―豊岡市出石―
とよおかしいずし
兵庫県豊岡市 重要伝統的建造物群保存地区 2007年選定 約23.1ヘクタール 兵庫県の日本海側、コウノトリの飛来する但馬地方。その盆地の中、出石川と谷山川が合流するその地点に位置する出石は、江戸時代の初めに築城された出石城を中心に発展してきた城下町である。明治に入り、出石城が廃城になってからも、出石の町は城下町時代に整備された碁盤目状の町割をそのまま残し、また古い町家や商家、武家屋敷や寺社なども残っていることから、但馬地方における江戸時代の城下町の様子を良好に伝える貴重な町並みとして、2007年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 中世、出石の南にそびえる有子山には、山名氏の居城として此隅山城(このすみやまじょう)が築かれていた。しかし、此隅山城は永禄12年(1569年)、織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征によって落城。山名氏は同じ有子山のより高所に有子山城(ありこやまじょう)を築くが、それもまた羽柴秀吉の第二次但馬遠征によって攻め落とされ、結果、山名氏は出石から敗走する。その後、播磨国より移封してきた小出吉政(こいでよしまさ)が有子山城の城主となり、さらにその子である小出吉英(こいでよしふさ)が、慶長9年(1604年)にそれまでの有子山城を廃城にした上で、新たに出石城を築き上げた。 出石城は山の上に築かれていたそれまでの二城とは違い、有子山の麓に階段状の石垣を積んで作られた平山城である。上段から稲荷丸、本丸、二の丸、下の丸と続き、さらにその前を流れる谷山川の対岸に、堀で囲んだ三の丸が作られた。その三の丸に入るための大手門が、辰鼓楼(しんころう)が立つその場所である。辰鼓楼はかつて藩士の登城時間である辰の刻(午前8時)に太鼓を打ち、時を告げていたことから名がついた鼓楼である。現在のものは明治4年に建てられたもので、明治14年に藩医の池口忠恕が時計を寄贈して以降、時計台として出石のシンボル的存在となっている。 出石城を築城した小出吉英は、同時に城下町の整備も行い出石の町の基礎を作り上げた。城下町は大手門から北にまっすぐ伸びる大手門通りを中心とし、東西南北それぞれ600メートルほどの範囲に碁盤目状の道を通し、そこに商家や町家を配した。そのまるで京都のように整然と区画された出石の町は、但馬の小京都とも称されるほどだ。なお、小出氏は江戸時代中期に断絶。その後は岩槻藩より松平忠周(まつだいらただちか)が入封し、さらに上田藩と入れ替えで仙石政明(せんごくまさあきら)が出石藩に入り、以降、明治まで仙石氏が藩主を勤めていた。出石は蕎麦で有名であるが、この蕎麦は信州より仙石氏が蕎麦職人を連れてきたことでもたらされたのだ。 出石の町並みのうち、重要伝統的建造物群に選定されたエリアは、碁盤目状に区画された城下町、および出石城跡を含めたほぼ方形の範囲である。出石城跡のある有子山の麓付近では、谷山川に沿って神社仏閣が立ち並んでおり、また三の丸の外側から北にかけて広がる町人地では、間口が2間から3間で奥行きの広い町家や商家が集まっている。残念ながら、明治9年に起きた大火によって、江戸時代からの町並みは8割以上が焼失してしまったものの、すぐさま元の町割のままに復興がなされ、出石の町は今もなお近世城下町の姿を昔のまま今に留めている。 三の丸を囲む外堀の内側には、かつて武家屋敷が建てられていた。特に内町通りは上級武士の屋敷があった場所であり、今もこの通りには勝林寺、福成寺といった寺院に加え、立派な長屋門を持つ家老屋敷が残されている。この家老屋敷はかつて家老級の武士が住まっていた屋敷であり、一見平屋建てのように見えるが内部には隠し階段があり、実際は二階建てとなっている。刀の取り回しを難しくするため天井の高さも抑えられており、いかにこの屋敷が襲撃に備えた作りになっているかが良く分かる。 2009年03月訪問
【アクセス】
JR山陰本線「豊岡駅」より全但バス「出石行き」で徒歩約30分、終点下車すぐ。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・篠山市篠山(重要伝統的建造物群保存地区) ・朝倉市秋月(重要伝統的建造物群保存地区) ・郡上市郡上八幡北町(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |