私はいつもよりやや遅い朝7時に目を覚ました。普段ならば6時になると体が勝手に起きてしまうのだが、巡礼が終わった安堵感からだろうか、あるいは体に蓄積された疲労が噴き出た為だろうか、いずれにせよのんびりとした起床であった。 今日はカテドラルで行われる正午ミサに出席するつもりだ。昨日の午後にサンティアゴへ到着した私は、今日のミサでその国籍と出発地点が読み上げられるのである。巡礼最後の締めくくりとして、このミサに参加しない手は無いだろう。 正午までの時間を潰す方法としては、カテドラルをがっつり見学しようと思う。昨日の到着時には、カテドラルのファサードと主祭壇をちょっと眺めただけで、すぐに巡礼事務所に向かったので、細部をあまり見られていないのだ。今日は改めて、カトリック三大聖地の一つであるサンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルを堪能したい。 宿泊しているアルベルゲから坂を下って上り、歴史ある建物がひしめく旧市街を行く。細い路地を縫うようにしてカテドラル東側のキンタナ広場に出ると、なんというジャストタイミングだろうか、広場を行き交う人々の中にザックを背負ったジョン&マイティ夫妻の姿を見つけた。お二人もこちらに気が付いたので、私は手を振りながら二人の元へと向かう。 お二人は、今まさにサンティアゴを発とうという所であった。このまま旧市街を抜けてサンティアゴ駅まで歩き、列車でブルターニュに帰るとの事である。家族へのお土産だろう、二人の手にはサンティアゴの名が入ったビニール袋が提げられていたのだが、ジョンさんはわざわざそれを持ち替えてまで私に握手の手を差し出してくれた。私もまたそれを固く握り締め、感謝と喜びと別れの念を告げる。正真正銘、これが最後の挨拶なのだ。 お二人の後ろ姿を見送った私は、そのままカテドラルの南側を辿ってオブラドイロ広場に出た。昨日の到着時には数多くの巡礼者で賑わっていたオブラドイロ広場も、さすがにまだ朝早い時間の為か閑散としている。私は広場の中ほどまで歩みを進め、カテドラルのメインファサードを仰ぎ見た。 9世紀にサンティアゴで聖ヤコブの墓所が発見されると、アストゥリアス王アルフォンソ2世はそこに小さな教会を築き、さらにアルフォンソ3世によってより立派な教会に建て替えられた。しかしその当時の教会は、勢いを取り戻したイスラーム勢力によって997年に破壊されてしまう。現存するカテドラルは、カスティージャ王のアルフォンソ6世の命により、1075年から1211年にかけて建てられたものだ。その後も度々改修や増築が繰り返され、今に見られる姿になったのは18世紀の事だという。 カテドラルの内部は建立当初のロマネスク様式であるものの、外観のほとんどは17世紀から18世紀にかけてのバロック様式である。メインファサードもまた同様、1750年にフェルナンド・デ・カサス・イ・ノボアという建築家によって築かれたもので、スペイン・バロックの傑作とされている。すらりとした柱が立ち、その上部を重厚な彫刻で飾ったその姿は優美さと荘厳さを兼ね備え、まさにカトリック三大聖地の一角に相応しい威容である。 まるで宮殿のような階段を上がって内部に足を踏み入れると、そこには12世紀初頭に作られた「栄光の門」が巡礼者を粛々と待ち受けている。3つのアーチからなるこの門は、ヨハネ黙示録をモチーフにした200体にも及ぶ彫刻によって飾られており、非常に見事である……なはずだが、残念ながら現在は修復の真っ最中で足場が組まれており、その全貌を見る事は叶わなかった。残念。 「栄光の門」の中央に立つ柱には、イエス・キリストの系図を表す「エッサイの木」が刻まれており、またその上部には杖と巻物を手にしたヤコブの像が座している。サンティアゴに到着した巡礼者は、カテドラルに入る際にまずこの柱に手を付き、感謝の祈りを捧げたそうだ。事実、この柱の下部には手の形をした窪みが残っているのだが、これは数多の巡礼者がそこに手を当て続けた事により擦り減った跡だという。 現在は柱の周りに柵が設けられ、触る事はおろか近付く事さえできないが(彫刻保全の為とはいえ、やはり残念だ)、その手の跡を見るだけでも、サンティアゴを訪れた巡礼者の数と信仰心の強さを窺い知る事ができる。 カテドラルの内部は天井が高く、また思っていたより明るい印象であった。トンネルヴォールトの天井に半円アーチや柱頭彫刻など、シンプルで美しいロマネスク様式の建築構造を目にする事ができる。荘厳な外観からは想像が付きにくい、意外性のあるカテドラルではないだろうか。 前述の通り、カテドラルの外観はそのほとんどが後世のバロック様式となっているが、一箇所だけ、カテドラル南側の入口である「銀細工の門(Puerta de las Platerias)」だけは、ロマネスクの様相を今に残している。 しかし「銀細工の門」に見られる彫刻は、ややツギハギというか、一つの作品として見るには不自然な部分が多い。それもそのはず、これらの彫刻は元々この門に刻まれたものだけではなく、カテドラルの別の場所にあったものを後から付け加えたのだそうだ。おそらくはカテドラルの改修の際に、取り払ってしまうにはもったないとこの門に移したのだろう。これら「栄光の門」や「銀細工師の門」の彫刻はロマネスク芸術の傑作として名高く、中世の頃から最高レベルの技術を用いて築かれたカテドラルである事が良く分かる。 なお、このカテドラルを中心とするサンティアゴの旧市街は、その聖地としての重要性と建造物の価値、良好に残る歴史都市の貴重性から、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街)」として1985年にユネスコの世界遺産リストに記載されている。 ヒロラを歩いていると、ふと主祭壇の横に行列ができている事に気が付いた。どうやらレタブロ(飾り衝立)に鎮座する聖ヤコブ像の元へと上がる順番待ちのようだ。巡礼者は聖ヤコブ像に抱きつきながら感謝を述べる習わしがあるそうで、私もまたそれに倣うべく行列に並び、聖ヤコブ像に抱きついてみた。聖ヤコブ像は正面から見るよりも大きく、抱擁しつつもむしろ抱擁されているようなイメージが頭をよぎった。 また主祭壇の反対側には、地下礼拝堂へと下りる階段が設けられていた。地下礼拝堂には銀色に輝く箱が安置されており、参拝者は皆熱心にその箱に向かって祈りを捧げている。この箱の中には、なんと聖ヤコブの聖遺物が納められているという。19世紀の後半、カテドラル地下の発掘調査が行われたのだが、その際に少なくとも3世紀にまで遡る古代の墓が出土し、同時に遺骸が回収されたのだそうだ。この事実により、サンティアゴのカテドラルは墓の上に建っているという事が証明され、遺骸についても当時の法王であるレオ13世が聖ヤコブのものと認定したという。 さて、サンティアゴのカテドラルはそれ自体も非常に立派な建物であるが、カテドラルに付属する施設もまた見応えがある。カテドラルの正面向かって右側には修道院が連なり(現在は博物館となっている)、また左側には大司教館のヘルミレス宮殿が堂々たる構えを見せている。このうちヘルミレス宮殿へは、カテドラルの内部から塔の階段を経由して入る事ができるようになっていた。もちろん宮殿内すべてを見る事はできないが、宮殿内の特に古い部分をピンポイントで拝観できるのがありがたい。 