朝起きて外に出てみると、空は雲一つと無い見事な晴天であった。私は思わず「よしっ!」と拳を握る。以前から考えていた通り、今日は巡礼を一日休んで古代ローマの金山遺跡「ラス・メドゥラス(Las Medulas)」を見に行くのである。この天気なら、高いタクシー代を払うのも苦ではないというものだ。 朝7時半、私はアルベルゲのオスピタレオにラス・メドゥラスへ行きたいという旨を伝え、タクシーとの連絡役をお願いした。食堂の脇に設置されている公衆電話に1ユーロコインを投入し、昨日の観光案内所で教えて貰ったタクシー会社の電話番号を押す。相手が出た所でオスピタレオに交代し、スペイン語で対応して貰った。 30分後にやってくると言っていたタクシーは、それよりも早い20分後にやってきた。出発の準備をしている巡礼者が大勢いるその中、アルベルゲの門前にタクシーを付けるのはちょっとばかり気が引けるが、まぁ、今日は休息日なのだからと自分に言い聞かせ、堂々とザックをトランクに詰め込み車内に乗り込んだ。 タクシーはポンフェラーダから南東へと進み、山道を上ったり下ったりしながら疾走する。途中のカルセド(Carucedo)という集落から国道を外れて細い車道に入り、しばらく進むとラス・メドゥラスの集落に到着である。昨日の観光案内所で聞いていた通りの33ユーロを支払い、タクシーを降りてトランクからザックを受け取った。 ラス・メドゥラスに到着したのは8時20分と幾分早すぎたらしく、ビジターセンターはひと気無く閉まっていた。入口の横に掲げられている案内を見ると、開くのは10時とまだ一時間半以上も先である。ここでボーっと時間を潰すのもなんなので、私は一足早くラス・メドゥラスを見に行ってみる事にした。本格的な散策前の下見である。 ラス・メドゥラスの集落内には、巡礼路を示すモホンが置いてあってびっくりした。そういえば以前ラベのバルで会った獣医のおじいさん巡礼者が、ポンフェラーダからは「フランス人の道」ではなく別のルートを歩くと言っていた。最もメジャーな「フランス人の道」よりも南側の山道を行き、オーレンセ(Ourense)という町を経由するルートである。険しい道のりで距離的にもだいぶ遠回りであるが、「フランス人の道」ほど俗化していないらしく、アルベルゲも格安らしい。 このモホンを見るに、なるほど、ラス・メドゥラスは獣医おじいさんが言っていた巡礼路、「カミーノ・デ・インビエルノ(Camino de invierno)」の途上にあるようである。ラベを出てからは結局一度も獣医おじいさんと再会する事無くポンフェラーダまで来てしまったが、おじいさんは既にこの村を抜けて先へと進んで行ったのだろうか。 ラス・メドゥラスの入口には管理小屋らしき建物があり、また車止めの為のゲートが設置されてはいるものの、横の歩行者用通路は開いていた。ビジターセンターが開いていないのだから、ラス・メドゥラスの入口も閉まっているのだろうと思っていただけに意外である。入場料を支払うような場所も無く、どうやら無料で入れるようだ。 ゲートを越えてそのまま園内を進んで行くが、やはり時間が早い為か私以外には誰もいない。鳥の囀りを聴きながら木々生い茂る園路を歩いて行くと、突如として視界が開け、緑の濃い森の中から赤い山々がにょきにょきと生える不思議な光景の場所に出た。 一見すると、雨や風などの浸食作用によって形成された天然の地形のように見えるが、実はこれらの山々はそのような自然の力によって生み出されたものではなく、人の手によって作られた人工景観である。それも今から約2000年も昔、古代ローマ人が水の力を利用して破壊した金山の跡なのだ。 このような地形がどのようにして生み出されたのかは後述するとして、まずはラス・メドゥラスの全貌を把握しておきたい。どうやらラス・メドゥラスを一望できる展望台があるらしいのだが、その場所がイマイチ分からない。時計を見ると9時半。そろそろ良い時間なので、一度ビジターセンターに戻って展望台の場所を聞いてみる事にしよう。 途中、やけに人懐っこく後をつけてくる馬がいたのだが、これが非常にクセモノだった。異常なまでに人に慣れており、私を見るや否や駆け寄ってきて側から離れようとしない。