―雲仙市神代小路―
うんぜんしこうじろくうじ
長崎県雲仙市 重要伝統的建造物群保存地区 2005年選定 約9.8ヘクタール 島原半島北部沿岸のほぼ中央に位置する神代(こうじろ)小路(くうじ)は、江戸時代中期の寛文3年(1663年)に神代鍋島氏四代目の鍋島嵩就(なべしまたかなり)が築いた武家町である。中世に鶴亀城が築かれていた台地の東側に位置しており、濠代わりの神代川、みのつる川によって取り囲まれた東西約250メートル、南北約450メートルの土地に、神代鍋島氏の屋敷を中心とした上級家臣の屋敷が配されていた。その地割は現在もほぼ変わらず継承されており、江戸時代に建てられた武家屋敷も現存する。路地には石垣や生垣が連なっており、水路や屋敷林などといった環境要素と相まって、江戸時代から変わらぬ武家町の風情を今に伝えている。 有明海に面した神代の地は、古くより島原半島と佐賀を結ぶ海上交通の要衝であった。元は神代氏の土地であり、南北朝時代に神代貴益(こうじろたかます)が鶴亀城を築いている。鶴亀城は難攻不落の城とされ、天正12年(1584年)の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」では龍造寺軍の本陣となり、有馬・島津連合軍の攻撃を防いだという。天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉の国分により島原半島の北部沿岸は佐賀藩に組み込まれ、その後の江戸時代初期の慶長13年(1608年)には佐賀藩の初代藩主、鍋島直茂(なべしまなおしげ)の兄にあたる鍋島信房(なべしまのぶふさ)の所領となり、以降は明治維新まで神代鍋島氏が陣屋を置いて島原半島北岸部を統治していた。 神代鍋島氏の初代から三代までは佐賀に在住したままの代官支配であったが、四代の鍋島嵩就からは神代の地に住むようになった。今に残る武家町は、この嵩就によって築かれたものである。嵩就はそれまで散在していた家臣たちを一箇所にまとめようと考え、鶴亀城の西側を流れていたみのつる川の流路を東側に付け替えて濠とし、その内側の水田を埋め立てて宅地を造成、武家町として整備したのだ。明治維新を迎えると士族が財力を失い、通常の武家町ならば荒廃、細分化するものであるが、神代小路では嵩就の頃より林業や養蚕業などの産業が盛んであったことから、また領立の学校が整備され教育が進んでいたことから、屋敷を維持することができたという。 神代小路の路地構成は、南から北へ上小路、本小路と続き、東に折れる横町小路を中軸とし、上小路と並行する今小路、本小路と並行する安光小路、および上小路と今小路を繋ぐ横道から成る。地区への入口にあたる三ヶ所、および上小路と本小路の間には枡形が設けられていたが、現在は存在しない。路地に連なる石垣は家の格によって工法が異なり、切石積、玉石積など様々である。塀の上に直径10センチメートルほどのつぶて石を載せる石垣もあるが、これは有事の際に投擲するための備えである。生垣は笹竹やマキ、イスノキなどで作られている。中でも矢竹と呼ばれる竹は矢として使うことができ、有事に備えた武家町ならではの特徴を目にすることができる。 神代小路の北西端、鶴亀城跡に食い込むように敷地を構えているのは神代鍋島氏の屋敷である。街路から下がった位置に慶応元年(1865年)の長屋門を置き、その間には家臣の屋敷を挟んでいた。立派な車寄を持つ主屋は昭和6年(1931年)の竣工で、その背後には明治23年(1890年)の御座敷、万延元年(1860年)の隠居棟、明治27年(1894年)の土蔵と続く。いずれもかつての領主の屋敷にふさわしい立派で丁寧な造作であり、幕末から昭和初期にかけての建物が複合的に残る、島原地域における近代和風建築の代表例として貴重とされ国の重要文化財に指定されている。座敷から見渡す庭園は大正7年(1918年)の造営で、鶴亀城の二の丸跡を利用して築かれている。 路肩と屋敷の裏手には、全部で5本の水路が通されている。各家はそれぞれ庭園を築いているが、池泉に用いる水はこれらの水路から取り入れている。神代小路に存在する建物は江戸時代中期から後期にかけて建てられた武家屋敷や長屋門のみならず、明治時代から昭和初期にかけて建てられた近代和風住宅や学校の校舎なども混在しており、神代小路が経てきた重層的な歴史を感じることができる。また裏通りにあたる今小路南端の袋小路には、「下坊」と呼ばれる墓地が存在し、神代鍋島家の墓碑が並んでいる。川に面した突端部分と、墓地を置くにしては少々奇妙な場所にあるが、これは川の対岸に位置する常春寺から一番近い場所を選んだためである。 2014年10月訪問
【アクセス】
島原鉄道島原鉄道線「神代町駅」から徒歩約5分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・安芸市土居廓中(重要伝統的建造物群保存地区) ・日南市飫肥(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |