巡礼61日目:アセボ〜ポンフェラーダ(16.5km)






 朝起きると、食堂のテーブルには既に朝食が用意されていた。パンとビスケット、それとカフェコンレチェ(カフェオレ)を有難く頂戴する。やや早目の時間にアルベルゲを出た私は、バルから飛んでいるWi-Fiをつかまえて少しだけネットに興じてから、7時45分にアセボを出発した。

 村の出口には墓地があり、そこには切妻屋根の縁が段々状になっている礼拝堂が建っていた。これまでの巡礼路上では見た事が無いタイプの屋根である。村の中にも同じような屋根を持つ礼拝堂が建っていたが、この辺りはこのようなタイプの屋根が多いのだろうか。地域が移り変わると、建物の形状も変化する。その土地土地の建物を眺めながら歩くのも、巡礼における一つの楽しみである。


アセボの出口にあった段々屋根の礼拝堂


相変わらず眺めの良い道である

 アセボからは昨日に引き続き山を下って行く。最初のうちは車道であったが、途中からは道路に並行する未舗装路に入った。いずれも周囲の視界は開けており、最高に眺めが良い。眼下には次の村であるリエゴ・デ・アンブロス(Riego de Ambros)が見えた。

 さらにその奥の山向こうには、蒸気をもうもうと噴き出す末広がりの煙突が見えた。まるで火山のように見えるその煙突は、「ル・ピュイの道」のオヴィラ付近で見かけた原子力発電所の冷却塔と良く似ているが、どうやらこちらは石炭を燃料とする火力発電所の冷却塔のようである。この辺りは昔から鉱業が盛んとの事で、石炭も採れるらしい。


味のある建物が並ぶリエゴ・デ・アンブロス

 アセボを出てから一時間程でリエゴの村に到着した。集落の中心に建つ教会の前で少しの休憩を取り、一息付いてから村を出る。

 リエゴからの巡礼路は、車道を離れて本格的な山道となった。その路上はゴツゴツした岩肌が露出し、場所によっては全身を使って下りる場所もあるなど、なかなかに歯ごたえのある道である。


道沿いには巨木が茂り、古道としての年季を感じさせる


巡礼路はどんどん山を下り谷底へと続く

 一時間半程山道を下って行くと、車道と合流し、間も無くモリナセカの町に到着した。その入口に架かる7連アーチの「巡礼者の橋(Puente de los Peregrinos)」は、12世紀に架けられたものだという。背後のサン・ニコラス教会と相まって、絵になる風景だ。


巡礼者の橋とサン・ニコラス教会

 橋のたもとの広場に座ってぼんやり休憩を取っていると、同じく広場で休憩していた女性巡礼者がふと立ち上がり、川端に生えていた木からサクランボの実をもいで戻ってきた。そしてそのサクランボを周囲の巡礼者たちに配り出す。私もまた三つほど頂いた。赤く艶やかなサクランボの実は少々の酸味があり、疲れた体にピッタリだ。

 休憩を終えた私は、巡礼者の橋を渡ってモリナセカの目抜き通りを進む。巡礼者の橋も美しかったが、モリナセカの町並みもまたなかなかのもので、せり出したベランダやそこに飾られていた色鮮やかな花々が殊に印象的だった。


せり出したベランダが彩るモリナセカの町並み


町を出た所にあったアルベルゲは、なんと野外にベッドが

 町を出たその少し先には、礼拝堂を改装したと思われるアルベルゲがあった。恐ろしい事に建物の中のみならず、野外にも二段ベッドが並んでいる。繁忙期にはこの外のベッドも使われるのだろうか。屋根の軒は極めて深く、雨が降っても濡れる心配は無いと思うが、う〜ん、しかし、この半野宿状態ではきちんと熟睡できる気がしない。モリナセカに宿泊しようと考える場合には、早めに到着する心構えが重要なようである。

 モリナセカを出てから、巡礼路は大きな車道沿いの歩道を行く。周囲には建物も多く、いかにも大きな町に近付いているという雰囲気がある。


車道沿いの歩道を歩き、ポンフェラーダを目指す


巡礼路の周囲にはブドウ畑が広がっていた

 モリナセカから続く車道はポンフェラーダの町へと直行するようだが、巡礼路は途中で未舗装路に入り、カンポ(Campo)という集落を経由して行く。巡礼路の周囲には久々に見るブドウ畑が広がっており、完全にメセタのエリアから抜けた事が分かる。リオハと同様、この辺りもまたワインの産地なのだろう。

 フランスの「ル・ピュイの道」で見たブドウ畑はほとんど葉が付いていなかったのに対し、リオハのブドウ畑はそこそこに葉が付き、今に見るブドウ畑はすっかり葉が生い茂っている。そんなブドウの葉に月日の流れを感じながら歩いて行くと、程無くしてカンポの集落に到着した。

 巡礼路を示す黄色い矢印に導かれるままカンポの集落に入ろうとしたその矢先、ふと「ローマ人の泉(Fuente Romana)」と書かれた看板が目に留まった。せっかくなので見に行ってみようと、巡礼路を離れてその看板が示す方向へと進む。


この石段の下にローマ時代の泉があるらしい


おぉ、カマボコ型ドームの天井が面白い井戸だ

 石と煉瓦で作られたその泉は、今もなおしっかり水を湛えていた。さすがに現在は水を利用してはいないようであるが、しかしまぁ、よくぞローマ時代の泉がそのままの状態で残っているものである。私は感心しながらカンポの集落へと引き返した。


これまた歴史を感じさせるたたずまいのカンポを抜ける


日差しはかなり強く、上半身裸で散歩するおじさんもいた

 カンポからはアスファルトの車道を歩き、右手に見えるポンフェラーダの町を回り込むように丘陵沿いを進む。しばらく歩くと大きな車道に出て、周囲はすっかり市街地の景色となった。

 ボエサ川(Rio Boeza)に架かるマスカロン橋(Puente Mascaron)を渡ればポンフェラーダである。いざ入らんと橋のたもとに差し掛かった所、すぐ側の薬局から見覚えのある二人組が出てくるのが見えた。ラバナルのアルベルゲでご一緒した韓国人ご夫妻である。お二人もまた私に気付き、手を挙げて挨拶を交わした。


ポンフェラーダの入口に架かるマスカロン橋

 お二人に話を伺うと、どうやら奥さんが南京虫の被害に遭ってしまったらしく、薬局で痒み止めを買ったのだそうだ。奥さんは腕をまくって症状を私に見せてくれたが、それは私の手首足首に残る痕とそっくりであった。ご主人は「たぶん、レオンのアルベルゲでやられたんじゃないか」と言っていたが、いやはや、私のみならず知り合いの方まで南京虫の被害に遭うとは、やはりこの「フランス人の道」における南京虫の問題は、相当に深刻なようである。

 昨日の宿泊地や巡礼路などについてあれこれ話していると、ふとご主人が「ワイン飲んだ?」と聞いてきた。ん? それは何の事だろうか。私が聞き返すと、ご主人は「この1kmぐらい手前にワイナリーがあって、そこで試飲ができたんだよ」と教えてくれた。なんと! そんな素敵なスポットをスルーしてしまっていたとは。なんとも不甲斐ない話である。

 だがしかし、1kmぐらいなら問題なく引き返せる距離である。これは寄っておかねばならぬだろう。私はポンフェラーダへと進むご夫婦を見送った後、一人巡礼路を逆走し、ご主人に教えてもらったワイナリーを目指した。


ポンフェラーダの手前、巡礼路沿いにあるワイナリー


飛び込みだったが、気さくなおじさんが対応してくれた

 「オラー」と声を掛けながら倉庫のような建物に入って行くと、事務所らしき部屋から一人のおじさんが出てきてくれた。私が試飲したい旨を伝えると、おじさんはガソリンスタンドの給油機のような機械からワインをグラスに注ぎ、飲ませてくれた。

 話を伺うと、どうやらこの周辺のブドウを使っているのだそうだ。銘柄は「ドン・オスムンド(Don Osmund)」と言うらしい。スペインのワインはフランスのワインよりもやや荒々しく、独特の癖があるものが多いのだが、ここのワインはすっと飲めて後味も爽やかだった。特に白ワインはフルーティでみずみずしく、私の好みの味である。


赤ワイン、白ワイン、もう一つ別の赤ワイン、計三杯頂いた

 せっかく試飲をさせて頂いたのでボトルの一本くらい買って帰りたかったのだが、残念ながらワイナリーではボトル単位での販売をしてないらしい。ポンフェラーダのバルに卸しているとの事で、そこで飲むしかないようである。

 私はほろ酔い気分でおじさんに「グラシアス」とお礼を言い、ワイナリーを出た。再び巡礼路を進み、マスカロン橋を渡ってポンフェラーダの町へと入る。町の入口に観光案内所があったので、アルベルゲの場所を教えて貰った。私はこの町に二泊しようと考えているのだが、困った事にこの町には公営アルベルゲが一軒あるだけで、私営アルベルゲは皆無らしい(公営アルベルゲは連泊が基本的に不可なのだ)。

 しょうがないので、今日はとりあえずその公営アルベルゲに入る事にした。アルベルゲは観光案内所の程近く、町の外れに位置していた。時間は13時。ちょうどアルベルゲがオープンしたばかりだったらしく、受付には巡礼者の行列ができていた。


私もまた行列に並び順番が来るのを待つ

 行列に並ぶ巡礼者たちは、国籍も年齢も実に様々で実に賑やかだ。中には待ちくたびれてギターを弾き出す人や、噴水の池に足を突っ込んで冷やしている人もいた。

 このアルベルゲの宿泊料は寄付制で、ベッドは係員が指定するタイプである。一部屋に二段ベッドが二台置かれており、私と若い青年が上段、ご老人の二人組が下段であった。おそらく上段は若者、下段はご年配の方を優先して割り当ているのだろう。


水仕事をとっとと終わらせ、町に出る

 四方を山によって取り囲まれた盆地に位置するポンフェラーダは、カスティーリャ・イ・レオン州の北西端に位置するビエルソ地方の中心地である。その旧市街はボエサ川とシル川が合流する付け根の河岸段丘上に広がっている。

 町の起源はローマ帝国の時代にまで遡り、ポンフェラーダの郊外で金山が発見された事により、金鉱業の拠点として発展したそうだ。その後は一時衰退したものの、中世にサンティアゴ巡礼が盛んになると、巡礼路における要衝の町として再興したという。

 ポンフェラーダという町の名は、「鉄の橋」を意味する「Pons Ferrata」に由来する。1082年にアストルガの司教オスムンドが、それまで木製であったシル川の橋を、この周辺で採れる鉄を使って架け直すように命じた事からその名が付いたそうだ。先程のワイナリーで頂いたワイン「ドン・オスムンド」も、その司教の名から取ったのだろう。


ポンフェラーダのシンボル、ポンフェラーダ城

 シル川の左岸にそびえるポンフェラーダ城は、1178年にレオン国王フェルナンド2世がテンプル騎士団に命じて築かせたものである。その後の1312年にテンプル騎士団が解体させられるまで、ポンフェラーダ城はテンプル騎士団の拠点として機能し、巡礼者の警護を担っていた。

 テンプル騎士団の解体後はレオン王国によって管理されていたようだが、19世紀には石材の供給の為に一部取り壊されてしまったらしい。近年修復が行われたようで、中世の立派な城構えを今に見る事ができる。また城内の一角には博物館もあり、城内散策と合わせて十二分に楽しめた。


城内の建物は取り払われ、一部に跡が残るだけだ


城壁や塔の上に登る事もできる

 ポンフェラーダ城を後にした私は、その東に隣接する観光案内所を訪れた。町の入口にあったものより数倍大きな観光案内所である。前述の通り、私はポンフェラーダに二泊するつもりだ。明日は巡礼を休み、古代ローマの金山遺跡、ラス・メドゥラスの観光に一日を費やそうと考えている。その為、今日のうちにラス・メドゥラスへの行き方を聞いておく必要があった。

