ア・コルーニャ




 朝7時にベッドから出た私は、朝食を取りながら本日の予定に着いて思案を巡らせた。今日は7月6日。マドリードから出る帰国の飛行機は7月8日の午前便なので、明日はマドリードへの移動に充てる事となる。つまりは今日が実質の最終日というワケだ。

 巡礼者がサンティアゴ到着後に目指す西の果て、フィステーラ岬までバスで行こうかとも考えたが、やはりフィステーラへは歩いて行きたいものである。私はサンティアゴ巡礼をこの一回で終わらせるつもりはない。今回はフランスの「ル・ピュイの道」とスペインの「フランス人の道」を歩いたが、巡礼路はまだまだ他にもたくさんあるのだ。いつになるか分からないが、フィステーラは次のサンティアゴ巡礼まで取っておく事にしよう。

 では今日は何をするのかというと、ア・コルーニャ(A Coruna)という町へ行きたいと思う。ア・コルーニャは大西洋に面した港湾都市で、ガリシア州ア・コルーニャ県の県都でもある。そこには2009年にユネスコの世界遺産リストに記載されたローマ時代の灯台「ヘラクレスの塔」がそびえており、これを見に行こうと思うのだ。


というワケで、ア・コルーニャにやってきた

 サンティアゴのバスターミナルからア・コルーニャ行きのバスに乗り、山間の道を北上する事約1時間半、ア・コルーニャのバスターミナルに到着した。ア・コルーニャは大西洋にぴょこんと飛び出た半島部分と、その付け根部分に町が広がっている。ヘラクレスの塔はその半島の北端に位置しており、また見どころの多い旧市街も半島部分にあるのだが、バスターミナルがあるのは付け根部分の新市街なので、旧市街まで行くにも40分程歩く必要がある。

 まぁ、市内バスを使っても良いのだが、せっかくなので旧市街まで歩く事にした。高いビルが並ぶ大通りを突っ切って港に出る。港沿いの通りにも高い建物が並んでいるが、ちょっと意匠に凝ったものも少なく無く、どことなく横浜に近い印象を受けた。


ア・コルーニャ港のモニュメント


ハーバー沿いにはガラス張りの建物が並ぶ

 ア・コルーニャの建物は白塗りにガラス張りの建物が多く、それ故に「ガラスの街」として有名らしい。……が、今日は天気があまり良くなく、どんよりとした曇天の下ではガラスが冴えずに残念な感じだ。これが晴天の青空だったら、眩いばかりにキラキラ輝く町並みを目にする事ができたのだろう。

 私はひとまず観光案内所を探してア・コルーニャの地図を貰おうかと思ったのだが、大きな町なので観光案内所がどこにあるのか分からない。しょうがないので海沿いのプロムナードをのんびり歩いて行くと、その道の先に要塞らしき建造物が見えた。おぉ、これはおもしろそうだと、吸い寄せられるようにその元へ向かう。


今では陸続きだが、かつては島であったサン・アントン城


ア・コルーニャ港を守る為の防衛施設である

 このサン・アントン城は、英西戦争が始まって間もない1587年から建造が始まった要塞だ。1588年、リスボンを出港したスペインの無敵艦隊は、このア・コルーニャ港に寄港した後、アルマダの海戦でイギリス海軍に大敗した。その翌年の1589年、ア・コルーニャはイギリス海軍の攻撃を受けたのだが、その際にこの要塞は多大に活躍したのだそうだ。

 ただし、現存するサン・アントン城の建造物は後世のものだという。18世紀からは刑務所として使われていたようなので、その際に改修を受けたのだろう。現在は考古博物館となっており、中庭の回廊や建物内にガリシア地方の文化財が展示されている。


展示物は様々で、なかなか興味をそそられる


雨水を溜める貯水室もあった

 サン・アントン城を後にした私は、とりあえず旧市街の中心地を探す事にした。ヘラクレスの塔を目指すにしても、町の中心が分からなければどの道を行くべきなのか分からないからだ。とは言うものの、やはり道が不案内なので、私は勘だけを頼りに路地を歩く事となった。

 ア・コルーニャは港の町だが、海岸から離れると思いのほか起伏がある。そして道が入り組んでおり迷路のように複雑だ。私は迷子になりながら右往左往していたが、程無くして視界が開けた広場に出た。正面には堂々たる市庁舎が建っており、うん、間違いない、ここがア・コルーニャ旧市街の中心だろう。


市庁舎の前に広がるマリア・ピタ広場

 広場の名前であるマリア・ピタは、英西戦争でア・コルーニャがイギリス海軍によって侵攻された際、市民を決起させイギリス軍を撤退させた女性の名前だ。広場の南側には、槍を構える勇ましい姿のマリア・ピタ像が立っている。海賊上がりのフランシス・ドレーク率いるイギリス海軍を相手に立ち向かうとは、恐ろしい程に勇敢な女性である。

 無事町の中心にまで辿り着けた私は、ヘラクレスの塔に行く前に、もう少しだけ旧市街を散策してみようと思った。広場から伸びる路地を進んで行くと、すぐに12世紀に建てられたロマネスク様式のサンティアゴ教会に行き当たった。ア・コルーニャに現存する教会建築の中では、これが最古のものだという。正面ファサードは彫刻を含め後世のゴシック期のものだが、北側の入口には建立当初のロマネスク彫刻も残っている。


マリア・ピタ広場の近くに建つサンティアゴ教会


正面のタンパンには馬にまたがった聖ヤコブの彫刻が


内部は薄暗く、静謐な雰囲気が漂っていた

 サンティアゴ教会を後にした私は、町並みを楽しみながら旧市街の路地をくねくねと進む。……と、すぐに今しがた見たサンティアゴ教会に良く似た姿の教会を発見した。サンタ・マリア・デル・カンポ教会である。


デジャビュを感じるサンタ・マリア・デル・カンポ教会


こちらの入口彫刻はロマネスク期のものである

 サンタ・マリア・デル・カンポ教会は先程のサンティアゴ教会よりもやや遅い、12世紀から13世紀にかけて建てられたものだという。しかしこちらは後世の改修が少なく、入口周りの彫刻を始め、より建立当時の様相を保っているという印象だ。

 正面の上部にはシンプルな薔薇窓が設けられている。薔薇窓はゴシック期に生まれたものであるが、この教会の薔薇窓は後世の改修によるものではなく、当初から存在したらしい。ロマネスク期からゴシック期に変遷するその最中に建てられた教会なので、ロマネスクをベースとしながらも部分的にゴシックの要素を取り込んだのだろう。

 さて、旧市街の探索もほどほどに、そろそろ本来の目的である「ヘラクレスの塔」に向かおうと思う。半島の北端にある「ヘラクレスの塔」は、旧市街から約2kmとこれまた少し離れているが、まぁ、歩けない距離ではないので徒歩で行く。旧市街からさらに坂を上り、スペイン広場と呼ばれる公園を横切って北へ北へと進む。賑やかな通りを抜けると突然視界が開け、広大な敷地を有する公園に出た。さらに公園沿いの大通りを行くと、小高い丘の上にそびえる「ヘラクレスの塔」がその姿を現した。


おぉ、想像していたより巨大な塔である


現存最古にして今もなお現役の灯台だ

 ヘラクレスの塔が建てられたのは1世紀から2世紀の事である(少なくとも、2世紀にはその存在が知られていたという)。世界の灯台の歴史は古く、例えば紀元前3世紀にはエジプトでアレクサンドリアの大灯台が建てられているが、そちらは地震によって崩壊してしまい、現在は存在しない。現存する灯台としては、このヘラクレスの塔が世界最古のものなのだ。またローマ時代に築かれた灯台としてもこのヘラクレスの塔が現存唯一であり、ローマ帝国の高度な建築技術を今に残す証左としても貴重である。

 しかも、このヘラクレスの塔は今もなお灯台として現役だというのだから驚きだ。昔は炎を鏡に反射させて光を照らしていたらしいが、現在はもちろん普通のライトを使っているのだろう。イベリア半島の北西端に位置するア・コルーニャは、今も昔も大西洋を行く船にとって重要な場所であるに違いない。そのような要所に立ち、ローマ時代から現在まで光を照らしてきたヘラクレスの塔。なんともロマンがある話ではないか。

 ちなみに、外観を見る限りではローマ時代のものとは思えない程に新しいが、これは1788年から1791年にかけて改修工事が行われた為である。それまでのヘラクレスの塔は三層からなる塔であったが、その時の改修により上部に四層目が付け加えられ、外観も新古典主義のデザインに刷新されたのだ。しかし内部構造はローマ時代からのもののままであり、今も昔も大きくは変わっていないとの事である。


改修以前のヘラクレスの塔はこんな感じだったようだ


この第四層は18世紀に付け加えられた部分である

 現在の塔の高さは59m。塔の上部にまで登る事ができるようなので、早速上ってみたい所であるが、塔の正面から入ろうとすると女性係員に止められてしまった。どうやら正面口は出口専用らしく、入口はそれより下の基壇部分にあるとの事である。入口を間違える人はかなり多いらしく、私以外にも何人もの人が同じように止められていた。

 正しい入口を潜って受付けのお姉さんに入場料を払うと、チケットと共に日本語のパンフレットを渡してくれた。海外の観光地で手に入る日本語のパンフレットは、書かれている日本語がいささか怪しい事が多いのだが、ヘラクレスの塔のパンフレットはしっかりとした正しい日本語で非常に読みやすい。

 パンフレットの説明を読みながら通路を進んで行くと、まずは基壇の発掘現場に出た。現在の基壇はローマ時代の基壇を覆うように築かれており、ここではその地下に眠っていたローマ時代の基壇を目にする事ができる。ローマ時代の建造物は小さな石材を用いる事が多いと思っていたのだが、さすがに高い塔の基部という事もあり、がっしりと大きな切石が積まれていた。


発掘されたローマ時代の基壇


塔の内部は蒲鉾型のヴォールト天井である

 基壇の発掘現場から階段を上がって塔の内部へと入ると、いきなり天井の高い部屋に出た。ヘラクレスの塔は、このような極めて天井の高い部屋が一層ごと田の字に四部屋配されており、それが三層積み上げられた内部構造である。

 塔内部に使用されている石材はやはりそれ程大きなものではなく、しかも経年による風化の為か角が擦れて丸みを帯び、いかにもローマ時代の建造物というような貫録がある。スマートに整った外観から受ける印象とは全く異なり、まさに古代の遺跡の中にいるという雰囲気であった。


四部屋のうち一部屋の空間に螺旋階段が通されている


螺旋階段を上り切ると、ドーム天井の第四層に到着

 18世紀の改修で付け加えられた第四層の階段を上がって行くと、ようやく展望台に出た。展望台、とは言うものの柵の高さは腰の下辺りまでしかなく、しかも風がかなり強くて心なしか塔が時々揺れているような気さえした。2000年近く倒れずに立ち続けてきたと頭では理解していても、やっぱり、ちょっと怖い。


ヘラクレスの塔から東側を望む


こちらは南側、ア・コルーニャの市街地方向だ

 塔からの眺めはすこぶる良く、まさに四方が一望のもとである。しばらくの間ぼんやりと景色を眺めていたが、ふと細かな飛沫のようなものが顔にかかったのを感じた。最初は雨かなとも思ったが、舌で唇をペロリと舐めてみるとそれはしょっぱかった。なんと、波がこの高さまで飛んできているのだ。

 ガリシア地方はリアス式海岸の多い土地で、この岬もゴツゴツとした岩礁で縁取られている。さらに風が強い事もあり、岸壁で砕けた飛沫が舞い上がったのだろう。塔の揺れは相変わらず感じているし、おまけに展望台にいる人の数も増えてきた。本当に良い景色なので少々名残惜しいが、早目に退散する事とした。

