南さつま市加世田麓

―南さつま市加世田麓―
みなみさつましかせだふもと

鹿児島県南さつま市
重要伝統的建造物群保存地区 2019年選定 約20.0ヘクタール


 江戸時代、薩摩藩は領内に「外城(とじょう)」(18世紀後半以降は「郷(ごう)」)と呼ばれる計113箇所の行政区画を設け、それぞれに「麓(ふもと)」と称する武家町を置いて地域の統治を行なっていた。薩摩半島の南西部に位置する加世田もまた麓のひとつであり、加世田川の西岸にたたずむ「別府城跡」の丘陵を取り囲むように武家町が広がっている。自然地形に沿って緩やかに湾曲する二本の街路を中心に、武家屋敷の形式を受け継ぐ主屋や門、敷地を取り囲む石垣や生垣、水路やそれに伴う石橋などが現存しており、かつての武家町の様相を良好に留めていることから、東西約720メートル、南北約850メートルの範囲が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。




集落の南端には、加世田に隠居していた島津忠良を祀る竹田神社が鎮座する
元は忠良の菩提寺であったが、明治の廃仏毀釈で破壊され神社として復興された

 加世田の名が史料上に登場するのは、鎌倉時代初頭の建久8年(1197年)に作成された『薩摩国図田帳』に見られる「加世田別府」が初出である。12世紀後期に荘園の役人として当地に入った別府五郎忠明(べっぷごろうただあき)が別府城を築いたとされ、この頃には城を中心とする集落が形成されていたと考えられる。別府氏は応永27年(1420年)に島津宗家の島津久豊(しまづひさとよ)に降り、加世田は出水(いずみ)を本拠とする薩州島津家が治めることとなる。しかしその後に城主が謀反を起こしたことで、天文8年(1539年)に伊作(いざく)島津家の島津忠良(ただよし)が別府城を攻め落とした。忠良は日新斎(じっしんさい)の名でも知られ、島津氏中興の祖として賞されている。




犬追馬場に見られる武家屋敷の石垣とイヌマキの生垣

 加世田麓の武家町は、別府城の西側を南北に通る「鴻巣(くるす)馬場」と、城の北側を東西に通る「犬追馬場」の二つの主要路を中軸として広がっている。そのうち鴻巣馬場は、薩摩半島の南西端に位置する古代からの港町「坊津(ぼうのつ)」へと通じる街道筋を兼ねている。どちらの街路も、自然地形に沿って緩やかな湾曲を見せているのが特徴的だ。加世田と同じく麓が置かれていた「出水(いずみ)」「入来(いりき)」「知覧(ちらん)」の武家町では直線的な街路が整然と配されているが、これらは近世に街路の整備が行なわれていたり、あるいは近世に新設された麓であるためで、より古くは加世田のように湾曲する街路に武家屋敷が連なる麓が一般的であったと考えられている。




緩やかに湾曲する鴻巣馬場に連なる武家屋敷と益山用水

 江戸時代に入ると薩摩藩の直轄地となり、一国一城令で廃城となった別府城跡に行政庁の「地頭借屋(じとうかりや)」が置かれたが、享保12年(1727年)に北西の坊津街道沿いへと移されている。明和5年(1768年)には北側に広がる加世田平野に新田を開発すべく、益山(ますやま)用水が坊津街道に沿って開削された。天保14年(1843年)の『加世田再撰帳』には益山用水に石橋が架けて門を開く武家屋敷が描かれている。明治時代以降も加世田は南薩地域における政治と経済の中心地として発展していった。大正3年(1914年)に南薩鉄道が開通すると、町の中心市地は北側の加世田駅周辺へと移り、麓の武家町は大きく改変されることなく現在にまで残されたることとなった。




地頭借屋跡に隣接する、立派な石積の門構えを見せる武家屋敷

 各武家屋敷の敷地は300坪前後が平均的で、特に地頭借屋跡の周囲は規模が大きく500坪の敷地を持つ家も存在する。敷地の周囲には石垣を築いて路地よりも地盤をやや高く造成し、石垣に沿って生垣が連なっている。石垣は凝灰岩の切石積がほとんだが、一部に割石積も見受けられる。生垣には主に防火や防風に優れたイヌマキが用いられているが、これは藩主の命により率先してイヌマキを植えてきた薩摩藩の歴史を反映するものだ。各屋敷は路地から少し後退させて腕木門や石柱門を構え、路地と棟を直交させる形で主屋を建て、その周囲には土蔵などの附属屋を配している。鴻巣馬場の西側に敷地を構える家では益山用水に石橋を架け、その脇に石段の洗い場を設けている場合もある。




明治後期に築かれた「旧鯵坂(あじさか)家住宅」
主屋、門、蔵、石塀の4件が国の有形文化財に登録されている

 加世田麓には藩政期の武家屋敷をはじめ、明治期の近代和風住宅、昭和初期に医院として建てられた下見板張の洋風建築など、江戸時代末期から昭和初期にかけて築かれた建造物が残っている。主屋は入母屋造の平入、桟瓦葺で平屋建を基本とし、梁間三間から四間ほどの上屋(じょうや)の三方に下屋(げや)をまわす構造である。平面はオモテと呼ばれる居室部とナカエと呼ばれる台所部から構成されており、そのうちオモテはゲンカン、ツギノマ、ザシキを矩折に配し、背面側に寝室であるコザを設けている。明治中期には三室を一列に並べるものも現れるが、正面側に縁を巡らすなど、ザシキが縁を介して庭園に面するという形式は昭和初期になっても継承されている。

2021年10月訪問




【アクセス】

・JR鹿児島本線「鹿児島中央駅」から鹿児島交通「加世田行き」で約1時間25分、「加世田バス停」下車、徒歩約10分。
・JR鹿児島本線「伊集院駅」から鹿児島交通「加世田行き」で約1時間、、「加世田バス停」下車、徒歩約10分。
・「知覧バス停」から鹿児島交通「加世田行き」で約40分、「加世田大橋バス停」下車、徒歩約5分。

【拝観情報】

・町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

・「月刊文化財」令和2年1月(676号)
南さつま市加世田麓|国指定文化財等データベース
加世田麓まち歩きマップ|南さつま市観光協会

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