 前もって調べておいた情報によると、ポンフェラーダからラス・メドゥラスへはバスが出ているらしい。観光案内所のお姉さんにラス・メドゥラス行きバスについて尋ねてみると、なんと明日はバスが無いという。明日は日曜日だからか、それとも今の季節はオフシーズンなのか、あるいはラス・メドゥラス行きのバスは元から存在しないのか、それは分からないが、まぁ、とにかくバスは無いという。

 それでは仕方ないとタクシーの料金について尋ねてみると、お姉さんはわざわざタクシー会社に電話して聞いてくれた。私はドキドキしながら結果を待つ。受話器を置いたお姉さんの口から出た金額は――33ユーロとの事であった。片道33ユーロ、往復で66ユーロ。これは痛い。あまりに痛い金額であるが、だがしかし、ラス・メドゥラスは以前からずっと行ってみたいと思っていた場所である。何とか工面するとしよう。


城の東側にそびえるエンシーナ聖堂

 観光案内所の通りをそのまま北上すると、エンシーナ聖堂(Basilica de La Encina)の広場に出た。エンシーナ聖堂はビエルゾ地方を守護する「樫の木の聖母」を祀る教会で、現在の物は1573年に建設が始められ、17世紀後半に完成したそうだ。ルネサンス様式の建築だが、塔の頂上部分は雷の被害を受け、バロック様式で修復されている。


時計台がそびえるロレッホ通りを行くと――


広々としたマヨール広場に出た

 雰囲気の良いロレッホ通りを抜け、時計台の下を通り市庁舎のあるマヨール広場に出る。この時計台は1567年に建てられその後の1693年に改修を受けたルネサンス様式の塔で、中世の頃はその位置に城門が構えられていたという。

 マヨール広場からは細い路地を縫うように歩き、途中のスーパーで買い物をしてからアルベルゲへと戻った。19時半からアルベルゲに隣接するカルメン教会で礼拝が行われると聞いていたので、夕食を後回しにして礼拝に参列した。


カルメン教会へは、アルベルゲの敷地から直接入る

 礼拝に参加する人の割合は、アルベルゲ宿泊者の1割といった所だろうか。巡礼者の中でも特に信仰心の篤い人のみが参列するようだ。教会内には数多くの欧米人巡礼者に加え、あの韓国人ご夫妻のご主人の姿があった。ご主人はかなり敬虔なキリシタンらしく、礼拝に臨むその表情はマジメそのものである。

 この教会の礼拝は司祭さんが執り行う正式なミサではなく、アルベルゲのオスピタレオが音頭を取って行う簡易的なものであった。まず皆で神に祈りを捧げ、それから一人ずつ巡礼の誓い的な文章を読み上げて行く。最後には火の付いたロウソクが回され、それに向かって一人一人が願い事や誓いらしき言葉を呟いていた。どうやら皆、母国語で呟いているようだったので、私もまた日本語で「無事サンティアゴまで歩けますように」とお願いしておいた。韓国人のご主人もまた同様、韓国語で何かを呟いていた。


キッチンに置かれている食材は、「ご自由にお使いください」との事である


なので、遠慮なく使わせていただいた

 礼拝を終えた私は、食堂へ行き夕食にした。巡礼に参加しなかった人たちは既に食事を終えており、混むと思っていたキッチンは意外にも空いていた。

 キッチンの上には、オリーブオイルや塩コショウなどと共に、ご飯やペンネ、トマトソースなどが置かれていた。これは買ったけど使いきれなかった食材、作ったけど食べきれなかった料理という事で、自由に食べて良いのだそうだ。いわば、宿泊者共有の食材という事である。これもまた、先日アストルガでSさんから教わった知識だ。

 食べられずに捨てられてしまうのはもったいないので、遠慮なく使わせていただく事にした。置いてあったペンネを茹で、同じく置いてあったトマトソースを味付けして掛けた。ついでにパセリを散らし、生クリームをちょっとだけ垂らす。スーパーで買ってきたカマンベールと生ハムを付け合せ、おぉ、なんかいつも以上に豪華な食事になってしまったぞ。 私はちょっとだけ嬉しい気持ちになりながら、ペロリとすべてを平らげた。