 塔を下りて外に出た所で、先日オ・ペドロウソでお会いした日本人ご夫婦に再会した。どうやら私と同じように、昨日ミサに参加して(ミサで発表された二組の「ジャパン」は、私とこのご夫婦だったのだ!)今日はア・コルーニャの観光らしい。お目当てはやはりこのヘラクレスの塔だったようである。レオンからの巡礼中のみならず巡礼後の観光まで、何かとご縁のあるご夫婦であった。

 さて、ヘラクレスの塔を後にした私は、そのまま歩いてバスターミナルに戻り、サンティアゴへのバスに乗った。車内で昼食のパンを食べ、缶ビール二本を飲むと途端に眠くなり、起きた時にはサンティアゴである。バスを降りた私は一旦アルベルゲへと戻り、体勢を立て直してから再びサンティアゴの旧市街に出た。


今日が最後なので、悔いが残らないように見て周ろう

 そういえば、カテドラルの北側にはこれまた立派な建物が建っていた。地図にはサン・マルティン・ピナリオ修道院とある。サンティアゴに数ある修道院の中でも、カテドラルに次ぐ建坪を持つ巨大な修道院で、現在は神学校および寮として使われているようだ。

 サン・マルティン・ピナリオ修道院の建物は、100mもの幅を持つという正面ファサードを始め、基本的には17世紀に建てられたバロック様式で建てられているのだが、北側の修道院付属教会のファサードだけは、16世紀建造のプラテレスコ様式(スペイン・ルネサンスの一種)である。


バロック様式のサン・マルティン・ピナリオ修道院


修道院付属教会のファサードだけは、やや古いプラテレスコ様式だ

 時間は既に17時半を過ぎていたが、修道院付属教会の入口は開かれており、有料で内部拝観ができるようであった。もし18時に閉まるのだとしたら、かなり急いで見て周る感じになってしまう。それだと嫌なので遠慮しようかと思ったものの、閉館時間はどうやら18時半らしいので、それなら見ておこうと拝観料を払って内部に進む。

 これまで私の中では、バロック様式の教会というとやや装飾過剰というイメージがあった。しかしこの教会はそれほどドギツイ感じでもなく、むしろ白を基調とした明るい雰囲気で、バロックに対する私の印象が少し変わった。祭壇や礼拝堂などはがっつり装飾が施され、まさにバロックという感じではあるものの、むしろそれがアクセントとなっており、堂内全体の雰囲気を引き締めている。うん、これは良い教会だ。


内部は思っていたより明るい印象である


堂内右手にある礼拝堂は、イメージ通り装飾が派手であった

 付属教会の内部からは、さらに修道院の他の建物へと続いており、修道院に伝わる宝物や絵画などを見る事ができた。それらを一通り見終えた頃には、ちょうど閉館時間の間近となっていたので修道院を辞去し、今度は町を散策する事にした。


レストランが並ぶフランコ通り


建物一階がアーケードになってる通りが多い

 夕方のサンティアゴはびっくりするほどの人出で賑わっており、また路地沿いに並ぶレストランの前では客引きが道行く人々に声を掛けていた。ガリシア地方は海産物が特産という事もあり、海鮮料理を出すレストランがほとんどのようだ。

 私はこれで最後なんだなぁと感慨に耽りながら、ゆっくりとしたペースで路地を歩く。サンティアゴの旧市街はカテドラルの東側が主なのかと思っていたのだが、そちらよりも南側の方が賑やで活気がある。まぁ、観光客向けの店が多いという嫌いはあるが、それでもアーケードが連なる路地の雰囲気は抜群に良い。やはり再散策に出て正解だった。


夕食時、学生さんからサラダとタルタをおすそ分け頂いた

 夕食はアルベルゲのキッチンでスパゲティを茹でたのだが、その際に学生の集団を引率する先生からサラダとタルタ・デ・サンティアゴを頂いた。余ったので食べないかという事だったので、私はありがたく平らげる。最後の最後まで人様からご厚意を賜り、少々恐縮する反面、私は本当に恵まれてるなと思った。