニスモ建築である。現在は巡礼博物館として公開されているが、内部の写真撮影は残念ながら禁止であった。 入口でチケットを買い中へと入る。壁を覆うアール・ヌーヴォーの植物文様を眺めていると、上階から下りてきたIさんとばったり出くわした。トリビオの十字架で言っていた通り、本当はもっと先まで行く予定だったのが、アストルガが思っていた以上に良さそうな町だったので泊まる事にしたそうだ。あぁ、その気持ち分かる。 現存するアストルガのカテドラルは1471年に建造が開始されたものの、工期が長引き完成したのは18世紀であった。その為、後期ゴシック様式からルネサンス様式、バロック様式など、各時代の建築様式が反映された複合体と言うべき様相を呈している。 ちなみに、南側の塔やファサードの一部には赤みがかった石が使われているが、これはアストルガのあるマラガート地方の特産品らしい。 カテドラルの見学を終えた私は、スーパーで夕食を買いアルベルゲへと戻った。食堂に入ると既に数人の宿泊者が料理を作っており、その中にはかなり前にベロラドやアタプエルカのアルベルゲで一緒になった韓国人の女の子もいた。「おぉ、これは久しぶり!」と声を掛ける。相変わらず愛想良く接してくれる子であったが、やはりもう一人の連れの女の子は私に対して(というより日本人に対して?)あまり良い感情を持っていないらしく、その会話は程無くして打ち切られる事となった。 私はスパゲティを作り、テーブルの隅に腰掛けて食べた。食堂はさらに混み始め、私の正面には何度か巡礼路で顔を合わせた事のあるフランス人のおじいちゃんが座った。このおじいちゃんの前で一人ワインをパカパカやるのも気が引けたので、私はボトルを持って「ワイン、どうですか?」と勧める。おじいちゃんは笑顔で「メルシー」と答え、私がついだワインをおいしそうに飲んでくれた。 夕食後はアルベルゲの受付に行きSさんをお話をした。有難い事に、Sさんはこの先の巡礼路について丁寧に説明してくれた。アストルガを出ると巡礼路は山方面に向かうのだが、その道は二本あるという。そのうちメジャーでない方の道の途中には、古い町並みが残る村があるそうだ。ほうほう、古い町並みとはまた面白そうである。 話題はスペインの気候にも及んだ。私が「スペインは思ったほど暑くなく、むしろ涼しくて意外でした」と感想を述べると、Sさんは「今年は異常に寒いのよ」と言う。なるほど、やはりこの涼しさは普通でなかったのか。これまでさほど暑さを感じずやってこれたのは、運が良かったとしか言いようがない。 それとSさんには、いくつかのスペイン語を教えて頂いた。スペイン語で「また明日」は「アスタ・マニャーナ」と言うらしい。アスタ・マニャーナ、アスタ・マニャーナ……どこかで聞いた事のある語感である。……あ、そうだ、何年か前にやっていたテレビ番組「あしたまにあーな」にそっくりなのだ。なるほど、明日の情報を伝える深夜番組「あしたまにあーな」は、この「アスタ・マニャーナ」とかけた番組名だったのか。思いも寄らぬ所で知る事ができた、どうでも良い気付きであった。 Tweet |