一方、修道院(博物館)の入口はカテドラルの外にあり、オブラドイロ広場から直接入る事ができるようになっていた。様々な展示物が並ぶ博物館の階段を上って行くと、ゴシック様式の回廊に出る。回廊の床には歴代修道士のものだろうか、意匠に凝った墓標がずらりと並び、それらを眺めながら歩くのが楽しい。博物館の展示物も見るべき物が多く、また各部屋も装飾が豊かで、いくら時間があっても足りないくらいである。 さて、そうこうしているうちに正午ミサの時間が近付いてきた。私は早々に見学を切り上げてカテドラルへ戻ったのだが、しかしカテドラルの長椅子は既に満席で、床に座っている人も少なくなかった。さすがは聖地サンティアゴのミサ、凄まじい参列者の数である。もし椅子に座りたいのならば、少なくとも1時間以上前に来るべきなのだろう。特に良い席を確保したいと思うのならば、朝から待つ覚悟が必要かもしれない。 しょうがないので、私は柱の根元に腰を下ろした。正午に近づくにつれ参列者の数はさらに増し、もはやカテドラルの床を埋め尽くさんばかりの勢いだ。祭壇を取り囲む柵の周囲には、同じ学校のグループなのだろう、オレンジ色の服を着た若者の集団が陣取っており、ミサの開始を今か今かと待ちわびていた。 正午ミサでは巡礼者の国籍と出発地が発表されるというのは前述の通りだが、それらが全て終わった後に「ボタフメイロ」と呼ばれる大香炉を振り回す儀式が行われる場合がある。何十kgもの重さがある巨大な香炉をロープと滑車を使って振り回す、サンティアゴならではの特別な儀式だ。 昔のサンティアゴ巡礼では体や衣服を洗える日などそう多くはなく、サンティアゴに辿り着いた巡礼者たちはそれはもう凄まじい臭気を放っていたそうだ。大香炉を振り回す事によって、堂内に立ち込める悪臭を打ち消していたという。またその香りはペストなどの伝染病除けになると信じられていたともいう。 天井近くの高さまでダイナミックに振り上げられる大香炉は、それはもう壮大な光景なのだそうだ。ぜひとも見てみたい所であるが、この儀式は毎日行われるというワケではなく、特別な祭日か、あるいは誰かがそれなりの寄付を行った際にのみ執り行われるらしい。フランスの巡礼路でお世話になったKさんから聞いていた話によると、大香炉の儀式が行われる日には、あらかじめ祭壇の前に大香炉が吊るされているとの事である。果たして今日はその儀式が行われる日なのか否なのか、祭壇の前を確認してみると―― 私は思わず「やった!」と心の中でガッツポーズをした。今日は特別な祭日というワケではないと思うので、誰かがカテドラルに寄付をしてくれたのだろう。おそらくは、祭壇の周囲を取り囲んでいるオレンジシャツの学生たちだ。ありがとう学生たち。巡礼路上だと学生の集団は人数が多くて面倒だと思っていたけど、邪険にしてゴメンナサイ。 正午になる直前、黒い修道服とベールを付けたシスターさんが演壇の横に立ち、マイクを通して讃美歌を歌い出した。その歌声と共に白いローブを着た数人の神父さんが現れ、祭壇の前に並んで立つ。最後に赤いローブを羽織った司祭さんが登場し、いよいよミサの始まりである。 ミサが始まると、まず初めに巡礼者の国籍と出発地点の発表があった。紙に書かれた内容を司祭さんが読み上げて行くのだが、マイクの音が堂内の反響でぼやけ、また周囲の雑音もあって少々聞き取り辛く、いつ自分が呼ばれたのかはっきりと分からなかった。二回ほど「ジャパン」と言っていたので、そのうちのどちらかが私だったのだろう。 巡礼者の発表が終わると、今度はオレンジシャツの学生が壇上に上がり、聖書の文言を読み上げたりした。しかしこのミサならではの特別な内容はそれくらいなもので、その後は司祭さんの説教から始まり隣人との握手やパンの配布など、ほぼいつも通りのミサの内容であった。そして一通りの進行が終わると――いよいよ大香炉の儀式である。 大香炉の儀式を執り行うのは、臙脂色のローブを纏った6人の男性だ。下ろされた香炉の蓋を臙脂の男性たちが開け、その中に神父さんが火を入れる。もくもくと煙を吐き出す大香炉はロープと滑車によって勢い良く振り上げられ、徐々に振り幅を増しながら左右にスイングする。パイプオルガンの心地良い和音にシスターさんの歌声が重なり合い、その美しい調べと共に大香炉が飛び回り、堂内いっぱいにお香の香りを振り撒いた。 大香炉は天井にぶつからんばかりに振り上げられた後、徐々に高度を下げながらスピードを落としていく。讃美歌が終わると共に男性の一人が香炉を見事に受け止め、そして儀式は終了した。大香炉が左右に飛び交うその様は腰が抜ける程に迫力があり、そして厳かであった。私が座っていた位置は大香炉の軌跡のすぐ側だった事もあり、私は手に汗を握りながら儀式の様子を呆然と眺めていた。 大香炉の儀式が終わると、参列者たちは相次いでカテドラルから出て行った。私は空いた長椅子に腰掛け、ミサの余韻に浸る。しばらくぼーっとしていた後、ふと思い立ってカメラの電源を入れた。先程の儀式の映像をきちんと撮れてているか確認しようと思いつつの行動であったが、大きく揺れる香炉の映像をじっと眺めているうちに、なぜだか涙が溢れてきて止まらなくなった。あぁ、この感覚には覚えがある。去年の四国遍路で最後の大窪寺で読経した時と同じなのだ。 私が自身の中から込み上げてくるものに耐えられず嗚咽を上げていると、通りがかった一人のお姉さんが私の肩をポンポンと叩いてくれた。私は酷くみっともない顔をしていたに違いないが、私を見るそのお姉さんの目は非常に優しく慈愛に満ちていた。 何はともあれ、これで私のサンティアゴ巡礼は終わった。終える事ができたのだ。そして、私はこの大香炉の儀式を見る為に、ル・ピュイからここまで遥々1600kmを歩いたのだと確信した。 カテドラルを後にした私は、オブラドイロ広場から北へと進みんだ。特に目的地のアテがあるというワケではなく、カテドラルと共に世界遺産となっているサンティアゴの旧市街を散策しようと思ったのだ。サンティアゴは坂の多い町だが、それがまた味のある町並みを作り出している。細い路地にも雰囲気があり、地図を見ずに行き当たりばったりで歩くのが楽しい町である。 たまたま目に留まった雑貨屋でチョコレートのパンとビールを購入し、石段に腰掛けて食べた。時折小雨がパラつく事もあり、天気が良い日だとは言えないが、それでもまぁ青空が見える時もあるし、雨がちなガリシア地方にしては頑張っている方だろう。 サンティアゴには修道院や教会の数がとにかく多い。カテドラルの周囲はもちろんの事、旧市街の方々に大なり小なりの教会施設が散らばっているのだ。旧市街全体が一つの祈りの場として機能している感じである。現在はサント・ドミンゴ修道院のように博物館になっていたり、ホテルを営業していたりする所もあるようだが、おおむね昔ながらの雰囲気を保っていると言えるだろう。 途中でカメラの電池が切れてしまったので一旦アルベルゲへと戻り、充電がてら少し昼寝をした。再び旧市街へ繰り出したものの、程無くしてやや強い雨に降られ、私はたまらず近くのバルに飛び込んだ。雨宿りがてらに一杯やるのも良いだろう。 注文の段階になって何を頼もうかと少し迷ったが、そういえばスペイン北部はシードル(リンゴから作られる発砲ワイン)がおいしいと聞いた気がする。ここで飲んでおかないと機会を逃すと思ったので、私はシードル(スペイン語ではシードラ)を注文した。 私はシードルだけ頼んだのだが、サービスのおつまみが充実していて嬉しかった。