―若狭町熊川宿―
わかさちょうくまがわしゅく
福井県三方上中郡若狭町 重要伝統的建造物群保存地区 1995年選定 約10.8ヘクタール 福井県と滋賀県の県境近く、若狭湾へ注ぎ込む北川の上流に位置する熊川宿は、鯖街道の中継地として江戸時代に発達した宿場街である。鯖街道とは嶺南地方の中心地であった小浜から京の都へ至る街道のことであり、その名の通り若狭湾で取れた鯖などの海産物を中心に、物資輸送の要として古くより知られていた。最盛期の熊川宿には200戸ものの建物がひしめいていた記録が残っているが、宿場としての機能が失われた今では100戸ほどの規模に縮小してはいる。しかしそれでもなお、熊川宿には立派な構えを持つ商家や妻入りの町屋が緩やかにカーブする街道に沿って建ち並び、往時の宿場景観を今に残している。 近江と若狭の境に位置する熊川宿は、鯖街道の宿場の中でも特に交通と軍事の要衝として重要視されていた。それは室町時代、幕府の御家人である沼田主計(ぬまたかずえ)がこの地に城を築き、熊川を守っていたことからも理解できる。その後の豊臣時代には、九州征伐で功を上げ若狭国を預かり受けた浅野長政(あさのながまさ)が、天正17(1589)年に熊川を宿場として大々的に整備、熊川宿発展の礎を築き上げた。さらに江戸時代、寛永11(1634)年に小浜藩の藩主となった酒井忠勝(さかいただかつ)は熊川宿の保護政策をさらに強化するに至り、それに伴い熊川宿は物資輸送の中継地点として大々的に発展することとなった。 全長1.1キロメートルほどの熊川宿は、東の宿場入口からから中条橋までの上ノ町(かみんちょう)、中条橋からまがりと呼ばれる枡形までの中ノ町(なかんちょう)、まがりから西の宿場入口までの下ノ町(しもんちょう)の三地区から成っており、そのほぼ全域が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。この三地区うち、町の中心であったのは中ノ町である。中ノ町はかつて熊川城が置かれた場所でもあり、宿場時代には奉行所や蔵屋敷、寺社などが置かれていた。それらを核として問屋が軒を連ねるようになり、街道を中継する宿場町としての機能が形成されて行ったのだ。 町の中心地であった中ノ町は道幅も広く、その両脇に並ぶ建物も間口の広い立派な商家が多い。中には道に面して土蔵を持つものもある。その建築は主に切妻屋根平入の塗り込め厨子二階建て、もしくは中二階建てであり、虫籠窓が設けられている。二階の両脇に火除けの袖壁卯建(うだつ)を持つものや、屋根の上に煙出しを持つものも多く、中には、がったりと呼ばれる縁台(ベンチ)が残っている店もある。下ノ町や上ノ町には切妻屋根妻入の家屋が連続しており、またかやぶき屋根の家屋もいくつか見ることができたりと、中ノ町とはまた少し違った雰囲気の町並みを見ることができる。 熊川宿は水と共にある宿場であった。上ノ町から中ノ町にかけては、宿場の整備と同時に作られた石積みの用水路が伸び、熊川宿の町並み風景に潤いを与えている。この水路は前川と呼ばれ親しまれており、その水は人々の生活用水や馬の飲み水などとして用いられていた。街道に面した家の前には、水路に下りるための「かわと」と呼ばれる石段が設けられており、また水路の中には水の流れを利用して里芋の皮をむくための「イモ車」が置かれていたりと、熊川宿では水と密着した人々の生活を垣間見ることができる。 また熊川宿の北裏手には、北川という河川が流れている。鯖街道に平行して流れる北川は、船による水運にも用いられていた。北川の河川敷で荷揚げされた物資は、高島屋(逸見源右衛門家)の横を通る、御蔵道と呼ばれる路地を経て、現在の松木神社に位置する蔵屋敷へと運ばれていった。熊川宿にはこの御蔵道以外にも、奉行所のあったおなり道や、町奉行の足軽長屋へと続いていた長屋道などといった、味のある路地が多数存在しており、町並みのアクセントとなっている。 2009年04月訪問
【アクセス】
JR湖西線「近江今津駅」よりJRバス若江線「小浜駅行き」で約30分、「若狭熊川バス停」下車すぐ。 JR小浜線「小浜駅」よりJRバス若江線「近江今津駅行き」で約30分、「若狭熊川バス停」下車すぐ。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・小浜市小浜西組(重要伝統的建造物群保存地区) ・亀山市関宿(重要伝統的建造物群保存地区) ・矢掛町矢掛宿(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |