出水市出水麓

―出水市出水麓―
いずみしいずみふもと

鹿児島県出水市
重要伝統的建造物群保存地区 1995年選定 約43.8ヘクタール


 鹿児島県の北西端、熊本県との境に位置する出水(いずみ)の地は、江戸時代には国境を守る防衛の要として最重要視されていた。独自の藩体制を築いていた薩摩藩は、肥後国との間に「野間之関」を設け、二重鎖国ともいえるほどの厳しい出入国管理を行っていた。中世の山城である出水城(亀ヶ城)の北麓、米ノ津川と平良川によって三方を取り囲まれた高台には、薩摩藩内に整備された外城(とじょう)のひとつとして武家町が築かれ、郷士を集住させて国境を堅く守備していた。明治維新後も武家町の構成は大きく変わることなく現在にまで受け継がれ、整然と碁盤目状に連なる街路に沿って石垣や生垣が連なる、武家町らしい風格ある町並みを今に残している。




出水麓の武家屋敷表門は、控柱付きの腕木門がほとんどだ

 江戸時代、薩摩藩は極めて膨大な人数の武士を抱えていた。武士の人口比を見ても、全国平均が約5%であったのに対し、薩摩藩は約26%と比較にならないくらい武士率が高いことが分かる。薩摩藩主島津氏の居城は鹿児島城であるが、城内の武家町にはとても納まり切れる数ではなかった。そこで薩摩藩が採った方法は、領内の110ヶ所にも及ぶ支配拠点に武家町を築き、そこにその土地の武士を住まわせる「外城制」であった。これは戦国時代に島津氏が行っていた「地頭・衆中制」の流れを汲むものである。地頭・衆中制ではひとつの地域の各所に武士を住まわせていたのに対し、外城制では地域の中心を担う村に武家町を築き、郷士を集住させるようにした。




地頭仮屋の跡(現出水小学校)に残る御仮屋門
慶長7年(1602年)頃に藩主の島津家久が帖佐(ちょうさ)から移築したと伝わる

 外城の中核を成す武家町は「麓(ふもと)」と呼ばれ、また農業地は「在(ざい)」、商業地は「野町(のまち)」、漁師町は「浦(うら)」と称されていた。そのうち麓は主に中世山城の山麓に築かれ、「地頭仮屋」と呼ばれる行政庁を中心に武家屋敷が整然と配され、小城下町といった様相を呈していた。数ある外城の中でも、国防の要所に位置する出水の麓は最も早い時期に築かれ、なおかつ藩内最大規模の武家町でもあることから、その後に築かれた外城のモデルになったという。武家町の整地は慶長4年(1599年)から始められ、初代地頭の本田正親(ほんだまさちか)から第3代地頭の山田昌巌(やまだしょうがん)の治政まで、約30年にも渡り続いたという。




南北に真っ直ぐ伸びる諏訪馬場
街路は屋敷地より一段低く、大雨の際には水路となって屋敷を守った

 出水麓の武家町は、東西約800メートル、南北約700メートルの範囲に渡る。東西四本、南北五本の街路を骨格とし、各通りに沿って川原石の玉石垣が連なっている。各区画に配された武家屋敷は内部で互いに繋がっており、すべての門を閉ざすことで、ひとつの陣になるのである。また屋敷地は街路よりも一段高く整地されており、石垣の上に植えられている生垣も相まって、街路から敷地内の様子をうかがうことができないようになっている。一方で敷地内からだと石垣と生垣の間から街路の様子を透かし見ることができるといった、まさに防衛を強く意識した作りとなっている。また台風などで大雨が降った際などには一段低い街路が水路代わりとなり、家屋への水害を防いでくれる。




郷の噯(あつかい)役を担っていた竹添家住宅

 出水麓の街路のうち、町外から地頭仮屋への導線にあたる竪馬場通りと仮屋馬場通りはいずれも道幅が極めて広い。これは馬術の訓練をする馬場として築かれたということのみならず、藩主が参勤交代などで仮屋に宿泊する際、郷士たちが道の両側で平伏して迎えるためでもあったという。この竪馬場通りと仮屋馬場通りが交わる地点、御仮屋跡に最も近い重要な位置に屋敷を構えていたのは、江戸時代中期から後期にかけて代々「組頭」や「噯」役を務めていた竹添家である。江戸時代中期になると麓の軍事的な役割が薄れ、郷士を束ねる地頭も鹿児島城下に住むようになった。その地頭に代わり、周辺地域の実質的な支配にあたっていたのが「噯」「組頭」「横目」の麓三役である。




弁柄の赤壁が印象的な税所(さいしょ)家住宅の上座敷

 竹添家住宅に隣接する税所家住宅は、出水麓の成立と同時期の慶長4年(1599年)に加世田より移住してきた上級郷士である。竹添家と同じく噯役などとして政務に携わってきた。その屋敷は式台玄関を構え、備中の弁柄を混ぜた赤壁が印象的な上屋敷や18畳の広間を持つ極めて立派な武家屋敷であり、明治初頭の西南戦争では政府軍の軍議場として使われたという。玄関横には弓的場が設けられ、雨天の際にも弓の鍛錬ができるようになっている。また囲炉裏の横には床下へと通じる抜け道が用意されており、奥座敷の天井裏には隠し部屋が設けられているなど、有事の際に女子供を隠すための設備もあり、武家屋敷ならではの工夫を随所に見ることができる。

2014年10月訪問




【アクセス】

肥薩おれんじ鉄道線「出水駅」より徒歩約30分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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