ちょうど夕食を前に、小腹がすいていた所だったのだ。スペインではやはりシードルはメジャーな飲み物のようで、ビールサーバーのような蛇口からグラスに注いでいて「へぇ」と思った。味もフルーティで大変おいしく、バルではビールの代わりにシードルを頼むのも良いだろう。 バルから出ると雨が止んでいたので、私は旧市街の散策を続ける事にした。しばらくうろうろしたのち、少し疲れたのでベンチに座って時計を見ると、既に17時を過ぎているではないか。おっと、そろそろ夕食の為に動いた方が良いだろう。目指すはオブラドイロ広場にあるパラドール(国営ホテル)である。 これもKさんから聞いていた話であるが、サンティアゴのパラドールでは巡礼証明書を提示すると、先着10名に限り無料で賄い飯をいただけるとの事である。朝昼晩のどれでも良いらしいが、一回切りのチャンスなので、やはり夕食がベストだろう。ジョンさん夫妻もサンティアゴへ到着した日にパラドールの賄い飯を食べたそうで、「夕食の時間は18時だけど、すぐ満員になるので早目に行った方が良いよ」とアドバイスしてくれた。 サンティアゴのパラドールは、かつての王立救護院の建物を利用した非常に立派なものである。巡礼者の為の施設であったというその歴史的背景を受け、パラドールとなった今もなお、巡礼者に食事を提供しているとの事である。なかなか粋な計らいではないか。 プラテレスコ様式(スペイン・ルネサンスの一種)の門構えは格式があり、私のような者が入って良いのか少々ためらわれるが、とりあえず何食わぬ顔で警備員をやり過ごし、そのまま真っ直ぐフロントへと向かった。パリッとした制服を着たフロントマンに「巡礼者ですが、夕食いただけますか?」と尋ねると(我ながら、馬鹿みたいな質問である)、フロントマンは坂の下のガレージで待っていてくださいと案内してくれた。 私がパラドールに着いたのは17時半ぐらいであったが、ガレージには既に4人の巡礼者がいた。その中には、巡礼路上で度々顔を合わせたフランス人おじさんの姿もあり、私は思わず笑ってしまった。やはり皆、考える事は一緒である。 18時になる頃には定員の10人がそろい、屈強なガードマンにガレージの奥へと案内された。詰所で巡礼証明書とパスポートのチェックを行い、全員が問題ないと判断された上でパラドール内へ導かれる。「PRIVADO(私的エリア)」と書かれた通路を進み、私を含む巡礼者一行はキッチンへと通された。パラドールのキッチンに入れるなどそうそうある事ではないと思うので、その点でも貴重な経験ができたと思う。 さすがはパラドールというかなんというか、食事は「これ本当に賄い飯?」と言うくらいに立派なものであった。チキンと肉入りのサラダ、デザートは桃のコンポートである。その上さらにワインまで出され、食べているうちにタダ飯だと喜ぶどころか逆に申し訳なくなってきた。もちろん、どれもおいしい料理であった。 少し飲み足りないと感じた私は雑貨屋でボトルワインを購入し、再びオブラドイロ広場に戻ってきた。21時を過ぎてすっかり日が落ち、周囲は暖色系の照明によってぼんやり照らされるだけで薄暗かったが、カテドラルのオブラドイロ・ファサードだけは煌々としたライトアップに照らされ黄金色に輝いていた。「オブラドイロ」とは、ガリシア語で「黄金色に輝く傑作」だという。私はなるほどなぁと頷きながら、広場の中心に腰を下ろしてあぐらをかいた。 前方には黄金色のカテドラルが悠々とそびえ、背後からはギターの調べが聞こえてくる。私はその中でしみじみとワインをラッパ飲みした。ゆっくりと酔いが回ってくる中、類稀なる多幸感を胸に、ふわふわとした心地良い気分に浸った。いやぁ、これ以上無いくらいに最高な夜である。 Tweet |