日南市飫肥

―日南市飫肥―
にちなんしおび

宮崎県日南市
重要伝統的建造物群保存地区 1977年選定 約19.8ヘクタール


 宮崎県南部、天然の良港として知られる油津(あぶらつ)港から遡ること約8キロメートル。大きく蛇行する酒谷(さかたに)川を外濠として飫肥城とその城下町が広がっている。戦国時代、飫肥は油津港を巡る島津氏と伊東氏の攻防が100年以上も続いた前線の地であり、また江戸時代には現在の日南市全域を統治する飫肥藩の城下町として藩内の行政を担っていた。かつての城下町には今もなお、江戸時代の初期までに築かれた町割がそのまま残っており、整然と通された各路地には石垣や生垣が連なるなど、武家町らしい町並みを見ることができる。商家町にあたる本町通り(国道222号線)は道路拡張による破壊を受けてはいるが、小藩における城下町の典型例として貴重である。




飫肥城大手門前の風景
大手門は廃城令で棄却されたが、資料を元に昭和53年(1978年)復元された

 飫肥城の築城年代や築城主は定かではないが、一説によると南北朝時代、宇佐八幡宮の社人の出自である土持(つちもち)氏が築城したとされる。土持氏は室町時代末期に没落し、代わりに伊東氏が台頭した。薩摩の島津氏は伊東氏の南進を恐れ、志布志城主の新納忠続(にいろただつぐ)を飫肥城に入城させている。戦国時代突入後の文明16年(1484年)、伊東氏は飫肥城へと侵攻した。一時は当主の伊東祐国(いとうすけくに)が戦死するなど敗退したが、その後も断続的に攻撃を繰り返し、ついに永禄10年(1567年)、祐国の孫にあたる伊東義祐(いとうよしすけ)が飫肥城を奪取する。しかし元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫した伊東氏は著しく衰退してしまう。




大手門の横馬場通りは、上級家臣の屋敷地であった

 伊東氏は国を追われ、日向国は島津氏が支配することとなった。義祐の子である伊東祐兵(いとうすけたか)は豊臣秀吉に仕官し、秀吉の九州征伐の際には道案内役を務めている。その功績が認められ、祐兵は天正16年(1588年)にかつての本拠地である飫肥を安堵された。関ヶ原の戦いにおいては東軍に付き、以降、江戸時代を通じて伊東氏は飫肥藩を統治することとなる。現在の城下町は、伊東氏が大名に返り咲いた安土桃山時代から江戸時代初期にかけて整備されたものだ。飫肥城が位置する小高い丘の南側、酒谷川によって三方を取り囲まれた、南北850メートル、南北950メートルの範囲に広がる城下町は、東西七本、南北三本の街路によって整然と区画がなされている。




重厚な石垣と門構えが残る大手門通りの武家屋敷

 飫肥城に近い横馬場通りなどには上級家臣が屋敷を構え、その南には中級家臣の屋敷が並ぶ後町通り、商家町の本町通りと続いている。さらに南の酒谷川に近い前鶴通りには下級家臣や御用医師、御用職人が住んでいた。東に位置する中町や旭町は町家が並ぶ町人地である。このうち重伝建に選定されたのは、横馬場通り、後町通り、前鶴通り、それらを南北に貫く大手門通りに飫肥城跡の一部を加えた範囲である。武家町の各通りには、地元で採られた飫肥石や玉石を用いて石垣が築かれ、生垣や土塀が連続している。屋敷の入口には身分に応じて長屋門や薬医門といった多様な門を開けており、その内側には主屋や屋敷林が顔をのぞかせるなど、武家町の情緒を醸している。




飫肥藩の藩校である「振徳堂(しんとくどう)」
主屋の一部と井戸屋、長屋門が現存している

 横馬場通り北側の常真馬場通りには、かつての藩校「振徳堂」が存在する。これは飫肥藩第12代藩主の伊東祐民(いとうすけたみ)が設置した学問所をベースとし、その後の天保2年(1831年)に第13代藩主の伊東祐相(いとうすけとも)が再興し、孟子の一説より「振徳堂」と名付けたものだ。飫肥藩士の子弟は必ず振徳堂に入学しなければならず、儒教の教書である「四書五経」や中国の古典文学である「文選」などを学んでいた。武芸においても、剣術や槍術、弓術、馬術などから必ず二流を習うこととなっていたという。なお、藩士以外でも希望すれば入学することができたが、通常の町人や農民は主に一般の家塾において習字や算術を学んでいたという。




伊東祐帰(いとうすけより)の屋敷として建てられた豫章館(よしょうかん)

 大手門のすぐ側には豫章館と呼ばれる屋敷が存在する。元は飫肥藩の家老であった伊東主水(いとうもんど)の屋敷地であったが、明治2年(1872年)に飫肥藩知事となった元第14第藩主の伊東祐帰によって屋敷が築かれた。立派な屋敷構えと庭園を持つ、格式の高い武家屋敷である。また飫肥が輩出した名士として、外交官の小村寿太郎(こむらじゅたろう)が挙げられる。下級藩士の息子として、大手門通りに面した生家に生まれた小村は、明治34年(1901年)に第1次桂内閣の外務大臣に就任し、明治35年(1902年)には日英同盟を強く主張して締結に持ち込んだ。また明治38年(1905年)にはポーツマス条約の全権大使として講和に臨み、日露戦争を終結させた人物である。

2014年09月訪問




【アクセス】

JR日南線「飫肥駅」より徒歩約15分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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