篠山市篠山

―篠山市篠山―
ささやましささやま

兵庫県篠山市
重要伝統的建造物群保存地区 2004年選定 約40.2ヘクタール


 兵庫県の中東部、周囲を丹波の山々に囲まれた盆地の中に篠山はある。江戸時代に入った直後の慶長14年(1609)、いまだ力を持っていた大坂の豊臣氏を封じるため、京都から山陰・山陽へ至る交通の要所であったこの地に篠山城の建設が開始された。この築城は各国の諸大名が金と人を出し合って造営する、いわゆる天下普請であり、縄張りは築城の名手として名高い藤堂高虎が担当していた。篠山城が完成すると、それまで篠山にあった八上藩を廃藩にして篠山藩を立藩し、篠山城を中心に城下町が形成されていく。城下町篠山の誕生である。




西新町、御徒士町通りの武家屋敷群

 篠山の町並みは、篠山城を中心としてその周りを囲むように形成されている。まず篠山城の外堀を取り囲むように武家町が作られ、次に城の東部、北部の武家町外周に沿うように街道が通され商家町が作られた。その町割りは現在にも踏襲されており、各所にその名残を見ることができる。篠山重伝建造に含まれている範囲は、篠山城跡一帯と、城跡西部の西新町、城跡南部の南新町にそれぞれ広がる武家町、それと城跡南東部に位置する河原町の商家町一帯である。城跡、武家町、商家町のいずれもが良好に残り、しかも同一の重伝建に含まれるのは篠山のみと非常に珍しい。




茅葺屋根の武家屋敷が建ち並ぶ

 西新町の武家町は、主に篠山城の外堀に面した上級武士の屋敷群と、その一本西に通る御徒士町(おかちまち)通りに沿った下級武士の屋敷群から構成されている。御徒士町通りはその名の通りかつて徒士(かち)たちが住んでいた通りであり、現在も茅葺入母屋屋根の主屋や土蔵、土塀に門などを持つ武家屋敷が連続して建ち並び、良好な武家町景観を保っている。一般的な屋敷の敷地は間口8間に奥行き25間。広々とした道路に向けて門があり、門から2間ほど後退したところに主屋がある。さらに主屋の奥には庭園や土蔵、竹やぶなどが配されている。




12代藩主青山忠裕が老女小林千衛の為に建てた小林家長屋門

 堀沿いの上級武家屋敷では、御徒士町通りの下級武家屋敷よりも広々とした区画がなされており、格の高さが感じられる。残念ながら当時の建造物はそれほど多くは残っていないものの、南側には古い武家屋敷がいくつか残り、江戸時代末期の長屋門も現存している。付近には10代藩主の青山忠高が明和3年(1766年)に創設した藩校「振徳堂」の跡地もある。また、城跡の南側に位置する南新町には足軽たちの屋敷が存在していた。古い建物こそ少ないものの、敷地の背後には竹林が茂り、武家町らしい落ち着いた風情を見ることができる。




緩やかに曲がる河原町の町並み

 武家町の外側を囲うように作られた篠山の商家町は、全体的にそれほど開発されておらず昔のまま残っている部分が多いが、その中でも特に状態が良いのは城跡南東部から東へ延びる河原町である。この河原町は京都から篠山に入るその入口に位置しており、篠山で最も初めに開かれ、そして最も賑わっていた町であった。町の入口という要所であるが故、その道はカーブを巧みに利用して見通しが利きにくいように設計されており、また有事の際には出城として利用できるよう、寺院も数多く配置された。




土蔵が建ち並ぶ丹波古陶館

 篠山の商家町の特徴は、丹波地区特有の妻入り商家建築がずらりと並ぶ光景にある。妻入りとは切妻屋根(開いた本を被せたような、二枚の斜面からなる屋根)の妻部分(傾斜の無い面)に玄関が開く様式のことで、必然的に間口は狭くなるが、その代わり奥行きは深いものとなる。河原町では間口は2間から3間半、奥行きは20間から22間といったものが一般的だ。壁は白漆喰で塗られ、一階には格子がはめられていることが多い。二階部分には虫籠(むしこ)窓が開き、袖壁や庇なども付く。河原町で最も規模の大きな商家は川端家と西坂家で、これらは他の商家より遥かに間口が広く、9間以上もある。

2009年03月訪問




【アクセス】

JR福知山線「篠山口駅」より神姫グリーンバス「篠山口駅行き」で約15分、
「本篠山バス停」下車、徒歩約5分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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