無視して馬に背を向けると、今度は私の背中に体当たりしてきてザックに噛みつくのだ。どうやら餌をねだっているようである。 何度追い払っても離れずについてくるし、背を向けると再びザックに噛みついてくる。私は常に背後を警戒したまま、追ってくる馬を威嚇しつつ村へと戻るしかなかった。……が、村に入ってもなお馬は私の後を付いてくるのだ。私にはどうする事もできず、完全にお手上げ状態である。 ――とその時、そんな私と馬のやり取りを見ていた村のおじさんが、畑仕事を中断して助けに来てくれた。おじさんは水の入ったバケツを手にし、馬に向けてそれを浴びせかける。すると馬は、こりゃたまらんとばかりに尻尾を巻いて逃げ出した。ふぅ、助かった。どうやらこの馬は、ラス・メドゥラスを訪れる観光客に引っ付いては餌をねだる常習犯のようである。とんだ不良馬がいたものだ。 馬と一悶着あって戻るのに時間がかかったという事もあり、ビジターセンターに戻ると既にオープン済みであった。センター内は大勢の観光客で賑わっており、私はその人ごみをかいくぐるように受付のカウンターを目指す。対応してくれたお姉さんに展望台の場所を尋ねると、お姉さんはラス・メドゥラスの地図を取り出し丁寧に説明してくれた。山道を登って行くようだ。 ついでにザックを置かせて貰えないかとお願いしたら、お姉さんは快く承諾してくれた。倉庫のような部屋にザックを下ろし、身軽になった所で意気揚々と散策の再開である。さっきの馬が待ち構えていたら嫌だなと思ったが、おじさんの水攻撃が効果てきめんだったらしく、その姿はどこにも見当たらなかった。私はほっと胸をなで下ろし、園内へと進む。 息を切らせながら山道を登り切ると、砂利道の道路に出た。どうやら車で来る事も出来るらしく、私が展望台に到着した時には既に何人かの観光客の姿があった。皆一様に、景色を食い入るように見つめている。ほうほう、それではどんな景色が見られるのかなと私もまた展望台に立ってみると――おぉ、こ、これは凄い。 前述の通り、このラス・メドゥラスはローマ帝国時代の金山遺跡である。元々この場所には砂金を大量に含む金山があったのだが、古代ローマ人がその金を採掘した結果、このような地形が生み出されたという。 現代の爆薬や重機を使っても、これほどの地形を作るのは容易な事ではないだろう。それでは、2000年前の古代ローマ人がどのようにしてこの地形を作る事ができたのか。その答えは、ズバリ水の力を使って山を崩壊させたのである。 古代ローマ時代の土木技術と言えば、ヨーロッパの各地に残るローマ水道が著名である。ここでもまたお得意の水道技術を応用し、より高所に位置する水源からラス・メドゥラスへと水を引き込み、山の上部に人工の湖を形成した。そしてその大量の水を、金山の内部に張り巡らせたトンネルへと一気に流し込み、人工的に山を崩壊させたのだ。その名も、「山崩し(ルイナ・モンティウム)」と呼ばれる技術である。その「山崩し」を何度も何度も繰り返した結果、今に見られる景観が作り出されたのである。 参考の為に述べておくと、ここで古代ローマ人が山を崩して砂金を採っていたその当時、日本はまだ弥生時代であった。あまりにダイナミック過ぎる「山崩し」の発想にも脱帽であるが、それを実行できてしまう古代ローマ人の技術力の高さに感服せざるを得ない。 ラス・メドゥラスで採れた金はポンフェラーダに運ばれ、そしてローマへと送られて行った。サンティアゴ巡礼路の「フランス人の道」は、ローマ街道を下敷きにする道である。すなわち、私が歩いてきた道を逆走する形で金が運ばれて行ったというワケだ。ラス・メドゥラスの金はローマ帝国の栄華を支えた一方、ラス・メドゥラスの金の枯渇がローマ帝国の衰退を招いたという説もある。 このように、ラス・メドゥラスはローマ帝国が高度な土木技術を用いて採掘した金山遺跡であり、極めてユニークな古代の産業景観を今に伝える事から、1997年にはユネスコの世界遺産リストにも記載された。その評価として、通常は姫路城や万里の長城、タージマハルやベルサイユ宮殿といった、誰もが知っているような名建築に用いられる「登録基準1(人類の創造的才能を表現する傑作)」が適用されているのである。