三好市東祖谷山村落合

―三好市東祖谷山村落合―
みよししひがしいややまそんおちあい

徳島県三好市
重要伝統的建造物群保存地区 2005年選定 約32.3ヘクタール


 徳島県の山岳地帯を西に流れる祖谷川。その水流は緑の山々を長きに渡って削り、深い渓谷を作り出した。祖谷渓を抱く祖谷の地は、人界より隔絶されたまさに秘境と言うに相応しい土地であり、古くから平家の落人伝説が語られてきたところでもある。険しいV字谷の連続から成る地形ゆえ平地はほとんど無く、この地に生きる人々は山の斜面を切り開き、石垣を積んでわずかな平地を造成して、そこに家や畑を築き暮らしてきた。祖谷の東部、奥祖谷と呼ばれる地域にある落合集落もまた、そのようにして作られた東祖谷山村集落の一つである。




斜面にへばり付くように建つ民家
右下には収穫した稲や蕎麦を干す「ハデ」が組まれている

 落合集落をはじめとする東祖谷山村集落の正確な起源は定かではないものの、南北朝時代には剣岳近くの有力山岳武士であった南朝方の三木氏、木屋平氏の元、菅生氏、西山氏、落合氏、徳善氏といった祖谷の武士たちが南朝側に付き、北朝足利方の阿波守護である細川氏と戦ったという記録が残されている。これら落合氏など武士の名は、今も東祖谷の集落名として残されているものばかりであり、このことから中世の頃には既に落合をはじめとするいくつかの集落が祖谷に形成され、ある程度の力を持っていたと考えられる。平家が祖谷に落ち延び、開拓したという伝説も、あながち眉唾では無いのかもしれない。




家の側にはその家の古い墓がある
明治時代より前はこのように家の側に土葬で埋葬していた

 落合集落はちょうど祖谷川と落合川の合流地点、その山の裾から山頂近くまでの山腹を切り開いて作られており、集落内の高低差は下から上まで390mにも及ぶという。急傾斜に沿って広がる田畑の中に、江戸時代中期から昭和初期にかけて建てられた古民家が散在し、その家々を縫うように里道(りどう)と呼ばれる昔ながらの細道が巡らされている。人々は今でもこの里道を使って家屋や田畑を往来し、生活を送っている。このように、田畑、家屋、里道が一体となった落合集落の光景は、極めて壮大かつ特異な祖谷地方ならではの集落景観であると言える。




立派に組まれた緑色片岩の石垣

 急斜面に存在する落合集落に平らな土地は皆無に等しく、人々は斜面に石垣を築いてわずかな土地を作り出し、そこに家屋や耕作地を築いて生きてきた。これら家屋の土台となる石垣は、祖谷の谷間で採れる緑色片岩が使われている。この石は平たく割れる変成岩であり、若干青みがかっているため青石とも呼ばれている。主に徳島県や和歌山県で産出されるもので、徳島城や和歌山城の石垣にも用いられている。その伝統的かつ独特な表情を見せる青石の石垣もまた、祖谷の集落景観を形成する一つの重要な要素である。




昔の姿に復元中の長岡家
外壁にはひしゃぎ竹が張られている

 落合集落の人々は、近世にはタバコやジャガイモなどを栽培して生活し、また昭和の頃にはそれらの他に麦や水陸稲を育て、養蚕なども行われていた。民家の屋敷は平入りの萱葺き寄棟の主屋を中心とし、納屋や隠居屋などの付属屋が並んで建つ。主屋は居住空間である「ウチ」と、客間である「オモテ」が基本であり、その二室の間に「ナカノマ」と「ネマ」と呼ばれる部屋が前後に並んで存在する、「中ネマ三間取」という間取りが一般的だ。この間取りは祖谷型民家の特徴でもある。壁は土壁だが、外側をひしゃぎ竹と呼ばれる編んだ割竹で覆い、仕上げているのがユニークだ。




鎮守の杜に囲まれた三所神社

 集落の中には主屋の側に墓地がある家もある。今でこそ人が亡くなると火葬して共同墓地に葬るものの、かつては家ごとに墓地があり、亡くなった人はその家の墓地に土葬される習慣があった。また集落のほぼ中央には三所神社が祀られており、開拓された斜面の中にこんもりと茂るその鎮守の森には巨木も多く、神社共々集落の人々に大事にされてきたことが分かる。他にも落合には薬師堂などのお堂がある他、箱型の祠があちらこちらに点在しており、その辺りからも人々の信仰心を伺い知ることができる。

2009年08月訪問




【アクセス】

JR土讃線「阿波池田駅」より四国交通バス「久保行き」で約1時間50分、「落合バス停」下車すぐ(本数が少ないので時刻表を要確認)。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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