ラス・メドゥラスのような考古的な遺構に「登録基準1」が適用されるのは非常に稀な事だ。 さて、ラス・メドゥラス散策に戻ろう。ラス・メドゥラスの展望台の近くには「山崩し」に使われたトンネルが今もなお残っており、その内部に入る事ができる。受付で入場料2ユーロを支払い、ヘルメットと懐中電灯を借りていざ突入だ。 トンネルの内部は複雑に入り組んでおり、まさにアリの巣のようである。天井の高さは1.5m程なのでやや屈んだ状態で奥へと進むのだが、その出口だけは極端に広く、大きくえぐられていた。このトンネルに水を流し、山を破壊した際の衝撃でこうなったのだろう。水の力の強大さを改めて実感しながら、私はトンネルを出た。 ビジターセンターで貰った地図によると、展望台から砂利敷きの道路を上って行った所に、「山崩し」に使う水を引いていた水路が残っているようだ。せっかくなので見に行ってみようと展望台を背に歩き出したのだが、今日はやけに日射しが強く日陰が無い道を歩くのは一苦労である。だらだらと汗を流しながら道路を行く事およそ15分、道の左手にようやくそれらしき遺構が見えた。地図の位置的にも……うん、間違いなさそうだ。 「山崩し」に使われた大量の水は、このような水路を用いて最大で80km程も離れた複数の水源から引いていたそうだ。現在は岩をくりぬいて水路にした部分が残るのみだが、かつてはこれが山向こうまで延々と続いていたのだろう。 ふと時計を見ると、既に正午過ぎである。そろそろ昼食にしたいなと思いながら歩いていると、水路跡の少し先でベンチ付きの休憩所を発見した。こりゃちょうど良いやとそのベンチに腰掛けフランスパンを食べる……が、口に入れたパンを飲み込もうとペットボトルに目をやると、水がもう残り僅かではないか。というか、あと一飲みで終わりである。この暑さで水無しになってしまうとは、ちょっとやばそうだ。ラス・メドゥラスには飲み物を売っている売店が一切無いのである。 地図とにらめっこしながら、どうしたもんかと考える。ここから少し歩いた所に、また別のトンネルがあるらしい。ラス・メドゥラスの南端という外れの位置なので内部の公開は期待できないが、せっかく近くまで来たので見に行きたい所だ。手持ちの水が空なのはいささか不安だが……まぁ、なんとかなるだろう。 休憩所から地図を頼りに山道を上って行くと、その尾根からもラス・メドゥラスが一望できた。先程の展望台は東側からであったが、今度は南側の光景である。視点が変わるだけで、景観の印象が随分と変わるものである。 そんな事を思いながら南端のトンネルを目指したのだが、この道がまた想像以上に険しくて大変だった。この道を歩く人は滅多にいないのだろう。足場が狭い上にかなり荒れており、足を滑らせたら大変な事になってしまいそうだ。 どうやら途中で道を間違えてしまったらしく、行くべき道をすっかり見失ってしまった。しょうがないので道なき道をやぶ漕ぎしながら進み、なんとか車道に出られたものの、その時にはもう焦りと疲れで全身汗だくである。とりあえず地図にあったトンネルには辿り着けたものの、それはこんな獣道みたいな山道を行かずとも、車道から普通にアクセスできる場所にあった。ズコーである。 私は満身創痍の状態で展望台へ戻ったのだが、灼熱の太陽にあぶられ体の水分はすっかり干上がっていた。いやはや、ここ最近はずっと涼しい日が続いていただけに、水の重要性について無頓着になりすぎていた。しかし、巡礼中ではなく観光している日にその事を気付かされるとは、なかなか皮肉なものである。 愚痴っていてもしょうがないので、とりあえずは水のある場所まで行こう。地図によると、展望台へ上がった登山道の入口近くに水場があるようだ。私はその水場に望みを託し、一路登山道を下って行く。唾を飲み込む事によって喉の渇きに耐えながら、ようやく山道を下り切って水場へ急いだのだが―― この水場は天然の湧水を使っているようで、この時は水がほとんど流れていない状態であった。それでも僅かながら少量の水が滴っていたので、私はなんとかそれをペットボトルに集めようとじっと待つ。5分程でようやく一口分くらいの量になったので、私はそれを口に含んだ。 とても十分な量とは言い難いが、それでもこの一口の水は私にとって大変貴重なもので、多少なりとも気力が回復してくれた。よし、まだもう少し散策が続けられそうだ。 これらラス・メドゥラスの栗の木は、古代ローマ人が労働者の食料確保の為に植えたものだそうだ。土地が痩せたラス・メドゥラスにおいて、栗は貴重な食料だったのだろう。 金が枯渇した事でラス・メドゥラスは放棄されたが、栗の木はその後も繁茂を続け、ラス・メドゥラスの特異な地形を覆う程の森となったのだ。この栗の森がラス・メドゥラスの地形維持の役目を担い、切り立った山々が崩れる事無く今に残されたという説もある。 とまぁ、一通りの散策を終えた私は、さすがに限界を感じラス・メドゥラスの出口へと向かった。おあつらえ向きに、ゲートのすぐそばに自動販売機があったので、コーラを買って即座に飲み干す。カラカラに乾いた体に水分と糖分が満ち、喉ではじける炭酸が最高に気持ち良かった。 人心地ついた私は、ビジターセンターに戻ってザックを受け取った。ついでに「タクシーを呼んでもらえますか?」とお願いすると、お姉さんは快く引き受けてくれた。私はお礼を述べ、ビジターセンターの外に出てタクシーを待った。 山道を上ったり下りたり、道なき道をやぶ漕ぎしながら歩たり、体内の水分量ギリギリまで散策を粘った為か、今日のラス・メドゥラス観光は普段の巡礼以上に体力を消耗してしまったようである。タクシーに乗り込んだ途端に眠気に襲われ、そのままポンフェラーダの町に着くまで車内で眠りこけてしまった。運転手さんに下りる場所を聞かれた事でようやく目を覚ました私は、半分寝ぼけながら目の前にあったポンフェラーダ城の前で下ろして貰った。 さて、問題は今夜の宿である。この町の巡礼宿は公営アルベルゲが一軒あるだけで、私営アルベルゲは存在しない。そして公営アルベルゲは病気にかかった時などの例外を除き、原則的に連泊が禁止されている。すなわち、今日は巡礼宿ではない普通の宿を探さなければならないのだ。 とは言うものの、私には幾分余裕があった。実を言うと、昨日のうちに観光案内所でオステル(経済的なホテル)の情報を聞いていたのでる。宿の名前は「オスタル・サン・ミゲル(スペインで一番メジャーなビールの銘柄と同じ名前だ)」。料金は23ユーロと、巡礼宿を除けばこの町で一番リーズナブルな宿である。ラス・メドゥラスへのタクシー代よりずっと安い。 地図に記されていたマークを頼りに新市街を歩いて行くと、一軒のバルにたどり着いた。ちゃんと「オステル・サン・ミゲル」と看板が掛けられているので、ここで間違い無いだろう。バルのカウンターには気さくそうなおじさんのマスターがいたので、「泊まれますか?」と尋ねてみると、マスターは笑顔で「シー(はい)」と答えて宿帳を取り出した。手続きを済まし、部屋へと案内して貰う。一番安い宿とはいえ、部屋は日本のビジネスホテルと同様かむしろそれ以上であった。有難い事にフリーのWi-Fiまで飛んでいる。 私はオステルの部屋でゆっくり過ごし、それから夕食の買い出しに出た。しかし日曜日の午後という事もあってスーパーはどこも開いてはおらず、私はしょうがなく手持ちの食料で何とかする事にした。幸いにも子ども向けと思われるお菓子屋さんが店を開けていたので、そこで1リットルのコーラとアイスを買った。 途中、旧市街の広場でご夫婦の巡礼者に日本語で「こんにちは」と声を掛けられた。一瞬誰なのか分からなかったものの、奥さんが被っていたツバ広の帽子を見て、メセタでお会いした日本人女性だと思い出した。今まさにこの町に到着したばかりのようで、巡礼路の道を尋ねられた。話を伺うと、どうやら巡礼路沿いのホテルに宿を予約を取っているとの事である。巡礼者は巡礼宿に泊まるものだとばかり思っていたが(まぁ、私も今日はオステルなのだが)、なるほど、ホテル泊まりという巡礼スタイルもあるのか。 オステルに戻る前、ワインを一本仕入れようとオステル受付のバルに寄った。昨日のワイナリーで試飲した「ドン・オスムンド」を飲みたかったのだが、残念ながらこのバルには置いてないらしい。しょうがないのでハウスワインのボトルを一本購入し、オステルの部屋で晩酌とした。 Tweet |